元カノ襲来
「で、幸人。ストーカーちゃんとはその後、どんな感じよ?」
「……声が大きいぞ」
にやにや笑いで問いかけてきたのは、友人にして同僚の
二人しかいないとはいえ、仕事終わりの会社のリフレッシュルームである。いつ人が増えるとも限らないのに、この男は。
「相変わらずだよ」
「相変わらずってことは、過激なほどの攻めが続いてるってことかよ。カーッ、男前は辛いねえっ」
「声が大きいっつってんだろ」
「俺だったらいつでもウェルカムなんだが。固いねえ、お前さんは」
「アホ、相手は学生だぞ。迂闊なことしたら、俺の手が後ろに回るわ」
「ばれなきゃオーケーって考えはねえかー」
「あるか。不誠実すぎるだろ」
「へえへえ。道徳の見本みたいなやつだな、幸人は」
亨にはある程度のことは話してしまっていた。出会いのことも、プラモデルをあげたことも。
「ま、聞いてる分には、仲よくやってそうじゃん。いい加減、彼女にしてあげたらどうよ?」
「いつまで続くか分からんし。つーか、『あげたら』って大分、上から目線だと思うが」
前回会った時はプラモデルの話がしたくて、ついお茶に誘ってしまったが、後から振り返ってあれはどうだったかと思ってしまう。
竜禅寺も唐突に席を立っちまったしな。子供っぽくていい加減、見切りをつけられたのかも知れん。
それはそれで区切りをつけられたかもしれないが……子供っぽさが別れにつながったという事実は、俺の心に苦さを呼び起こしてしまった。
「そういやよ」
俺の内心を知ってか、亨は缶コーヒーを半分まで飲み、話題を転換するようだった。
こいつは浅慮なように見えてその実は注意深く人を観察していて、空気を読むことに長けている。俺がこの話題を続けることに抵抗があると察したようだった。
「知ってる?
……撤回、こいつは苦さの元凶である元カノの話を切り出してきやがった。
思わず目を細めた俺に対し、亨は肩をすくめて、へらへらとした笑いで答えた。
「怒んなって。お前が思い出したくないのは知ってるが、近況を知ってりゃ、ばったり会った時も対策が取れるってもんだろう?」
「……ばったりって、そんなことあり得るのかよ?」
「んー、それこそ近況次第だから、確率的には何とも言えんね」
自身なさげに頭をかく亨。
俺は一つため息をつき、視線を投げかけることで、先を促してみせた。
「千佳さん、破局したって。で、幸人との復縁を狙ってるっぽい」
誤解しようのない短い報告に、俺は一瞬、虚を突かれた。
破局とは、俺と千佳が付き合っていた頃の、千佳の浮気相手とのことだろう。で、復縁だって?
「……いつも思うが、お前はどうやってそんな動向を拾ってくるんだ?」
「そこは俺の人脈と人徳のなせる業だぜ」
「……大したもんだ」
何度か手法を聞いたことはあるが、今回も同じくいなされてしまった。亨としてはソースを明かす気はないらしい。
まあ、俺もそこまで真剣に聞きたいわけではないのだが。
「……復縁、ね」
その時の心境はどう表せばいいのだろうか。
未練があるわけではない。
怒りが湧いたわけではない。
いまさら何言ってんだ、という心底からの疑問しか感じない。
これは心情と言うより、単なる感想ではなかろうか。
俺は飲み干した缶を、いつも通りに缶のゴミ箱へと捨てた。
「情報提供、ありがとよ。飲んで帰るか?」
「やったぜ。報酬ゲット」
「一杯だけだからな」
「分かってらあ」
チャラい友人だが、気の置けないやつでもある。そういうやつとの会話は悪くない。
そんなやり取りを経て、連れだって会社のビルを出る。
「どこ行く、幸人?」
「そうだな……」
「……あの」
そこで横合いから声をかけられた。
声の主は女性。
落ち着いた大人のそれは、幸人が何度も聞いたことがあった。
振り返った先には、オフィススーツできっちりと固めた、ロングヘアの女性が所在なさげに立っていた。
「……亨。すげえなお前。さっきの今だぜ」
「いや、俺もびっくりだ。情報提供した甲斐があったわ」
「予言か? それとも予知か?」
「さすがに偶然だろ」
俺たちがこそこそと囁き合っていると、しびれを切らしたのかその女性が話しかけてきた。
「あの……久しぶり、幸人……と、藤井君……」
「……まあ。うん」
「お久しぶりです、添え物の藤井です」
「そ、そんなつもりじゃ……!」
