第4話 メイドさんのお仕事

 アスファルトの道が続く住宅地。二階建ての家やアパートの並びを抜けて私たちは何度か交差点を曲がった。道の先に白い大きな建物が見えはじめて、それからその向こうに広がる青い空には少しだけ小さな雲が浮かんでいる。

「あーあ。私さ、ほんの少し前までは汗水流して仕事に生きる女の子だったっていうのにね。」

 黄色いスカートが歩くたびに揺れる。私の自慢の仕事着だ。大好きなメイド喫茶の制服、もう二度と活躍することはない私の大事な戦闘服だ。

「私さ、仕事に夢中でまだ本物の恋も知らずに生きるぴちぴちガールだったのに…。」

「ぴちぴち?なるほど、粋がいいってことね。」

「そこはせめて純粋って言ってよハルちゃん!」

 ハルちゃんに盛大なツッコミを入れてから私は大きく伸びをした。伸ばした身体に太陽の光が降り注いで、気持ちがいい。こんなに気持ちがいいのに私はもう死んでいるなんて、…うん。まだショックだ。仕方がないよね、だって数時間前までは私は生きている人間だって思っていたんだもん。

「もっと青春したかったなぁ‼」

 なんとか気持ちを切り替えたいと思い切り大きな声を出したら、予想以上に辺りに声が響いてちょっと恥ずかしい。隣でハルちゃんがふふっと笑っていて、それがまた余計に恥ずかしい。

「青春ね…好きな人がいない人生だって、それはそれでいいと思うわ。」

 うんうんハルちゃんの言うとおり。そうだよ、私だってそう思う。そう思って仕事に夢中になれたんだもん。でも流石にこうして人生の終わりを知らされたら、やっぱり二十二年の生涯で恋愛の一つくらいはしておけば良かったのかなとは思う。うちのお店、お客さんとの連絡は直接取らないようにとは言われていたけれど、プライペードは特に恋愛禁止じゃなかったし。

 ハルちゃんはどうなんだろう。私とは違って振る舞いが凄く落ち着いているし、何といっても着物も似合う素敵な女の子だ。雰囲気的にもいい人が居たんじゃないかなって思う。

「え、そういうハルちゃんは、その、好きな人いたの?」

「うん。」

 いやっ…やっぱりいたんだ。…ハルちゃん私よりもずっとずっと大人のお姉さんだった。いいなー憧れる、好きな人がいるって。

「えっと…付き合っていたりしたの?」

「お付き合いというか、主人がいたわ。」

「へ?」

 聞き間違いじゃないよね?お店のお客さんだけではなく本物のご主人様がいたっていうのか。ハルちゃんったら意識高すぎるパーフェクトメイドさんだったんだ。

「子どもも一人いたのよ。」

「へえ⁉︎ハルちゃんお母さんだったの⁉︎」

 待って。頭の整理をしようか、実里。いやいや、年齢的には至っておかしくはない。けれど大人なハルちゃんから本物の恋の話を少―しだけ聞こうと構えていた私にはもの凄い衝撃的な事実だった。彼女に子どもがいただなんてそれはかなり吃驚だ。どのくらいかと言うのなら私が死んだことの次にランクインするくらいのビックニュースだ。

「旦那さんとお子さんがいたの?」

「そう…主人も子どももいたのよ。でもずっと忘れていて。どうしてか記憶が曖昧で今も上手に思い出せないのよ。誰かを好きだった気持ちとか、大切な人がいたことは覚えているんだけど、肝心なその誰かが思い出せないのよね。」

「名前とか顔が分からないってこと?」

「そう……。」

 名前や顔が思い出せないのか。存在は思い出せるのに、思い出せない。それは悲しいしもどかしいだろうな。大切な人の顔だったら沢山見てきただろうし、名前もいっぱい呼んできただろうから。

「あとね、自分が何歳で死んだのか、未だに分からないわ。」

「どういう事?」

「断片的に覚えている記憶が、一体いつの記憶なのかが分からないの。こんな事があったな、って記憶はあるんだけど、その時の自分が何歳なのか分からなくて。病院のベッドに横たわる自分も、何歳なのかよく分からない。年齢の分かる記憶がごっそりと抜けてしまっていて、だからぼんやりしているのよ。」

 年齢の分かる記憶?うーん、私は思い出せる限りの記憶は、いつのものなのかちゃんと分かるけど、ハルちゃんは違うのか。

 私は小学生の時の記憶、中学高校の記憶。お父さんお母さんの記憶、それからメイドさんのお仕事をしている時の記憶…全部分かる。でももしもそれ以外の事を忘れてしまっていたとしたら。私は私の事を《村主実里二十二歳》だと思っているけれど、もしかしたら実際は二十二歳よりも歳上で、そこから死ぬまでの事を全部忘れているかもしれないって事もある。

「私、自分は二十二歳の女の子だと思っているんだけど、もしかしたらそうじゃない可能性もあるって事かな。」

 一応見た目も記憶にある二十二歳の姿のままだけど。死後の世界での見た目は、人によって変わるとでもいうのだろうか。

「そうね。例えば今の私は見た目は《片平ハル二十二歳》だけど、もしかすると実際にはもっと歳上の、そうね…おばあさんなのかもしれないわ。」

 おばあちゃん。二十二歳の見た目をしたおばあちゃん…。薄紫の着物を着たハルちゃんがこちらをじっと見ている。太陽の光で彼女の髪が銀色に見える。

「ハルちゃんが?あー…でもハルちゃんがおばあちゃんになったら、きっとこんな感じなんだろうなーってイメージは沸くかも。だってハルちゃんの滲み出る優しい感じ、なんか私のおばあちゃんに似ているもん。」

