第3話 私の忘れ物

「あー、もう少し厚着してくればよかったなー。」

 春の始まりとはいえまだ朝は寒い。私はコートの袖先から出た両手を擦り合わせて、あまり意味がないと思いつつも暖を取ろうとした。

 今日は寒くて中々布団の中から出られなくて、ついつい家を出る時間が遅くなってしまった。写真の両親に行ってきますと挨拶をして公園の横を早足で通り抜けて。いつものように駅へと着いて電車に乗り、そして乗り換えのためにホームを歩いていた。いわゆる通勤ラッシュという時間帯。人の波に乗って乗り換え口へと歩くのはもう四年目に入り慣れたものだった。

(…なんだか今日はぼんやりするな。)

 少し重く感じた目を擦る。化粧は店についてからするので今の顔はスッピンで、だからこそ思い切り擦ってそれから両頬を軽く叩いた。実はこの数日間寝不足なのだ。特別夜遅くまでやらなければいけない事があったわけではないのだが、布団に入ってから考え事をしはじめたら止まらなくなってしまったのだ。

 昨日はお父さんとお母さん、そしておばあちゃんの事を思い出していた。小学六年の時に交通事故で亡くなってしまったお母さんと、中学三年の時に突然病気で亡くなってしまったお父さん。お母さんの時はお父さんと一緒に泣き続けて、そしてお父さんの時はおばあちゃんと一緒に泣いたよな、と。あの時、お母さんのお母さんであるおばちゃんは『あなたまで、この子を早くに置いていくのですか』と言っていて。次におばあちゃんの泣く姿を見たのは、私の高校の卒業式だった。おめでとう実里。そう自分のために嬉し涙を見せるおばあちゃんを見て今までのことを思い出して、それはもうクラスメイトや担任の先生が呆れて笑うくらいに号泣したという思い出だ。

 もしもお父さんとお母さんが生きていたら、あの時なんて言葉を掛けてくれたのだろう。小さい頃と同じように優しく頭を撫でてくれただろうか。お母さんの事故、そしてお父さんの病気。どちらも私のせいではないとは分かっていても、恨んでも悔やんでも二人は帰って来ないのに、それでもこうして思い出してしまう。もしもを想像しては目に前に広がる誰もいない部屋を見て落胆するのだ。繰り返し考えても現実は変わらないのに。ねえお母さんお父さん、私は今一人で暮らしていてメイドさんをしているよ。中々周りからは偏見も持たれやすい仕事だけど大好きな仕事だからどうか見守っていてね…と。

(あ、靴の紐が解けちゃった。)

 ホームの人混みを歩く中、自分の足元が見えた。左足の紐が解けている。ここじゃ通行人の邪魔になってしまうから、もう少し人の少ない場所まで移動したらそのタイミングで立ち止まってちゃんと直そう。

 ホームにアナウンスがされる。通過列車が来るというものだ。この乗り換えの人が多いタイミングでの電車の通過はナンセンスだといつも思う。よく事故が起こらないよなーと思うくらい、大量の人々のすぐ横を勢いよく電車が通り抜けるからだ。

 記憶はそこで終わっている。



 この不思議な世界に来て二日目の朝。私は店の扉を開けた。その途端、店の中には冷たくも熱くもない風が通り抜けていく。《喫茶店たちばな》の看板を店の入り口から道路の方へと移動させる。店の前を箒で掃いてそれから鉢植えに水をやる。そして枯れている葉を見つけたら手で一つずつ取っていく。

 これは開店準備の仕事だ。店の中のことはハルちゃんが行ってくれているので、私は外を担当している。頭の中では相変わらず《忘れ物》について考えている。

 昨日私はこの喫茶店のメイドとしての初仕事を終えた。ハルちゃんとそれぞれ一人ずつお客様を担当して、心情は特に変わっていない。

(私、一体何を忘れているんだろう…。)

 昨日の夜、眠る前にハルちゃんと少しだけ話をしていた。けれど私は途中から自分の記憶を順に思い出していて、彼女も考え事をし始めたのかすぐに眠ってしまったのか、お互い沈黙になったままいつのまにか眠ってしまい、目を覚ますと朝になっていた。

 あれが目の覚めた瞬間だったのか、はたまた夢の終わりで見たものなのか。どちらかはもう定かではないけれど、私はその時にあるものを思い出したのだ。昨晩眠りにつくまでの間、いくら頭を回転させても思い出せなかった、この世界に来る直前の記憶を。

 電車の乗り換えをしていたところまでは覚えている。

(私、あの後ちゃんと仕事に行ったのかな。それともまさか乗り換えの電車の中で寝ちゃった?)