俺は微妙な返答、亨はおふざけ。そのおふざけに対して焦ったような――
それがこの元カノの名前である。
大和撫子を体現したかのような黒髪で、泣きぼくろが色気を感じさせる。以前から線が細かったイメージはあったが……。
「……やつれたか?」
俺の指摘に千佳は、びくり、と身体を震わせた。そうして、恐る恐る俺を見上げた。
「……うん。色々あってね」
「……そうか」
それ以上、俺には何も言えなかった。そもそも、やつれたかとを聞いて、俺は一体どうしたかったのだろうか。
口をつぐんだ俺の代わりに、亨が俺の肩に手を置いて、明るく問いかける。
「で、何か用すか? 俺たち飲みに行くんで、手短にお願いしたいんすけど」
「……え、あ、あの」
直接的な亨の言葉に、まるで切り付けられたかのように千佳の表情が強張る。それでも、この機会を逃せば次はない、とばかりに気合を入れたのか、千佳の顔が上向いた。
「こ、これから時間あるかな? 幸人に話があって……!」
あくまでその視線は俺にしか向けられておらず、先ほど亨が発したセリフはどこかへ飛んでしまっているようだった。
「俺には時間も話もないかな。これから楽しい飲み会なんだ。じゃあな」
「ま、待って!」
肩に手を置いたままの亨ごと移動しようとした俺の手首を、千佳が掴んで止めた。細い指が食い込んでくる。
「ご、ごめんね? 怒ってるよね? それは当たり前だと思ってる。で、でも、お願い。少しでもいいから、話を聞いて欲しいの……!」
切実な訴えと言うのだろう、こういうのを。
俺はどこか他人事のように今の情景を見ていた。
「おい、どうする幸人」
「どうするって……」
退勤時のオフィス街だ、それなりに人通りも多い。これ以上の問答はいらぬ関心を集めてしまうだろう。
「亨。二杯奢ろうか?」
「んー、安い気もするが、しょうがねえか」
「助かるよ」
亨と短い会話を終えると、未だ手首をつかんだままの千佳に顔だけを向けた。
「亨と一緒なら話を聞く。それでどうだ?」
「え、あ……」
俺と亨に視線を往復させると、千佳は不承不承という感じで頷いた。
「そ、それで……お願い、します……」
「了解。亨、バー『HEAVEN』だ」
「話すには丁度いいかもな」
俺は、一瞬緩んだ千佳の手を振り切って歩き出した。
「あ……」
千佳の失意の声が耳朶を打ったが、俺は特に何も思わなかった。
亨は俺を真面目と言うが、冷たいだけなのかもしれないな。
「HEAVEN」はこじんまりとした、六席しかないバーである。しかもその席はすべてカウンターだ。
眼鏡と無精ひげがトレードマークの寡黙なマスターが一人で経営している。
予約なしではあったが、いつもことながら客は誰もおらず、俺たちは悠々と腰掛けることが出来た。いや、千佳は初めて来る店だからか、それとも久しぶりの俺の隣だからか、おずおずと言った感じで腰掛けた。並びは左から千佳、俺、亨である。
「シャンディガフ、お願いします」
「抹茶コーラで」
「あ、レ、レッドアイを」
俺、亨、千佳の順で注文する。それに無言で頷き手を動かし始めるマスター。
しばしの沈黙の後、亨はあっけらかんとした調子で話し始める。
「いや、久しぶりに来たけど、つぶれてなくて良かったな」
「聞こえるぞ、亨」
「いやだって、いっつもガラガラじゃん? 心配しちゃうよ」
「たまたま空いてただけだろ」
「だとしたら俺たちは常にラッキーだな。百パーセント座れてるぜ?」
「な、何度くらい来たことあるの?」
千佳が質問を投げかけてきた。俺は逡巡してしまったが、打てば響くように答えたのは亨である。
「十回目くらいっすかね? 奥まって分かりにくいところにあるけど、雰囲気はいいでしょ?」
「そ、そうだね。どこに連れていかれるんだろうって、ちょっと怖かったよ」
「確かに、初対面の人とかは連れていけませんね。千佳さんの言う通り、警戒されまくるんで」
「そ、そうなんだ」
二人の会話を、マスターの向こう側の棚を眺めやりながら聞いている俺。
思うのは、千佳はこんな自信なさげで頼りない態度が目立つ女性だっただろうか? ということだった。
俺の記憶の中の千佳は、静かな物言いの中に確かな芯を感じさせる、たおやかと言う表現が相応しい包容力ある女性だった。
千佳は「色々あった」と言った。
そのやつれ方と言い、自信をなくした様と言い、その色々が影響していそうではある。