「そうなのね、なんかそう言われると嬉しいわ。」

「へへっ…。」

(こういう時の返し方が、やっぱり落ち着いていて大人だよな……。)

 私だって十分大人なのに。もう二十二歳だよ?いやもしも生きていた頃の私がもっとおばあさんまで生きていたとしたら、二十二歳の私はまだひよっこの小娘かもしれないけれどさ。隣ではハルちゃんが変わらずニコニコと笑っている。

「出会った時から思っていたけれど、実里ちゃんって元気で表情が豊かで本当に見ていて和むわ。実里ちゃんがおばあさんだったら一体どんな感じなのかしらね。」

 ハルちゃんって時々面白い発想するよね。言葉の選び方も何だか私にはないものを持っているし、なんだか憧れる。私がおばあちゃんになったら?そうだな、永遠と一人で喋り続けているおばあちゃんだろうな。それからどうだろう、ばあや喫茶で働いているかもしれない。そのくらい私はメイドさんのお仕事が大好きだから。

「多分今の私とそう変わらないおばあちゃんかな。」

 そう。きっと変わらない。歳をとっても記憶を失くしてしまっても、人の本質的な部分は同じままだと思うから。

「そうだといいわね…さてと、病院に到着ね。」

「うん、入ってみよう。」

 話しながら白い建物の前へと着いた私たちは、ハルちゃんを先頭にして建物の中へと入る。建物の中には誰もいなくて、あたりはシンと静まり返っている。私たちの足音だけが響いて、ハルちゃんはとある部屋の前で止まった。

「そう、ここよ。私が最初にいた場所は。」

「本当だ。病室だー。」

 案内されたのは、白い小さな個室だ。

「ここにいたの?」

「そう、このベッドに横になっていて……。」

 白い壁に薄いクリーム色のカーテン。がっちりとした重そうなベッド。白いリネンで包まれた布団が置かれていて、隣にはパイプ椅子が一つ置いてあった。窓の側へと近づくと、外には先程歩いてきた道が見える。相変わらず見慣れない街が広がる世界だ。

 ハルちゃんはベッドに腰を掛けた。そして枕を見つめている。

「……。」

「何か、思い出した?」

 すると彼女は持っていた巾着を枕元に置いて、それからゴロンとベッドの上に横たわった。布団もかけてしまう。そしてゆっくりと目を閉じて深呼吸をし始めた。予想外すぎる。

(え、まさかこれから寝るとかじゃないよね?)

 人を散歩に誘っておいて流石にそれは無いか、と思い彼女の行動をそっと目で追う。その途端何かが頭の中を過った。あれ、何だろう。この景色、どこかで見覚えがある気がする。

「どこで…?」

「実里……あなただったのね。」

「え?何?」

 ハルちゃんに呼ばれた。私が聞き間違えただけかもしれないけれど、彼女から名前を呼び捨てにされたかもしれない。

「……。」

「ハルちゃん?」

 ハルちゃんが手を伸ばしてきて私の腕を引いた。そしてベッドの側の椅子に座るよう促される。ハルちゃんは私の手を握っていて、その手にぎゅっと力が加わる。どうしたんだろう、大丈夫?そんな気持ちを込めて私は彼女の手を握り返した。彼女は横になったまま廊下の方をじっと見て、それから寝返りをうって窓の外を見て。そしてふぅ、と大きく息を吐いた。

「そういう事ね。」

「…ねえ、何か思い出したの?」

「……。」

 黙って天井を見上げたまま動かないハルちゃん。手は繋いだままだし、こういう時、私はどうしたらいいの、と定まらない視線を泳がせていると、やっぱりいつのまにか彼女に見られていて、そしてクスッと笑われた。

「よし。じゃあ次は実里ちゃんの目が覚めた所に行こうか。」

 パッと手を離したハルちゃんは、枕元の巾着に手を伸ばして顔を上げる。

「え、もういいの?」

「うん。」

 ゆっくりと身体を起こそうとするハルちゃん。だが着物姿で起き上がるのが大変そうで私は彼女に手を差し伸べる。ありがとうと言いながら再び私の手を握ったハルちゃんは「本当にあなたの手はいつも暖かいわね。」と呟いた。



 太陽が空高く上った為か、辺りは先ほどよりも暖かくなっている。頬を柔らかな風が撫でていき、耳の側で纏めている髪がゆらゆらと揺れている。私は緩やかな上り坂を歩きながら辺りを見渡した。道の両側には芝生が敷かれており太陽の光を浴びた色とりどりの小さな花が咲いている。道の途中にはベンチも置かれていて、そこに寝転んだら随分と気持ちが良さそうだ。

「それでね、もともとは店長のご両親がやっていたお店を新しくしていこうってなって。それでお店の周辺が飲食店の激戦区だったから、少し変わったコンセプト喫茶に変えよう…ってなって……。」

 私の働くメイド喫茶がどんな店か伝えるために、説明をしているところなのだが。

(ハルちゃん、喋らなくなっちゃった……。)

 さっきから私ばかり喋っている。隣を歩く彼女はしばらく相槌のみの返事が続いている。いや、喋ってばかりの私においては、それはいつもの事だけどさ。

 物心がついてから周りからは、よく喋る子だと言われたものだ。もちろん大人になるにつれ、一人静かに過ごす時間も悪くないと思うことはあったものの、基本的には誰かと話をしながら楽しく過ごすことが好きだった。だからこそ、お客さんと話のできるメイド喫茶で働き始めたと言ってもいいくらい、私はよく人と話す。