 数駅で降りる予定だし、そもそもいつも朝の時間は混んでいて座れないのに。運良く座れたタイミングで電車の中の暖房に気持ちがよくなって寝てしまったのだろうか。あの朝は寝不足だったから。

(だったとしたら、絶対に仕事は遅刻だ。)

 あーあ、新年度開始早々、遅刻か。店長怒るだろうな。もし今この空間がまだ私の夢の中で、電車の中の私が爆睡し続けているのだとしたら、誰か私を叩き起こしてくれないかな。駅員さんでも誰でもいい。今回ばかりはちょっと怪しげなおじさんでもいいし、前かがみになって座っていると頭にクリティカルヒットする小学生のランドセルでもいい。あれはものすごく腹が立つけど、爆睡中の乗り過ごしには丁度いい痛さがある。

 朝の通勤の記憶をまた思い出しながら、植木に水をあげて屈めていた身体を起こした私は、ふと店のそばに立つ一本の木に目を向けた。深緑色の大きな葉にオレンジ色の実をいくつもつけた木だ。気になって近づいてみる。

「みかんかな…でもちょっと違うかも。」

 よく食べるみかんと比べると、実は少し小さい。近づいてみるが、香りはよく分からない。周りを見る限りこの木は喫茶店の敷地内に植えられている。ということは橘さんの持ち物か、なら一つ採ってみるか。私はそっと手を伸ばした。

 色は良さそうだ。手のひらに収まる小さなオレンジ色。コロっと手の中で転がして親指を皮へと立てる。皮を剥くと中から美味しそうな果肉が出てきて。私は一房分もぎ取ると口の中に放り込んだ。

「なんて顔をしているんだ、君は。」

 カウンターのちょうど真上の位置から橘さんの呆れた声がした。店内に戻ってきた私の顔は、まあ恐らく眉間に皺が寄っていて、目も細まっているのだろう。簡単に言えば「酸っぱい」の顔だ。

「だって…外にあったみかんを食べたら、滅茶苦茶すっぱいんだもん!」

「そのまま食べたのか。というか取る前に一言声を掛けないか。…まあ食べられるが、加工して食べることが多い品種だぞそれは。」

「ごめんなさーい。…ねえこれってみかん、だよね?」

「橘という木だよ。」

「たちばな…えー?橘さんのお店に橘の木があるの?ウケる!」

「…うける…何がだ。」

 橘さんが橘の木を育てているって、気合い入れ過ぎのギャグ?一度冷静になって考えてみたものの、またじわじわと面白さが膨れてきて、私は店内に響く程の大声で恥じらいもなくゲラゲラと笑ってしまった。橘さんは納得いかないような反応を見せていたけれど、最終的には「君が面白いなら、まあいいか」と言っていた。

 そうか、橘の実はそのままだと酸っぱいのか。甘かったら仕事の合間に取って食べたかったのにな。残りを捨ててしまうのは勿体無いと思って口に放り込むも、やはり酸っぱい。みかんの木か、おばあちゃんの家にもみかんの木があったな。確かそのみかんの木も実が酸っぱくて、お砂糖やはちみつで甘くしたものをおばあちゃんがおやつに出してくれた気がする。

 ちなみに今朝から橘さんへの話し方は敬語なしに変わった。理由はハルちゃんがそうしていたからだ。ハルちゃんが橘さんにタメ口を使っていて、それが何だか凄く仲が良い感じがして、ハルちゃんが羨ましくなって。二人の様子を交互に見ていたらハルちゃんから『実里ちゃんも敬語を使わずに話そう』と言ってくれたのだ。ああ、彼女の他人との距離の縮め方の上手さは、こういう時に気軽に誘ってくれるような周りへの気遣いにあるのかもしれない。おかげで初めは少し話しづらく感じていた橘さんとのやりとりも、まさに今、会って二日しか経っていないとは思えないほどの距離の近い会話ができた気がする。

 ハルちゃんはというと、店内での準備を終えてソファー席に座っていた。テーブルの上に巾着を置いて、それをじっと見つめている。薄紫色の和柄の巾着だ。

「どうしたの?」

「んー、この巾着ね。どこで買った物なのか思い出そうとしているんだけど、思い出せなくてね。」

「貰い物じゃなくて、買ったんだ?」

「そう。どこかで買った記憶がぼんやりあるのよ。でもね、中々思い出せないわ。中にある飴はいつもよく食べている飴で、この着物は仕事着。じゃあこの巾着は何だろう、と記憶を辿っているんだけど、思い出せないわね。」

 普通、買った店とか場所までちゃんと覚えているものかな。ああでも和柄の巾着くらいだったら珍しいし覚えているか。そんなに頻繁に買うものでもないだろうし、観光地とかお土産屋さんで買ったものだとしたら、思い出せるものかもしれないし。

「いつも飴を入れているなら、その袋も気に入って使っているんじゃないの?」

「可愛い柄だとは思うけれど、気に入っているのとは何だか違う感じがして…。」

 この店はお客様が《忘れ物を思い出し見つける店》だ。彼女が思い出したいというのであれば時間をかけてでも思い出してほしい。巾着を見続けている彼女を見ながら思う。あーあ、それにしてもどうして私は彼女みたいな持ち物が何もないんだろう。私も何かあったらそれを見ながら、忘れ物探しができたかもしれないというのに。

 彼女の座るボックス席の隣、えんじ色が落ち着くソファーの席に座って、私は髪を解き髪飾りをテーブルの上に置いた。ミツバチのお尻の模様をした黄色と黒の縞々の丸い髪飾り。ツインテールをした時用に合わせて二つある。それを並べて置く。私の持ち物はこのメイド喫茶の制服と、私自身の身体だけ。その事に何か忘れ物のヒントがあるのかな、そう思いながら瞬きをした。