俺を挟んだ二人のやり取りが続くうち、俺たちの前にそれぞれ注文した品が置かれた。
亨の前には緑。平常運転、オールグリーンということか。
千佳の前には赤。それはあたかも、今の切羽詰まった状況を現しているようにも見える。
俺の前には黄。それは俺の内心――警戒色にしか見えない。
そんな分析、あるいは穿った見方をしている間に、亨がグラスを持ち上げた。
「まあ、とりあえず乾杯という事で。明日もあるけど、今日はお疲れ様でしたー」
「……お疲れ」
「お、お疲れ様」
亨の音頭に、俺の目の前で小さくぶつかり合うグラスたち。
グラスを傾けると、心地よい刺激が喉を駆け降りる。そのおかげか知らないが、多少は喉の通りがよくなったと思う。
「そ、その。元気だった、幸人?」
「…………」
だと言うのに、喉はすんなり反応してくれない。
こういう時は、「どの面下げてそれを聞くんだ?」とでも返すんだろうな、と俺はどこか冷静に考えていた。
ただ、会話のとっかかりとしてはそれくらいしかないのだろうな、と別の部分が擁護する。
そうして、現状というか自分の近況を思い浮かべてみた。
元気だったか。
そう聞かれて俺は。
「ああ。元気だったよ」
口元を緩めて、千佳を見返すことが出来た。
けれど、そこに映るのは元カノではない。思い浮かべていたのは、最近、周囲をちょろちょろとしている元気な少女のことだった。
何かを感じ取ったのか、千佳は傷ついたような表情になった。涙目になり、小さく身体を震わせる。俺はそれに対して何もアクションしない。
「……そっか。そっかあ……!」
顔を伏せる千佳。グラスをぎゅっと両手で握って、込み上げてくるものを堪えているようだった。
「わ、わたし、こうして乾杯してね。大学のころに戻ったみたいだな、って。よく、私と幸人と藤井君とで、飲みに行ったなって。その内、私と幸人が付き合うようになってから、藤井君とはあんまり一緒しなくなったけど」
俺の視線は再びバーの棚に戻っていた。ああ、こんなお酒もあるんだな、と千佳の独白を聞きながら視線は走る。亨の視線も同じように、アラカルトのメニューボードにあった。
バーのマスターはいつの間にか奥へと引っ込んでいた。
「わたし、幸人のことは好きだったけど、一つ下だったし、子供っぽいところもあったから、どこか弟みたいな感じで見てたところがあって。大人になってほしくて、大事にしてたもの捨てちゃって……!」
俺のプラモデルのことか。だからって黙って捨てることはないよな。
「そ、それが後からお父さんの形見だってわかったけど、あの時、幸人本当に怒って……こ、怖くて、どうして分かってくれないのって悲しくなって落ち込んで……」
形見だったんだよ。分かることなんて何もない。
千佳の懺悔はまだ続くらしい。別に、ここは教会でも何でもないんだが。店名が悪いのか?
「そ、それで、会社の人に優しくされて……」
とうとう千佳は嗚咽しだした。
俺はため息をつくだけだったが、亨は「あーあ」と言わんばかりに顔を覆った。
「や、優しくしてくれて、慰めてくれて……相談に乗ってくれて、言いくるめられて気が付いたら……気が付いたらラブホテルにいて……魔、魔が、魔が差しちゃった……!!」
会社の人、というからには千佳よりは年上だったんだろう。そりゃあ、俺に比べたら包容力は上だろうな。もちろん、経済力も仕事の出来も、なにもかも。
「ゆ、幸人は優しくてまじめだったけど、そ、それがもう、物足りなさになっちゃって。ゆ、幸人のこと、もう子供にしか見えなくなってて……!」
それは振られるときにも言われたことである。それを今また繰り返すとは、いったいどういう了見なのだろうか。
不思議に思う俺とは対照的に、亨は苛立たし気な口調で切り込んだ。
「こっぴどく振ったらしいっすね。捨て台詞は『プラモデルと仲良くね』だったらしいじゃないですか」
「ご、ごめんなさいぃ……!」
亨のとどめに、突っ伏して号泣する千佳。
「おい、亨」
「だってよー。いつまで続くんだよ、これ?」
「俺だって知らねえよ」
普通だったら、泣いている女性を慰めるために何かすべきなのだろうと思う。けれど、どうにもその気にならない。
「そ、そうまでして幸人を振ったのに、なのにぃ……!」
まだ続くらしい。そう言えば、俺に話って何なんだ? この独演会に付き合えって事か?