―実里はお話しするのが大好きだね、おばあちゃんは聴いているだけで楽しいわ―

 おばあちゃんがよく私に言っていたな。そう、両親が亡くなってから数年間、家族として一緒に過ごしたおばあちゃん。高校生になってからも時々私の頭を優しく撫でてくれたおばちゃんは、私が一人暮らしを始めてしばらくしてから、病に倒れて、それからずっと入院生活を送っていた。

(入院生活……病院……。)

 そういえばおばあちゃんはどうなったんだろう。記憶にある限りは、この数か月の間におばあちゃんは難しい頭の病気のせいで一人では動けない状態になってしまっていて、私は仕事の休みの日にお見舞いに行っていた。行けない時は私の代わりに親戚の叔母さんたちが身の回りの世話をしてくれていた。そのことはよく覚えている。

でも最近は仕事が忙しくなってしまって、全然お見舞いに行けていなかった。だからずっと気になっていたのに。死んでからはそのことをすっかり忘れてしまっていた。どうして忘れていたの。大事な事を忘れていたことが、中々ショッキングだ。これがいわゆる記憶を失くすという事なのか。

(最後に会ったのはいつだっけ……。)

 私が死んでしまって、おばあちゃんはその事を知っているのだろうか。確か最後に会ったおばあちゃんは、だんだんと目を閉じていることが増えてきて、声を出して話すことも難しくなってきていたけれど。お得意技の私がずっと話をし続ける形に、おばあちゃんが時々小さく頷いたり笑ってくれたりする感じだった。だから話は分かってくれていると信じてずっと話しかけていた。会いに行く度におばあちゃんの手がいつも冷たくて、私の手はいつも暖かいから「おばあちゃんは手が冷たいね」なんて言いながら手を繋いで過ごしていた。面会の時間が終わるギリギリまで病院で過ごして、元気になったら一緒にお散歩に出かけようね、と話していた。

(あれがおばあちゃんと会った最後になっちゃったんだな…。)

 待てよ、違うかもしれない。もしも私が生きていた時の記憶を大幅に忘れているとしたら、もしかしたら私はちゃんとおばあちゃんの死に目にも直面していて、おばあちゃんが天国に行けるようお見送りをして、その後の私の人生をちゃんと完うしたのかもしれない。全部忘れてしまっているだけで。おばあちゃん……。

「いやいや、っていうかいつの間にかおばあちゃんが死んでいる事になってた。全くもってよろしくないわ、実里。」

 勝手に生きている人を殺しちゃ駄目だ。おばあちゃんはまだ生きていて、私がただ若いまま死んだだけなのかもしれないのに。ブンブンと首を振って我に返る。おばあちゃんの事は気になるけれど、今は同じくらい気になる人がいるんだ。それも私のすぐ傍にいる人の事だ。

 隣からふう、と大きな息を吐く声がして、私は足を止めた。隣のハルちゃんが手を膝の上に置いて大きく肩で息をしている。

「ハルちゃん、大丈夫?」

 返事はない。心配になって覗き込むと俯き気味の顔も何だか色が悪く疲れているようにみえる。私たちの先には上り坂に大きな川と、それからそこに掛かる大きな橋が見える。

「行くのはやめる?駅までまだ距離あるよ。この川の渡った更に先だもん。」

 前にこの道を歩いた時の、身体が重くて随分と長く感じた駅から橘さんの店までの道のり。今日の私にはなんとも無い道のりに感じるけれど、ハルちゃんには辛いみたいだ。ハルちゃんの着物の裾からは草履姿の足が見える。そっか、それじゃあ流石に疲れるよね。

「着物だし長い距離を歩くのは大変だよね。無理しなくて大丈夫だよ?」

「そうだね……そうしたら先に店に帰らせてもらうわね。」

 ようやくハルちゃんが顔を上げる。彼女の前髪から覗く目がパチリと合う。

「本当はあなたと散歩を続けたかったけど、何だか急に疲れちゃって……。」

「うん、私は大丈夫。遅くならないうちに戻るから。」

 少し休んでから戻りたいというハルちゃんの手を引いて、私は道を引き返す。先程ベンチがあったのを覚えていたからだ。よいしょとベンチに腰掛けたハルちゃんを傍で見守っていると彼女はぼんやりと辺りを見渡して「綺麗な所だね」と呟いて。それから巾着を取り出した。和柄の可愛い巾着、今のハルちゃんによく似合う柄だと思う。

「じゃあ、散歩のお供にこれあげる。」

 手の中に置かれたのはオレンジ色の飴玉だ。

「ん、ありがと。ハルちゃんの好きな飴ね。」

「実里ちゃんも好きでしょ?」

 うん、好き。よくおばあちゃんがくれた飴。一人で生活するようになってからも、時々買っていた飴。あ、そうか。忘れ物をちゃんと思い出したら、私の人生も本当に終わっちゃって、この飴ももう食べられなくなっちゃうのか。

(でも、それでも自分の最期をちゃんと思い出したい。)

 初めはハルちゃんと一緒に行く予定だったあの駅。一人で行くのは少し不安だ。だけど一人になっても行かなきゃいけない、行きたいと思う。私がどのように死んで、そして何を忘れていてどんな事を思い出すのか、怖いけれど全部知りたいと思うから。

「ねぇ…ハルちゃん。ハルちゃんは何か思い出したの?」

「……。」

 返事はないけれど表情がそうだと言っている気がする。そうか、やっぱりさっきの病院でハルちゃんは思い出したんだ。だったら私も思い出したい。自分の忘れ物が何なのかを確かめたい。