 その時だ。一瞬だけ髪飾りが別のものに見えたのだ。

 赤だ。二つの赤い丸。驚いて思わず目を見張るも、目の前は変わらず黄色と黒の縞々模様が置かれているだけだった。

(赤い丸、黄色と黒の縞々…。)

 それは何だ。考えようとして、後もう少しで思い出せそうというタイミングで思考が止まった。なぜだか分からない。でも何となく今は考えてはいけない、そう心のどこかに潜むもう一人の私が待ったをかけたのかもしれない。

 引っ掛かるけれど、今はやめておこう、実里。私は無理やり別のことを考えた。ええと昨日のことを考えよう。昨日は女性のお客さんを一人担当したよね。それで彼女とどんな話をしたんだっけ。私が彼女に質問をして、それから彼女も私に質問をしてきたんだった。

 視界の端にはオレンジ色の光がふよふよと浮いている。橘さんだ。彼が何のために動いているのかはよく分からないけれど、動きを見る限りは話しかけても大丈夫そうな雰囲気だろう。

「ねえ、昨日のお客さんにいつから働いているのかって聞かれたんだけど。橘さんはいつからここにいるの?」

 自分のことがよくわからないのなら、人の話を聞いてヒントでも貰おう。そう考えて思い切って橘さんに話を振ったのに。

「橘さん?」

 また消えた。せっかく質問しようと思ったところで。なんなんだあの点滅オレンジ、自分の都合が悪くなると逃げるってか。まあ…それ自体は別に悪くない生き方だと思うけど。

 橘さん。あの人は一体何者なんだろう。この店の店長である事と声の低さから男の人なのは分かるけど、それ以外のことは何も知らない。

 私はカウンターを照らす間接照明たちの光を順に目で追った。オレンジ色の灯り、光が柔らかくて私は好きだな。店の前には植え込みとそれから橘の木があって。店長の橘さんはオレンジ色の光みたいな存在で。オレンジと緑ばかりだ。よくみると壁に飾られた絵画も白い花だけど…これもしかして柑橘類の花だったりする?なんとなく記憶にあるみかんの花は、確か白い花だった気がする。

 ああ、もしもこの喫茶店が向こうの世界でも存在するとしたら、柑橘類好きによる柑橘類好きのための柑橘類喫茶にでもなるのかな。お客さんは皆、柑橘類好きで。そういう私も大のオレンジジュース好きだし、ハルちゃんだってみかん味の飴を常備している人だ…二人ともお客さんとして来店する可能性はありそう。いや待て、私はお客さんじゃなくて店員としていそうだ。制服はもちろんオレンジ色一択がいい。

 こうして私があれこれ考え事をしている間も、ハルちゃんは静かに巾着を見つめていた。だが私が彼女の方を向いたその視線に気がついて、彼女も巾着の紐をきゅっと結んでこちらを向いた。

 何か話題を…と構えたものの先に彼女が口を開く。

「そう言えば今日のお客さんは一人だけみたい。お昼くらいには来るだろうから、私たち午後になったらまた時間ができそうなの。ねえ実里ちゃん、二人でどこかお散歩に出かけない?」

「え、ハルちゃんとお散歩?うん行きたい!…けど完全にお店を空けちゃって大丈夫なのかな。」

「橘さんには許可を貰っているから。」

「へー。」

 ちゃっかり橘さんにこういう許可を確認しているところが、なんともハルちゃんらしい。私とは違ってしっかりしていて大人だな。私なんて先程店の前の木の実を勝手に食べて、橘さんに呆れられたばかりだというのに。私もちゃんと年齢に見合った大人にならないと。気合い入れようね、実里。

 それにしても、ハルちゃんからのお誘いだ。彼女からの提案に嬉しさと同時に安堵が生まれる。それは彼女がこの店から離れてどこかに行きたいと示したからだ。

(だってハルちゃんが長い時間歩いているところを見たことがないから…。)

 彼女と初めて会ったのはこの店の中で、彼女がこの店まで歩いてくる様子は見ていない。そのあとは直ぐに座って話をして…それから昨日は、私はお客さんと一緒に外に出たけれど…ハルちゃんはお店の中でお客さんの対応をしたのみだ。

 お店の準備や片付けの過程で店の外に一瞬出ることはあったけれど。それ以外で彼女が店の外に出るのは初めてだろうし、どちらかというと店の中にいる時も座っている姿の方がよく見る気がする。

(今もずっと座っている。)

 まだ出会ってからたったの二日だし偶然だと思うけれど、彼女の歩き回る姿をあまり見ていないのは果たして本当に偶然なのだろうか。それとも何か理由がある?どうしてこんな事が気になるの。そんな考えまで出てしまうくらいにはこの店に来てからの私たちの時間は長くて、色々と可能性を考えてしまうのも仕方がないとは思っている。だからこそ今この彼女からのお誘いは。彼女が私と何も変わらない、外を出歩ける普通の女の子だということを示していた。そして嬉しさと共に安心したのだ。よかった、私と彼女がちゃんと同じで…と。

 ハルちゃんとお散歩か。私は昨日もお客さんとこの辺りを歩いたけれど、ハルちゃんは初めてだ。彼女の行きたい場所をちゃんと聞いて、もしも昨日と同じ場所だったとしても一緒に歩きたい。