「あの男、妻子持ちでぇ……! すぐに妻とは別れるって言ってたくせに、私の妊娠が分かると手のひら返して……!」
俺と亨の表情が、「うわあ」と言うものに変わる。千佳の爪がカウンターにめり込まんばかりだった。
嗚咽しながら顔を上げる千佳。長い髪から覗く双眸は、何もかもを呪い殺しそうなほどだった。
「妊娠は私の早とちりだったけど、何もかも会社にぶちまけてあげたわ。そいつは離婚して左遷、ざまあみろよ。私も慰謝料で貯金吹っ飛んで、部署移動で針の筵だけど……!」
で、現在につながるわけか。やつれていたのはそのせいか。なるほど、確かに「色々あった」んだな。
亨が長いため息をついて肩をすくめた。
「同情を誘う独り語り、お疲れ様でした。で? その長い前振りが今日、幸人に声をかけた事とどう繋がるんで?」
亨の指摘は図星だったのか、ぎくり、と身体を跳ねさせる千佳。すがるような視線の千佳の舌を、いつの間にか立ち上がっていた亨の冷淡な言葉が縫い留めた。
「生半可な覚悟で、その先を続けないで下さいよ。少なくとも、幸人は確かにあんたのことを好きだった。それこそ、結婚を視野に入れていたくらいにね。あんたに一方的に関係をぶち壊されて、幸人がどれだけ意気消沈していたことか」
「おい、亨」
「いいや、言わせろ。確かに、幸人にも足りない部分はあったでしょう。けど、それは未熟故ってもので、それこそあんたに支えて欲しかった。俺は所詮友人でそこまで携われない。けど、幸人がどれだけ苦労して来たか知っている。それはあんたも知ってただろう?」
興奮しているのか、亨の口調から敬語が抜けている。
千佳は震えを大きくする。何かを思い出しているのだろうか。
「あんたは幸人が独りだと知っていたくせに、下手に寄り添って捨てたんだ。もう一度言うぞ。そこから先、何か言うなら、相当な覚悟を示せよ」
「亨。分かったから落ち着け。一度座れ。もう一杯注文するか?」
「……ふー。柄にもない。マスター、赤ワインっ」
今度は怒りの赤か? それとも攻撃色か?
亨とは高校時代からの長い付き合いだが、軽薄そうに見えて時折こうして熱くなることがある。そこが好ましい奴なのも事実だが。
「幸人。幸人ぉ……!」
がしっと手首を掴まれた。爪が食い込んで痛い。
「……なんだよ」
「け、結婚って、本当に?」
「ああ。けど、俺は奨学金の返済もあったから、言いだせなかった」
「……そうだったんだ」
ぐっと唇を噛んだ千佳の瞳が、俺を覗き込んでくる。まだまだ自信なさげだったが、結婚まで考えていたという事実が力を与えたのだろう。その瞳には希望が覗いている。
「あのね、幸人に話があるって言ったでしょう?」
「ああ」
「あのね……やり直せないかな、私たち」
「いや、無理だろ」
意を決して言ったであろうセリフに、俺は軽く即答していた。
返された方の表情が歪む。それは、前もって分かっていたかのような反応だった。
「や、やっぱり。やっぱり、そうなんだね……! 幸人は、もう……!」
ぎりぎり、と俺の手首が食いつかれているかのように締まる。おいやめろ、折れる。いたたたた。
「そっかぁ。そっかあ……! でも、でもぉ……! あ、諦めきれないよぉ……! あいつと別れて思い出すのは幸人のことばっかりで……ゆ、幸人のこと子供っぽいって思ってたけど、優しかったし頼りになったし、私のこと大事にしてくれてたし……! 今度は私も幸人のこと、大事にしたいって……! ご、ごめんなさいぃぃっ……! 何度でも謝るから、許してください……! ねえ幸人ぉ、お、お願いぃ……! また私と一緒に、大学の頃みたいにやり直してください……!」
その懇願を冷淡に見下ろしている自覚のある俺。
視界の外で、亨が動向を窺っている気配も感じる。
亨にワインを出したマスターは再び店の奥へ消えてしまって、バーに流されているBGMに千佳の嗚咽が混じっている。
そんな現状でも、俺の胸に熱が灯ることはなかった。
そうした頭で、この懇願を受け入れた時の事を考える。
その後、何事もなく「千佳」と呼べるだろうか。
いや、何事もなく呼ぶことの方が異常ではないだろうか。
何の進歩もなく熱もなく退化したままでその名を呼ぶなんて、惰性ですらない。