「私ももうすぐ思い出せるのかな。」

「そうだと良いね。」

「うん、そしたら忘れ物が何だったのか、お互い話さない?」

「もちろんよ。」

 あの駅に戻れば必ず思い出せるなんて確証はどこにもない。思い出せなかったら、その時はその時だ。またハルちゃんに話を聞いてもらおうと思う。

「実里ちゃん、帰りたくなったら帰るんだよ。」

「……ん?うん、そうだね。」

 ハルちゃんの言葉に頷いた。彼女の言うとおり、帰りたくなったらその場で引き返して帰ってきたっていいんだし。

「いってらっしゃい。実里ちゃん。」

「うん。いってきます。また後でね!」

 ベンチに座るハルちゃんに手を振って私は再び坂を登り始めた。平らな道となりそこから橋を渡る。橋の上からは未だ座り続けている彼女の姿が見えて、もう一度手を振ってみる。が、こちらを見ていなかったのだろうか。振り返してはくれなかった。

「誰もいないな…。」

 記憶を頼りに駅を目指す。確かこの道路を川沿いに歩いて、商店街があってその先が駅のはず。前は夜の道だったが今は昼間だ。あの時には見えなかったものが今は随分と細かく見えるはずなのに。

「人も車もいない…。」

 重い身体で信号待ちをしたのは覚えている。赤信号の間、目の前をいくつかの車が通り過ぎていったはずなのに。今は何も走らない大通りを見つめ、横断歩道の前で立ち止まって顔を上げた時、ようやく私は信号も明かりが点いていないことに気がついた。

「これ…本当に死んだって事なのかな。」

 もしかしたらあの夜の道を歩いていた時、私はまだ向こうの世界で生きていたのかもしれない。通りぬける車、声を掛けることのできない街の人、点滅するライトたち。それが今は何一つ見当たらないのだから。明かりの消えた信号機はなぜだか終わってしまった命を思わせる。生きていた頃はそんなふうに思ったことなんてなかったのに。あたりを見渡しながら歩みを進めてシャッターの街を抜ける。相変わらず私の可愛い制服は裾を揺らしている。大好きな私のメイド服だ。

「誰かが着せてくれたんだよね。」

 お父さんお母さんのお別れの時の事をよく覚えているもの。冥土の世界でもお気に入りの服を着て旅に出られるように、お母さんにはお父さんが初めてプレゼントしたという洋服を。お父さんには仕事でよく着ていた自慢のスーツを。それぞれ着てあげたのを覚えている。

「私にはこの制服だったんだね。」

 選んでくれたのは店長かな。それとも同僚たちかな。きっと皆で考えて選んでくれたんだ。私にはメイドさんのお仕事の制服が良いだろうって。

「会えるのが最後だって分かっていたら、ちゃんとお礼が言いたかったのにな。」

「ここで働けて幸せだったって、皆に伝えたかった。」

 あれがしたかった、こうすれば良かったなんて思っても、死んでからじゃ遅いのに。次々と絶えず溢れてくる気持ちと共にぽたぽたと落ち始めた涙をそのまま流しながら、私は駅の中へと辿り着く。動かない改札を通り抜けて明かりの消えた構内を歩く。階段を上がりホームを進んでいくと見えたのは『終点』という名の看板だ。

 少し待ってみるが電車が来る様子はない。ホームから見える景色は、あの日見えた街並みと何も変わっていなくて。やはりここがどこの街なのかは少しも分からなかった。ホームの上から線路を見下ろす。特に感じるものはない。私は思い切ってホームの上から線路に降りた。まあまあな高さがあったものの、運動神経には自信がある。足の裏が少しだけ痺れたが着地は難なくできた。

「うわ、初めて降りた。ホームってやっぱり高いんだな、……。」

 何気なく発した独り言に自分で頭を傾げた。今、私『初めて降りた』って言ったよね。その言葉に偽りは無い。記憶を丁寧に思い出そうと一歩ずつ線路の上を歩いていく。隣の視界を埋めていたホームが終わり、開けた道の更に進んだ線路の先には踏切が見えて、黄色と黒の縞々模様に消えた赤いランプの姿を見つめた。私の服とよく似たデザインだ。でも、違う。私は自分からここに入ったりはしていない。それだけは絶対に誓える。

(ということは。やっぱり私にはメイドさんのお仕事をしていた時の記憶までしかないよ。だからつまりそれは、私は二十二歳で生涯を終えたって事で…。)

「ホームから落ちて死んだんだ……。」

 ねえなんで死んだの、私。どうして線路に落ちたりしたの。今、少しだけ記憶を思い出したの。あの時の私はホームの端で靴紐を直して、それから逆の足でまた紐を踏んでしまって、そしてよろめいたんだ。あの時、通過列車が来るってアナウンスされていたから。きっと私はその迫りくる電車の前に落ちてしまったのだろう。馬鹿だ、私。他人に迷惑掛けて死んだんだ。あの通勤ラッシュの時間帯に、大勢の人がいる中で電車を止めてしまったんだ。こんな死に方したくなかったのに。

 止まっていたはずの涙がボロボロと溢れた。誰も悪くないの、全部自分のせい。だけど自分のせいだけにはしたくない。あの時もしも靴紐が解けていなかったら。通過列車が来ていなかったら。あの場所が駅じゃなかったら。メイドさんのお仕事をしていなかったら。…こんな死に方はしなかったかもしれないのに。