「ハルちゃん、どこか行きたい場所はあるの?」

「それが言い出した側なのに、どこに行くかまでは決まっていないのよ。」

 そうか、ということは彼女の要望は昨日のお客さんと同じ《散歩に出かけたい》なのかな。はっきりとは言っていないけれど、もしかしたら彼女は何か忘れ物を思い出し掛けているのかもしれない。その手助けになるのなら是非一緒に散歩に出かけたいと思う。

「あ、そうだ。私たちが目を覚ました場所に二人で行ってみるのはどう?」

 パッと頭の中に浮かんだのは駅のホームだ。通勤で利用する駅ではなく、私がこの世界で最初にいた場所。あの時は何もかもが分からなくて不安で、冷静に周りの様子を見ることはできなかったけれど、今ならちゃんと見られるかもしれない。それにあの時は夜だったけれど、今は昼間だ。新たな気づきがありそうだ。

「…お互いの、目を覚ました場所。」

「私が駅でハルちゃんは病院だっけ。そこにもう一度行ったら何か思い出せるかなと思って。」

「…。」

「ハルちゃん?」

「うん、そうね。せっかくだからもう一度行ってみようかしらね。」

 ハルちゃんの動きが一瞬止まった。何か引っ掛かるものがあったのか、それは思い出したら散歩の時に聞こう。もしもそうだとしたら、短い話では終わらない気がする。まずは午前中のお客さんの対応を終わらせて、話はその後だ。午前中にお客さんが一人来るから……あれお客さんがすぐに帰るってどうして分かるんだろう。お客さんの名前も前もって教えてくれるけれど、電話がかかってくる訳でもないし。橘さんはその日に来るお客さんの人数をどうやって把握しているの。未来のことなんて誰にも分からないのに、不思議だな。

 橘さんに関する疑問がまた一つ生まれたものの、聞いたところで本人は答えてくれそうな気がしなかったので私は考えるのをやめた。何だか飲み物が欲しい、冷蔵庫を開けてグラスにオレンジジュースを並々と注いだ。

 美味しい。毎日毎食飲んでも飽きない、大好きなオレンジジュース。

 いくら飲んでも怒られなければお金もかからない。だったらこのままこのお店に居続けるのも悪くはないな、でも流石に飲み続けたら太るか?…とお腹周りを触りながら私の頭の中はすっかりオレンジ色だった。

「…実里ちゃん。」

 そんな私の後ろ姿をハルちゃんと、そして橘さんまでもが見ていた事を、私は何も知らなかった。



 チリンとベルの音が鳴って扉が開いた。私とハルちゃんは同時に店の入り口の方へと振り向いた。

「お待ちしておりました、渡辺愛菜様。」

 店の中に入ってきたのは金色に近い明るい髪色をした長髪の女の子だった。レトロな感じが良いこのお店の雰囲気にはあまり似合わない感じの、だいぶ派手目な格好をしている。

「あたしの名前、知ってるんだね。」

 冷たい声で、女の子が私の方を見た。おお強そうな子だこと、そんな言い方されたって一歩も引いちゃダメよ、実里。私はにっこりと彼女に笑い返した。視線を逸らした彼女はハルちゃんの方を向く。

「お好きな席に座ってくださいね。」

 ハルちゃんは変わらない笑顔で彼女に案内をし始めた。完敗だ。大人な対応をしているハルちゃんは凄い。

 その女の子、渡辺さんはカウンター席を選んだ。うん、気持ちを切り替えて接客しよう。ハルちゃんが彼女に飲みもののオーダーを聞いている。私の予想だと彼女のオーダーは甘ーいミルクティー。…おっと予想は大外れで暖かい緑茶だった。何だ、可愛い顔して中々渋いチョイスだ。

 準備してきますね、と私は厨房へと向かう。茶葉の種類を細かく覚えていた訳ではないが、棚にはちゃんと緑茶の茶葉が置いてあった。急須に茶葉を入れてお湯を注ぐ。湯呑みとこれまた厨房に置いてあったお茶菓子をお盆の上に乗せると、お茶を溢さないように…とゆっくり彼女の元へと運んだ。私を見てぺこりと頭を軽く下げた彼女。なんだ会釈とか出来るのか、見かけによらず彼女はちゃんとしている人なのかもしれない。

 橘さんが彼女にこの店の説明をしている。内容は相変わらずだ。私の時と同じで曖昧な説明で、彼女は少し眉を潜めながらも静かに話を聞いている。私はというと店の隅にあるボックス席へと座った。仕事中とはいえ、今は彼女の邪魔をしないように行動するのが私たちメイドの振る舞いだと思うからだ。ハルちゃんもこちらに来るかな。視線を送るがハルちゃんは珍しくカウンターの中で、点滅している橘さんの隣に立って彼女と一緒に話を聞いている。一緒に聞くんだな、と私は視線を窓の外に向けた。ガラスの向こうに青い空が見える。