大体、かつて結婚まで考えた女性から、不倫や妊娠と聞いて心が軋みもせずに引くなんて反応で済ませるだなんて、とっくに終わってる証拠じゃないか。
なぜか、ここで浮かんだのは竜禅寺のことだった。
あいつのことを未だに苗字でしか呼んでいない。
例えば、あいつを名前で呼ぶとしよう。
そう考えただけで、俺は自分の胸に禁忌の炎が灯る気配を感じ、慌ててそれを消すのだ。
「いや、無理だな」
だから、やはり返答は同じだった。
千佳の表情が絶望に染まり、手の力が緩む。せめてそっと、そこから手首を抜き、擦った。
ふと亨に目をやると、俺に親指を突き上げた拳と、いい笑顔を向けて来ていた。俯いている千佳には見えていないとは思うが。
……ああ、うん。お前、昔から千佳のことあんまり好きじゃなかったもんな。
「う、うええっ……!」
千佳が突っ伏す。
「よし、じゃあ話は終わりだな? 幸人、お前、支払いしてもう帰れ」
「ああ? それはどういう……」
あんまりな亨の物言いに抗議しかけたが、「ひっくひっく」とむせび泣く千佳を見て、このまま俺がいては彼女は顔も上げられないと気が付いた。
「……分かった。せめて送って行ってくれるか?」
「お優しいこったねえ。そのつもりだよ。こんなんでも、うら若き女性だしな」
「……お手柔らかにな」
手厳しい亨の態度に苦笑しながら、俺は支払いを済ませた。
「じゃあ、よろしく。すいません、マスター。お騒がせした埋め合わせはまたの機会に」
「ああ。おやすみ」
亨は朗らかな返答、マスターからは会釈はあったが、千佳からは泣き声が響くだけであった。
千佳の状態が気にかからないわけじゃなかったが、そうした俺が気にするのもどうかと思う。
俺はすっぱりと扉をくぐり、夜の街へと歩き出した。
一歩出て夜気に触れ、入り組んだ道を抜けるとそこはオフィスからほど近い繁華街で、目の覚めるようなネオンが出迎える。
「なんか、夢でも見てたみたいだな」
しかし、思い出してみてもさほど感慨もない。
無味乾燥。
そんな表現が出てきた。
「自分で思うより薄情なのかねえ、俺は」
昔は確かにあった、千佳に対する焦がすような思いは、終ぞ蘇らなかった。
思ったよりトラウマが根深かったと言えばそれまでだが、さすがに薄情すぎやしないだろうか?
その時、自問しながら帰路へと向かおうとする俺の傍に、横付けされる車があった。
後部座席の窓が開くのももどかしく、顔を覗かせて焦る声。
「幸人さんっ、無事!?」
「……竜禅寺」
慌てたそいつの顔を見たら、肩に入っていた力が、すとん、と抜けた気がした。
俺は苦笑しつつ、ガードレールの傍まで車に近づいた。
「習い事かなんかの帰りか? というか、無事ってなんのことだ?」
「え、ええ? も、もちろんそうよ? えっと、ゆ、幸人さんのピンチを感じ取って参上した次第なのよ!?」
「参上とはまた古風な言い方だな」
思わず、唇がほころぶ。
竜禅寺は熱にあてられたように顔を赤くした。
「や、やだ、なんか優しい笑顔……! 好きっ……! って、そうじゃなくって、いえ、とてもそうなんだけどお……うう、と、とにかく……」
「ピンチか? まあ、なんだかんだあったけど解決したよ。心配かけた上に無駄足踏ませたみたいで、すまんな」
「い、いえ!? あたしと幸人さんの仲じゃない、なんてことないわ!」
胸を張る竜禅寺。
その態度が清々しく心地よい。
さっきまでの無機質な感情を、強烈な風が消し飛ばしてしまったような気がした。
「ま、そういうことだ。遅くならないうちに帰れよ」
「お、送っていくわよ?」
「やめとくわ。どこに連れていかれるか何されるか分からんしな」
「え、ええ? そ、そんなこと……」
「視線が泳いでるぞ。それじゃあな、おやすみ」
「ええ!? お、おやすみなさい、幸人さーん!」
車で追いかけられないような経路で駆け出した俺の背中を、竜禅寺の声が叩いた。
それは、まるで俺の人生を励まして後押しするような力強さに満ちていた。
案外、今日はよく眠れそうだ。
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