「ハルちゃん。」

 ハルちゃんはどうしてあんなに冷静だったの。私が知る限り、ハルちゃんはずっと笑っていたよ。自分が死んだ事を知った後もなんで普通に笑えていたの。死んだ理由が違うから?それとも死んだ歳が違うから?どれが正解なのかわからない。

 彼女との会話を思い出す。彼女は自分が何歳で死んだのかよく覚えておらず、もしかしたら自分はおばあちゃんかもしれない、と言っていた。

「おばあちゃん…。」

 私だっておばあちゃんになるまで生きていたかったのに。誰かと結婚して子供が生まれて、そのまた子ども、私の孫までこの目で見られる日が来ると信じて疑わなかったのに。それが当たり前だと思っていたのに。おばあちゃんが私を可愛がってくれていたように、私にも可愛がる存在ができる日が来ると思っていたのに。『実里』そうおばあちゃんが優しく私の名前を呼ぶように、私も誰かの名前を呼びたかった。

「名前…私の家族の名前…。」

 頭の中に浮かんでくる、笑顔のお父さんとお母さん。私は一人ずつ名前を呼んでみる。

「お父さんは幹夫。村主幹夫。」

 お父さんの名前を呼んで、またポロっと涙が零れた。私はポケットの中からハルちゃんにもらった飴を取り出すと口の中に放り込んだ。口の中に甘酸っぱいお馴染みの味が広がる。

「お母さんは村主由里子。お父さんと結婚する前は、旧姓は…えっと…片平だ。」

 お母さんの名前を呼んで、私は歩くのをやめた。自分の口から飛び出した衝撃的な事実に驚きを隠せないからだ。

「おばあちゃん。おばあちゃんの名前は、片平ハル。」

 どうして。どうしてこんな大切な人のことを思い出せなかったの、実里。おばあちゃんの名前だよ。

「ハルちゃんが、私のおばあちゃん…?」

 もしも、ハルちゃんが私のおばあちゃんと同姓同名とかではなくて、本当に私のおばあちゃんだったとしたら色々な事が合致する。『そうなのね、実里ちゃんも食べていたのね。』そうだよ、だって小さい頃からおばあちゃんがよくくれた飴だもん。『どこで買った物なのか思い出そうとしているんだけど』それはね、おばあちゃんへのプレゼントだよ。ずっとボロボロの巾着を使っていたおばあちゃんに、私の初めてのお給料で買ってあげた巾着だよ。いつも持っていてくれて、病院に入院してからもいつも枕元に置いていて。おばあちゃんがもう食べられないと分かっていても、いつか元気になると信じて、私が袋の中に飴玉をいっぱい入れていたんだ。それをおばあちゃんはこの冥途の世界まで一緒に持ってきてくれたんだ。

―ねえ実里ちゃん、二人でどこかお散歩に出かけない?―

「そうだよね、いつも私が言っていた言葉だもんね。元気になったら一緒にお散歩に行こうって…。」

 どうしてすぐに気がつけなかったんだろう。橘さんのお店で顔を見て名前を聞いた時に、私のおばあちゃんだって思い出せなかったんだろう。ずっと一緒にいた大事な家族なのに。おばあちゃんは気が付いていたのかな、私が孫だって。いつ、いつから?分からない。でもおばあちゃんは、ハルちゃんはすごく優しい人だから。きっと中々おばあちゃんに気が付けない私に合わせて、ずっと話を合わせてくれたんだ。

「ハルちゃん、自分もメイドの仕事をしているって言っていたけど。」

昔、おばあちゃんから聞いた話。おばあちゃんは若い頃お金持ちの家で住み込みのお手伝いさんをしていたと言っていた。確かに主人に仕える大事なお仕事だ。でも私のメイドとは違う、ハルちゃんは本物のメイドさんだった。

―実里ちゃん、帰りたくなったら帰るのよ―

 別れ際のハルちゃんの言葉を思い出す。ハルちゃん、それってどういう意味で言ったの。帰るって一体どこに。橘さんのお店?まさか私の家?それともおばあちゃんの家…?

「おばあちゃんのところに帰りたい。」

 そこからは思いっきり走った。来た道を戻って商店街を駆け抜けた。一直線の橋を渡って坂を一目散に下っていく。走るのは自信があるんだ。もしかしたらハルちゃんに追いつくかもしれない、そう足を動かす。不思議なことに息が切れなかった。もう死んでいるからなのか。でももうそんなことはどうでも良かった。今はハルちゃんに会うことが最優先だ。

彼女の座っていたベンチには、誰も座っていなかった。きっとあの後一人で橘さんのお店に帰ったのだろう。

(…本当にお店に帰ったのかな。)

 不安がよぎる。だって思い出すのよ、実里。橘さんのお店に訪れた人たちは、忘れ物を見つけ出すと店を後にしていたじゃない。ハルちゃんが本当にもしあの病院で何かを思い出して、それから忘れ物を見つけていたとしたら。

「先にお店を出て行っちゃうかも…!」

 それは嫌だ。だって私の忘れ物は『おばあちゃんの存在』だから。きっとハルちゃんは私のおばあちゃんで、せっかく思い出せたのに、おばあちゃんがここで先にいなくなっちゃったら、私は橘さんのお店を出られなくなるかもしれない。いや会えなかったとしても、思い出せさえすればお店を出の事は出来るのかもしれないけど。

「でも、もう一度おばあちゃんに会いたい…!」

 住宅地に入り私は更に走るスピードを上げた。どうせこの街には私たちしかいないんだ。誰も気にせず走ったって迷惑なんて掛からないし構わないだろう。道の先に橘さんのお店が見えはじめた。外の看板の電気が消えている。ハルちゃんの姿はまだ見えない。ねえハルちゃん、まだ居るよね?一緒にお店を出ようって約束したよね?