 橘さんの話が終わり、彼女が考え事をし始めて、店内はシンと静まった。しばらくしてハルちゃんが新しく淹れなおしたお茶の急須を持って、彼女の隣に座る。

「渡辺様、何か思い出されました?」

 私はこのまま二人の話を聞いていればいいかな、とその場を動くことなく一度動かした視線を元の位置へと戻した。こういう他人と話し相手になる仕事は、お客さんとの相性に合わせて動くのも大事だと思うから。

「うーん、あの人はこの店で忘れ物を探せって言ってたけど。あたしが探しているのは、人なんだよね。」

「人ですか。」

「そう。」

 へーあの子、人を探しているのか。家族とか友達とか大事な人かな。

「ご家族ですか。」

「彼氏だよ。」

 か、彼氏。思わず動きを止めて彼女の方に聞き耳を立ててしまった。私は今までいたことないのにあの子にはいるんだ…いいなー。なんだろうこの敗北感。歳が近そうだからこそ、彼女との差を感じてちょっと悔しい。

「渡辺様の彼氏さんは、どのようなお方なのですか。」

「あー、あたしのことマナって呼んで。名字で呼ばれるの好きじゃないから。」

「そう…じゃあマナちゃんでいいかしら。」

「うん。」

 ハルちゃんが、彼女を名前で呼んでいる。彼女の彼氏発言に少し悔しい思いをして心がざわざわしたのに、ハルちゃんが私以外の子を名前で呼んでいるのを聞いて騒めきが増した気がする。ハルちゃんも彼女の方を向いて話していて、私にはハルちゃんの背中しか見えないから。少し疎外感を感じるというか、私とハルちゃんだけの特別な関係がまるで薄れてしまったような感じだ。これは嫉妬心だ。心の中で首を振る。

(私たち接客業だから、そういうの考えるだけ無駄だって分かっているけどさ。)

 いいんだ、彼女がこのお店を出て行ったら、私はハルちゃんと仲良く一緒にお散歩に行くんだから。ああでも待って、もしも彼女が私たちと同じようにこの店に居続けるとなったら、お散歩は延期?それとも彼女も着いてきちゃったりする…⁈

 彼女には申し訳ないけれどできれば早く帰ってほしいな…と彼女を見ると一瞬目が合う。彼女は特に表情を変えることなくハルちゃんの方へと視線を戻して、腕を組み直した。手首の金のブレスレットがキラリと光る。

「彼氏はね、二つ歳上だったんだけど。」

 歳上彼氏か。いいな憧れる。そういえば私小さい頃からお兄ちゃんが欲しかったんだよね。そのせいか歳上の人を格好良いと思う事が過去に何度かあったな。憧れるだけで結局恋に発展することはなかったけれど。それでその彼氏がどうしたんだろう。

「去年の夏に死んだの。だからどうしても会いたくて、追いかけたんだ。」

 …恋人が死んでそれをあの子が追いかけた?私は思いきり顔を二人の方に向けた。

「あの頃に、戻りたいな…。」

「もし戻れるのなら、いつがいいの?」

「んー、二つあるんだけど。」

「いつ?」

 ハルちゃんと彼女の会話は続く。私は宙に浮いた手を下ろすことなく、そのままの姿で二人の話を聞き続ける。

 全身の血の気が引いて、肩が寒い。手が震えていく。

「一番戻りたいのは高校の頃。あの頃さ、彼氏とマジ仲良くて本当毎日楽しかったんだよね。人生の中での幸せのピーク。」

「いいじゃない、幸せの一番がある人生って素敵よ。」

「うん。それで…、いやそれが一番なんだけど。次に戻りたいかなって思う時があって。」

「それはいつ?」

「死ぬ、直前。」

「直前に戻りたいの?どうして。」

「理解できないかもしれないけれど、あたしは死んだら会いたい奴に会えるようになると思って死んだんだ。あの時はまだ怖いもの知らずで飛び込んだから、だからあの時に戻りたいって思う。何も知らずに夢見ていた方がずっとマシだったから。」

 こんなに冷たく感じる事ってあるのかと疑いたくなる程に、身体の全てが冷たい。どうしてこんなに冷たいの。それは怖いから、認めたくないから?…違う。私がもう既に死んでいるから、だからこんなに冷たいのか。

 ハルちゃんと彼女の話し声は何も変わらず穏やかで、暖かだ。どうして。私はこんなに寒くて仕方がないのに…。

「あのね、あたし生きていた頃、あいつに会いたくて仕方がなくて毎日寂しくて哀しくて苦しかった。死んだら天国があると思っていて、そこに行けばあいつに会えると信じて疑わなくて。だから追いかけようと思って死んだのに。

 ねえ、あたしなんで今ここにいるのさ。なんであいつはここにいないの。この店を出たら、今度こそちゃんとあいつに会えるのかな。」

「……。」

「こうやって死んでからやっと思い出したんだ。あいつがよくあたしに言っていたこと。ちゃんと前を向いて生きろって。その時は足元に気を付けろだとか、そういう意味で捉えてたんだ。あたしたち、ずっと一緒にいられると信じていたから。なのにあたしあいつが死んでから後ろばかり向いて生きてた。いない人の背中を探してさ、あいつとの思い出ばかりに浸って。」

「仕方がないわ。それだけ貴女にとって大事な人だったのでしょう?」

 ハルちゃんと彼女がずっと話している。そんな二人のやりとりを私はただ茫然と見ていることしかできなかった。

 だって彼女は何と話したていた?彼女の話をもう一度思い出そう。えっと、彼女には大好きな彼氏がいて、その彼が死んでしまって、彼女は彼を追いかけて、…死んだの?死んだ、死亡した。それで彼に会いたいのに会えていないと言っている。

 彼女が死んでいる。つまりこの店に来たお客さんは皆死んでいて。それはつまり私も死んでいるって事?嘘だよね、私死んじゃったの?