 店の扉の前に立って私は恐る恐るお店の扉に手を伸ばした。この店に初めて訪れた時よりも緊張する。どうしよう、もしもハルちゃんがいなくなっていたとしたら。ドアノブを回して扉のベルがカランと鳴った。



片平ハル、年齢不詳。但し自分がおばあさんの年齢層であることは分かっている。松原家に仕えてその縁で主人と出会い、片平家に嫁いだが娘の誕生の前に主人が亡くなり、女手一つで育児と仕事をこなす人生だった。とてもひもじくその日暮らしをするのが精一杯だった記憶はあるのだが、娘の顔は未だ思い出すことができない。記憶の中で『お母さん』と話しかけてくる愛娘に私も応えるのだが、その顔はぼやけたままだ。彼女が成人となって嬉し涙を流した記憶も彼女がお嫁に行った時の記憶も、全てあるというのにその顔は見えないままでいる。

(悲しいわね。)

 彼女が事故で若くして亡くなり絶望した記憶も、それから彼女の夫までもが病気で亡くなってしまった記憶もあるのに。

(それから…私の人生の終末の記憶…。)

 目を閉じると思い出すのは病室で横たわる私の姿だ。少しずつ消えていく記憶達と、それから動けなくなってしまう身体。声を出そうにもうまく出せずもどかしい想いで愛しい人を見つめることしか私にはできない。

おばあちゃん、来たよ。目に前に座ったのは明るい髪色をした私の大事な孫だ。貴女の事ならちゃんと分かるわよ。彼女は私を見て笑うと鞄から飴を取り出すと私の枕元に置かれた巾着の中へと入れる。そして中から古い飴玉を取り出して自分の口に放り込む。おばあちゃんも早く食べられるようになればいいのに。

私も食べたい、あなたと一緒に笑いながら食べたい。ねえ、もう終わりなの?もっと色々と話をしてちょうだい。なんでもいいのよ、あなたのコロコロと変わる表情を見ていたい、ずっと声を聞いていたい。ねえ、帰らないで、もっといて。私も追いかけて一緒に帰りたい。並んで手をつないで前みたいに一緒に…。

「今朝、目が覚めた時に。誰かがいつも言っていたのを思い出したの。『一緒にお散歩に出かけようね』って。あの時の私はね、どうしてもそれを叶えたくて、でも叶えられなくて。叶えられない自分が虚しかったわ。叶えたいこと、やりたい事があるのに、私の身体は言うことを聞かないんですもの。だからいつしかそれを願う事を忘れてしまって。

でも叶ったのよ、今日。短い時間だったけどあの子と久しぶりに並んで歩けたわ。手も繋いで歩けたの。久しぶりだったわ。」

 住宅地の中を歩いていく。歩くたびに耳元の簪が揺れる。傾き始めた太陽の光を浴びて、オレンジ色のトンボ玉がきらりと反射した。

「ねえ、橘さん。」

「なんだい、ハル。」

 話しかけるとオレンジ色のトンボ玉が点滅しはじめた。私は耳元で光の温かさを感じながら、ゆっくりと歩みを進めていく。

「やっぱり。ずっと私の簪の中に隠れて話を聞いていたのね。」

「あ、ああ。すまない。」

 耳元で彼の声がして私は少し笑みを浮かべた。ふわりと風が吹いて簪が揺れて、彼の点滅が視界に映る。きれいなオレンジ色の光だ。この簪は生前の主人がくれたもの。飴玉と一緒にいつも巾着の中に入れていた私の大事なものだ。死後の世界でも身に着けていたことに気が付いた時は、静かに一人で喜んだものだ。これは孫の彼女にも話していない、私だけの秘密だ。

 橘さんの店の中で彼がオレンジ色の灯りに身を隠している事に気が付いた時から、もしかしたら彼は私の簪に中にも身を隠すことができて、私と彼女との散歩にもついてくるのではと思っていたが…予想的中だったことに自分でも少し驚いた。

 まあ、こうして二人でのんびりと話す時間もいいだろう。ベンチで少し休んだからか、話しながら歩くくらいの余裕はある。

「ねえ、実里と私。ほとんど同じ時に死んだのね。」

「ああ。」

「私が少しだけ後に死んだのよね。」

「そうだね。」

 彼に確認するように質問をしていく。私と彼女のそれぞれの最期を。

「実里は駅で亡くなったと誰かから聞いたわ。…あの子、本当に死んでしまったのね。」

 私は思い出したのだ。先ほどあの病院のベッドに横たわった時に、彼女が孫の実里である事を。今すぐに教えてしまいたかった。私はあなたのおばあちゃんよ、と。でもずっと私が本当の彼女の事を思い出せなかったのと同じように、彼女も私の事を思い出せていない。私と同じように彼女もこの世界での最初の場所へと訪れたら、全てを思い出して私のことも思い出すかもしれないと思ったから。だから言わずにいようと決めた。

「正直な気持ちを言うわ。あの子だけは私よりも先に死んでしまうなんて事にはならないでほしかったわ。そんな日本一のおばあちゃんになれだなんて言わないの。普通でいいから、皆と同じくらいに歳を取ってほしかったわね。」

 足元のアスファルトの道を進んでいく。小さな石ころが転がって縁石にぶつかるのを目で追いかける。

「悲しいと同時に嬉しさもあるのよ。もう二度と会えないと思っていたあの子にこうして再会することができたのよ。孫が死んだ事を喜ぶお祖母ちゃんなんてきっと私だけだわ。本当に複雑な気持ちね…。」

 この世界で再会してから彼女の事を思い出すまでに時間が掛かってしまったけれど。それでも思い出せてよかったと思う。

「忘れ物はなんですか。」

 この世界で目が覚めてからずっと考えていたことだ。店に来るお客様の話を聞いて、それから自分の事を考えた。

「《喫茶店たちばな》は忘れ物を思い出して、それから見つけるお店なのよね。私はね、忘れてしまっていた気持ちを思い出したの。あの子とまた一緒に手を繋いで散歩をしたり、話をしたり、一緒に暮らしたいという気持ちをね。そしてそれを叶えられたわ。」

 それが私をこの世界に留めている理由だったのか。こうして忘れ物を思い出した後ならその理由がよく分かる。ずっとあの子とまた過ごせる日を私は待ち望んでいたのだ。それが叶った今、私はもう本当の終わりを迎える準備をしようと思えるはず、なのだが。

「でもね、いま新たに忘れ物が出来てしまったの。ねえ橘さん。一緒に喫茶店で実里の帰りを待ちましょうよ。」

「うむ…。」

 橘さんは相変わらず言葉が少ない。でもきっとこの応え方は私の意見に賛同してくれているはず。

「だって、あの子をこの世界に忘れていったらダメでしょう。」

 手を伸ばして彼の店の扉を開ける。耳元からオレンジ色の光がスッと真っ暗な店内へと浮かんで、カウンターの上で点滅し始める。私はカウンターの裏からグラスを二つ取り出し並べる。そして椅子へと座り静かに扉の方へと顔を向けた。静かな時が流れる。私は思い出せる限りの生前の話を彼にしていく。孫の話はかなり多めだ。彼は少ない言葉を返してくれる。そして西の空に夕日が沈む頃、道の向こうから足音が聞こえて、その音は店の前で止まった。

 カランと扉が音を立てて開く。私は椅子から立ち上がると隣で点滅する彼と一緒に口を開いた。

「おかえり。実里。」



村主実里と片平ハル。二人の手にはオレンジジュースのグラスが握られている。止まることのない村主実里の話を片平ハルがニコニコと笑いながら相槌を打っている。片平ハルが巾着から飴を取り出して、みかん味を向かいの村主実里の口に入れる。そして片平ハルはみかん味とハチミツ味を両方一緒に舐め始めた。

「聞いてよ、おばあちゃん。私、本当に駅で死んだみたい。」

「そうみたいね…。死ぬ前に誰かが教えてくれた覚えがあるわ。」

「私それでね、靴紐を直そうと思って屈んだの。そこまではよかったんだけど、立ち上がる時に直したはずの紐を逆の足で踏んでさ、よろめいて。多分それで駅のホームから落ちたの。通過の電車が来ていたからそこでバーンだよ、うわぁぁ痛いっ‼」

「い、痛いわね…。」

 カウンターの上からぼんやりと二人の様子を眺めていた私だったが、彼女の言葉に思わず口を出してしまう。

「待ちなさい、実里。そこは違うな。」

 きょとんとした顔でこちらを見上げた、ミツバチを模したというハイカラな服装をしている彼女。

「ちょっと、橘さんまで急に実里呼び?ま、いいけどさーって、違うって何が。」

「君の死んだ理由さ。」

「え、私って電車に轢かれて死んだんじゃないの?」

「……。」

 この店に来る者たちは死んですぐの者たちばかりで、基本的には自分の死んだ瞬間を覚えているものだ。そしてすぐにこの店への前へと辿り着く。但し例外を除いて。生前に頭の病を患っていると、曖昧な記憶をもとに目覚める場所が変わってしまったり、自分が死んだ事も分かっていなかったりすることがある。二人の場合は正にこれだった。

「橘さん、ちゃんと真実を話す事も時に大事ですよ。」

 どうにも他人に自分が死んだ瞬間の事実を話すのは苦手だ。何十年経っても慣れやしない。いい話であることは稀なことが多いし、話した途端に相手が衝撃を受けて取り乱すのが目に見えているからだ。そもそも死んだ者がその後大きく成長できるとは限らない。時が流れているようでこの世界は止まったままの世界なのかもしれないから。

だが彼女の言葉は正しいと思う。そう、ちゃんと真実を話す事も大事である。今回はそれを特に学んだところだから。己の気持ちを奮い立たせて口を開こう。

「ああ、えっと……。君は電車に轢かれたのでは無く、自分で靴紐を踏んで後ろに転んで、地面に頭をぶつけて死んだんだ。」

 シン…と静まる店内。そうだな、ここ最近では一番の静まり具合だ。目の前に立ち尽くすハイカラなミツバチは何度か瞬きを繰り返すと思い切り明後日の方向を向いた。

「え?私、まさか一人で頭を打って死んだの?自爆したの?」

「そうだ。打ちどころが悪くて死んだんだ。」

 そう答えると彼女がこちらを見上げる。目にはいっぱいの涙が溢れていて、今にも零れ落ちそうだ。

「実里、泣きたい時は泣けばいいのよ。」

 着物姿の彼女が静かに呟く。そしてミツバチのメイド服の彼女ががっくりと頭を項垂れた。

「あーあ、なんというか、最期までバカだったんだな、私。」

 そんな二人の様子を見ていて私は思う。最後まで思い出してはくれなかったな…と。今からもう何十年も前の話だ。私は私の人生の中で最も罪深い事をした。娘の顔を見る前にこの世を去ってしまったのだ。そしてこの世界に来てある人に言われたんだ。君の忘れ物を探すようにと。いつかここに妻や娘たちも来るのでしょうか、そんな私の問いにもしかしたら来るかもしれないねとその人は答えて、それから消えていった。