 視線の先に映るのは、薄紫色の着物姿の背中だ。オレンジ色の簪がキラキラと日の光を浴びて光っている。ハルちゃん。ハルちゃんも死んでいるの。ねえハルちゃん、さっきと何も変わらずに彼女の話を聞いているけれど、それって一体どういうこと。驚かないのはなんで、普通にしていられるのはなんで。彼女が私よりもずっと大人だから?分からない。

 ハルちゃん、と声をかけようとした。でも喉が震えて声が出せなかった。じゃあ近くに行こう、そう立ちあがろうとしたがどうにも足に力が入らない。

 嫌だ、私が死んだなんて信じたくない。手が足が更に震える。こんなにも身体が震えるのに、この身体はもう死んでいるの。次第に視界が暗くなって店内の照明が点滅し始める。どうしよう、このまま勢いよく立ち上がったら倒れてしまうかもしれない、頭がくらくらする。

 その時、頭上から橘さんの声がして私はソファーの背もたれに勢いよく寄りかかった。

「実里、今はここに座っていなさい。」

 目を瞑りテーブルに肘を付いて頭を伏せた。私が死んだなんて嘘だ、嫌だ嫌だ、こんなの。夢なら早く覚めてほしい。そう繰り返し祈ったものの、目の前に広がる景色は変わらないままだった。



 カランとドアが閉まり店の中に静寂が広がる。私は変わらずソファーに座ったままで、ドアの前に立ってお客さんのお見送りをしたハルちゃんは、カウンター裏からオレンジジュースの入ったグラスを二つ運んできて、私の前に置いた。隣をいい?との質問に無言で頷くと彼女が隣に座る。

 オレンジジュースのグラスを見つめる。ご丁寧にストロー付きだ。相変わらず美味しそうな色をしているのに、今はどうしても飲みたいとは思えない。私は手を伸ばしグラスを両手で覆った。手が冷たい。こうして冷たいことは分かるのに、私がもう死んでいるだなんて未だに信じられない。

「……ハルちゃんは知っていたの?」

 私の質問に顔色を変えることなく、ハルちゃんは口を開く。

「ごめんなさいね実里ちゃん。私、実は昨日のお客様の話を聞いて既に知っていたの。」

「……。」

 そうか、もうすでに知っていたのか。だからこんなに落ち着いていられるんだ。ハルちゃんは自分が死んだのをもう知ってたのか。理由は、なんだろう。

「ハルちゃんはどうして死んじゃったの。もしかしてもう全部思い出したの?」

「そうね、少しだけど思い出したわ。」

「何を?」

「私の最期の時よ。私の最期は病院だったの。」

 ハルちゃんの最期の時。つまり死んだ時の事だ。ハルちゃんは病院で死んじゃったんだね。可哀そうに…病気かな、それとも事故だったのかな。私は、私はどうして死んだんだろう。静寂の中で目の前のオレンジジュースの中の氷が溶けて音を立てる。

「実里ちゃん、あのね…この世界に来た時にいた場所、私がいたのは病院のベットだったの。そして私が死んだ場所も病院のベット。これって偶然なのかな、と思って。」

「それって……。」

「同じと言えば同じ場所なのよね。」

 目覚めた場所が死んだ場所と同じ。だとしたら。あれ、私が目覚めた場所はどこだった?

「待ってハルちゃん、私はどうなるの。私、電車の中にいて……。電車の中で死んだの?それとも線路、駅?」

 頭の中に浮かんだのは走り抜ける電車の中に身を投げる私の姿だ。それと今朝、一瞬だけ重なって見えた私の髪飾り。赤い二つの丸に黄色と黒の縞々模様、あれはきっと踏切だ。踏切の中に入った、私が。もしかして、自分から…?

「嘘だ、違う!私は絶対にそんなことはしない!だってお父さんとお母さんが死んだ時、私は何があっても生きていくって心に誓ったもん‼」

 いくら私が記憶の一部を忘れていたとしても、それだけは絶対にしない。それだけは自信を持って言い切れる。自分から死にいくようなそんな生き方は今までしてきていないから。

 私はソファーの背もたれに預けていた身体を勢いよく起こした。沸々と血が頭に上っていくのが分かる。信じない、絶対に信じない!

 隣に座るハルちゃんは、やはり変わらない表情だった。立ち上がりそうになった私の背中をポンポンと優しく叩いて、宥めようとしている。

「そうね。実里ちゃんがそう思うのなら、そのはずよ。何があったのかは分からないけれど。」

 優しいハルちゃんの声。それが今は凄く苛つく。なんでそんなに冷静でいられるの。ハルちゃんだって昨日知ったばっかりなんでしょう、私とそんなに変わらないじゃん!

 私はハルちゃんの方を向いた。きっと今、私は彼女のことを強く睨んでいるんだと思う。

「ねえ、なんで私死んだの?なんで今死ななきゃならなかったの?私毎日メイドさんのお仕事を一生懸命頑張って、でもそれ以上に毎日楽しく生きてたんだよ⁉︎それなのになんで死んだの⁉︎死んで償わなきゃいけないような、何か罰を受けるような悪いことでもしたの⁉︎」

「それは私には分からないわ。」

 そう、ハルちゃんだって分からない。彼女に怒ったって仕方がないのに。彼女も私と一緒で、死んだことを知ったばかりなのに、私だけこんな風に怒って。そんなことしたって何も変わらないのに、それでも彼女に当たってしまう自分が、小さくて弱くて、悔しい。

 すると頭上で明かりが点滅したような気がして上を向くと、オレンジ色の光が動いているのが見えた。橘さんだ。彼は私がこの店に来た時、私の名前を知っていた。その後に来たお客さんたちの名前も全部知っていた。その時は不思議だなとしか思わなかったけれど今なら分かる。この人、知っていたのは名前だけじゃなかったんだ。

「ねえ、橘さん!橘さんは私の死んだ理由、全部知っているんでしょ⁉︎教えてよ!」

 叫んだ途端、プツンと小さな音を立てて店内の明かりが一斉に消えた。部屋の中が暗くなり、窓からの太陽光だけが店内を明るく照らしている。勢いよくテーブルに手をついて立ち上がり、私は辺りを見渡した。テーブルが揺れて手元のジュースが少しグラスから溢れてしまう。

 いない、またいなくなった。

「…都合の悪い時だけ消えるなっ!馬鹿っ!」

 オレンジ色の光はどこにも見当たらなくて。

「実里ちゃん…。」

 店内には私とハルちゃんの二人だけになった。

「………。」 

 どうして。どうしてこんな辛い想いを私がしなければならないんだろう。なんで死ななきゃならなかったの。ねえお母さんお父さん、二人が死んだ時も思ったけどさ、どうして世の中こんなに不公平なの。

 ハルちゃんが私の背中を擦り始めた。するとさっきから怒りの下で気付かないようにしていた悲しみがぶわりと込み上げてきて。俯いた途端、エプロンがぽたぽたと濡れた。

「…ハルちゃん。私たち、死んじゃったんだね。私も、ハルちゃんも。」

「そうね。」

「もっと生きていたかったよ…やりたいこと沢山あったのに。まだ全然出来ていないのに。」

「そうなのね。」

 ねえ神様。もしもいるなら時間を戻してよ。私が毎日楽しく生きていたあの場所に帰してよ。どうしたら帰してくれる?この店で働き続けたらいつか戻してくれる?いくら考えても祈っても、目の前の景色はやはり変わらない。オレンジジュースの乗ったテーブル。えんじ色のソファーとカウンターの前に並ぶ椅子たち。茶色の壁。何度見ても橘さんのお店だ。

「……っ。」

 受け入れるのよ、実里。今までだって辛い事をいっぱい受け入れてきたじゃない。お母さんが死んだ時。それからお父さんが死んだ時も。どうして私ばっかりこんな想いをしなきゃならないのって。そう思いながらもなんとか受け入れて強く生きてきたじゃない。泣くな、泣いたって何も変わらないの。一度死んでしまった人間はどう足掻いても生き返りはしないって、もう知っているはずでしょう?今回はそれが自分に起きただけよ。それだけのこと。

 ぴたりと何かが唇に触れた。ぎゅっと閉じていた目を開けるとオレンジ色の丸いものが口の中にコロンと入った。ハルちゃんの指が私の口元から離れて、頭を撫でられる。口の中には柑橘類の甘酸っぱい爽やかな味が広がった。

「こういう時は、思い切り泣いていいのよ。」

 こんなに泣いたのは、高校の卒業式ぶりかもしれない。あの時は無事に卒業できた安堵感や達成感からくる涙だったけれど、今は違う。悔しくて悲しくて泣いているんだ。私はハルちゃんの膝に思い切り顔を埋めて泣いた。彼女のエプロンが私の涙で濡れていく。なんで、嫌だ、と繰り返し言っては泣き続ける私を彼女はうんうんと宥めてくれる。

 みかん味の飴は少しずつ小さくなって、途中から涙の味が混ざった。悲しい、辛い。今は考えたくない。疲れた、泣くのも疲れた。私は目を閉じたまま何も考えないようじっと動かずにいた。

 それからどのくらい時間が経ったのだろう。気になって目を開けた私はハルちゃんに顔を向けた。ハルちゃんは相変わらずの笑顔だった。

「実里ちゃん、昨日から思っていたんだけど。私たちこの店に来てから一度もちゃんとしたご飯を食べていないのよ。」

 ハルちゃんの言葉にハッとし、私は身体を起こして自分のお腹を見つめた。…何も感じない。

「ほんとだ。…やっぱり死んだから、お腹も空かないのかな。」

「そうかもしれないわね。でも今、私何か甘ーいものを食べたい気持ちがあるの。実里ちゃんはどう?」

 ねえなんでそんなに優しいの。相変わらずハルちゃんは、出会った時となんの変わりもなく優しい声で私に話しかけてくれる。甘いものか。お腹は空いていないけれど、でも出されたら食べられる感じはある。そうだ…でも味は分かるんだっけ。私は目の前のオレンジジュースを一口飲んだ。いつもの大好きなオレンジジュースだ。よかった、死んだ後も美味しいがちゃんと分かって。そう思ったらまた目から涙が溢れた。