「そうか、いつか君が来るのかもしれないのか。」

一人ぼっちの世界、次々と訪れる客人たちは自らの忘れ物を見つけるとこの店を出て旅立っていく。それでも私はこの店で君が来るのを待っていた。何十年もの間だ。だから君が遂にこの世界に、そしてこの店に来ることを知った時は喜んだ。だが同時に複雑な気持ちにもなった。君だけではなく、孫も来ると分かったからだ。

(悲しむべきなのか。それとも喜んでいいものなのか。)

君も言っていたが、本当にそう思う。

 あんなに長く感じていたこの店での時間も、君たちが来てからは一瞬に感じた。なのに、一時でも店にいてくれるだけでもよかったのに。この店でメイドをしたいと言い出した君たちに、実は凄く喜んだ。敬語をやめましょうと言い出した君とそれを真似したあの子。ああ、まるで本当に家族みたいだなって思ってしまった。

 悪戯っ子な孫は可愛い。怒る孫は、どう扱ったらいいのか分からない。答え難い質問をされた時はどうしたらいいか分からなくなって、咄嗟に逃げてしまった私。そんな私を責めることなく「大丈夫、一緒にいますから」と構えていてくれた君。家族ってこういう温かい存在の事を言うのか。ああやっとこの気持ちを感じられた。

この店で沢山の亡き人々を冥土に見送って。その都度沢山の人から話を聞いた。そして思い出したんだ。私にとっての忘れ物は《家族》だった。大事な人、大事な想い。それはあの頃の私にもあったはずなのに、見失い忘れて自らこの世界に来た私は。いつか君がここに来る日まで、ここで待つと決めた。君がこの店に訪れて私の名前を聞いた時、もしかしたら気付いてくれるかもしれないと期待はしたが、流石にそれは欲張りな願いだった。そうだね、この店は忘れ物を見つける店であって、願いを叶える店ではなかったね。

君は生まれた時は『橘ハル』だった。だからこの店で君の名前を名乗ろうと決めた。庭に橘の木を植えて、その木も随分と大きく育って。いつかもしも君がこの店に来る日が来たら自分の家のように過ごしてほしいと願って…。

チリンと扉が開いて薄紫色の着物姿の女性が現れる。その着物は橘の花があしらわれた君の着物だ。髪には私が渡した橘の実を模した簪が付けられている。たった数年間の夫婦生活だったはずなのに、君は私の姓を変わらず名乗っていてくれていて、そしてそのままここに来てくれた。本当に嬉しかったんだ。最初の出会いから最後まで本当に優しくて逞しかった君に、私はどうしてもっとずっと傍に居ようと思わなかったのだろう。その事を彼女に謝れないことが私への罰なんだろうと思う。

 二人がソファーに座り話している。村主実里はオレンジジュースを何杯もおかわりしていて、片平ハルはまた飴を舐めている。二人ともいい笑顔だ。そこには本物のおばあちゃんと孫がいた。きっと私の知らない生前の二人の関係性もこんな感じだったのだろう。聞こえてくる二人の話題は今までの事からこれからの事へと変わっていく。この店を出た後はどうなるのかという話だ。

「ねえ、もしも今度また人間に生まれるなら、どうしたい?」

「そうね、おばあちゃんは、また実里と暮らしたいな。」

「私もおばあちゃんと暮らしたい。歳の近い友だちでもいいけど…やっぱりおばあちゃんの孫に生まれたいな!」

「そうね、私も実里のおばあちゃんに生まれたいわね。」

 私はどうだろう。私もまた君と同じ世界に生まれて、君とまた出会うことができたのなら。今度こそ長い時間を一緒に過ごしたいなと思う。もしもの話だ。私だってこの店を出た後に自分がどうなるかは全く分からない。新しいどこかで永遠の時を過ごすのかもしれないし、この記憶も思い出も全て消えてまっさらなものになってしまうのかもしれない。それでもこうして忘れ物を見つけて大事な人たちと一緒に同じ時を過ごせたのだから、私はもうそれで充分だ。

「じゃあさ、その時はまた一緒にメイドさんのお仕事をしようね。」

 村主実里の言葉に片平ハルが笑う。二人の会話を聞いていて心が和んでいく。

 そうしたら私はまた喫茶店を開こうか。顔も知らない私の娘と彼女の主人がお客さんとして来るんだ。孫にはジュースをおかわり自由にしよう。おまけで飴も付けてあげよう。もしも次に生まれる時にこのことを忘れてしまっていても、きっと思い出そう。

「そろそろ一緒にお店を出よう。」

村主実里が立ち上がった。それに合わせて片平ハルもゆっくりと立ち上がる。彼女のオレンジ色の簪が揺れる。大切に持っていてくれてありがとう、私は彼女に頭を下げる。じゃあ私は二人をお見送りした後に、君たちを追いかけてこの店を出ようと思う。

 いってらっしゃい、と私は口を開こうとした。その時、カウンターの前に立った君がこちらを向いた。

「橘さんも一緒にどうですか。」

店内の明かりが全て消えて、カランと音を立てて扉が閉まる。店の前から見上げた空は、雲一つない闇色の中に満天の星空が広がっている。点滅するかのように光る星たちの間を大きな流れ星が一つ通り抜けて、静かに遠くへと消えていく。それから店の前で並んだ私たちも遠くへと消えていった。


おわり


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メイドさんのお仕事 好観 @KONOMI_YOSHIAKI

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