「うん食べる…。」

 ちゃんと答えられたかは定かではないけれど、ハルちゃんは頷くと立ち上がりカウンターの裏へと向かった。私は鼻を啜りながらゆっくりと彼女の後を追う。そして小さなコンロの前に立つ彼女の横に立って肩に寄りかかると、まるで子供をあやす母親のようによしよしと頭を撫でられた。

「ここの厨房は料理をしてもいいのかしら。」

「…ハルちゃん、料理できるの?」

 キョロキョロと周りを見ている彼女。どうやらこれから手料理を振る舞ってくれるらしい。ハルちゃんの手料理、楽しみだ。

「そうね人並みくらいはできるわ。これでも一応、ご主人様に仕えていた時は三食作っていたもの。」

 そっか。ハルちゃんもメイドさんだもんね…って三食作っていたの?私は彼女の肩に寄せていた頭をバッと上げた。

「ハルちゃん、厨房担当だったの?」

「え?違うわ、洗濯や掃除も全部していたわ。」

「え……。」

 嘘でしょ。そんなメイド喫茶がこの世にあるの。お客様もといご主人様の炊事に洗濯・家事全般とか、それじゃまるでお金持ちのお屋敷にいるばあやじゃん。あ、そうか一応ばあやも《メイドさん》のうちの一人になるのか。

「ばあや喫茶って需要あるのかな。」

「え?なに?」

 頭の中にメイド服を着たおばあちゃんたちの集団が現れる。扉を開けた瞬間、そのおばあちゃん集団が『おかえりなさいませ』と頭を下げるのか。うんうん、インパクトはありそうだ。世の中の元気そうなおばあちゃんたちを集めて、シフトは短めにして。結構人が集まるんじゃない?孫の小遣いを稼ぎたいと頑張る元気なおばあちゃんとかいそうだし。いいかもしれない、ばあや喫茶。

(あ…でももう夢を見たって何も叶えられないんだ。私もう、死んじゃっているから…。)

 気がつくと私はいつの間にか壁に寄りかかっていて、ハルちゃんはというとこちらを見ていた。しまった、ついさっきまでは死んだことを嘆いて怒ったり泣いたりしていたのに、一瞬とはいえこの短時間で忘れちゃうとか、単純すぎる私の頭に自分で呆れる。

 ハルちゃんはニコッと笑うと、手に持っていた物を私に見せた。

「たまごに薄力粉、お砂糖…牛乳。実里ちゃん、ホットケーキはどう?」

「うん、ホットケーキ。食べたい。」

 どこからかフライパンを見つけ出し、ボールに材料を入れて生地作りを始めたハルちゃん。ハルちゃんが手を動かす間、私は少し前のことを思い出していた。衝撃的な事実を知ったせいで薄れてしまっていたが、この店には先ほどまでお客さんがいたのだ。

「あのさハルちゃん。さっきの子、えっと…。」

「マナちゃん?」

「そう、あの子の忘れ物って結局何だったの?」

 ハルちゃんと彼女が話していたところまでは覚えている。でも気がついたら彼女は店を後にしていた。この店は《忘れ物を見つける》為の店で。つまり彼女は他のお客さんと同じように、忘れ物を思い出してそれから見つけたということだ。

「『前を向くこと』ですって。それを忘れて死んでしまって、この店に来て思い出したそうよ。」

「それを思い出したからお店を出て行けたの?」

「ううん。『あいつがこの先にいてもいなくても、もう戻れないなら自分から先に進む。』そう言っていたわ。忘れ物を思い出したからというよりは、彼女自身が前を向いたから、でしょうね。」

「前を向いたから…。」

 前を向くこと。それは物理的なことじゃなくて…心か。私は店の入り口の扉を見つめた。忘れ物を見つけたお客さん達は、あの扉から次の場所へと進んでいく。

(でも私はまだこのお店を出たいと思わない。)

 もしも私が忘れてしまったものが《自分の死について》だったとしたら、私はまだ自分の死んだ理由ちゃんと見つけていないからだ。何があったんだろう。最後の記憶はいつもと変わらない朝の通勤の景色のままなのに。

 ぷつぷつとフライパンの中で生地が焼ける音がする。ハルちゃんがまた何かを探していて、それから天井の方へと顔を上げた。

「橘さん、メープルシロップはあるかしら。」

「あ、まってハルちゃん。私、はちみつがいい。」

 思わず彼女を止めてしまった。別にメープルシロップでも構わないけれど、今はそういう気分だった。ハルちゃんが不思議そうな顔をして私を見ている。

「あらそうなの…?どうしてハチミツなの?」

「うん、おばあちゃんがね。時々ホットケーキを焼いてくれたんだけど、おばあちゃん家にはメープルシロップがなくて、いつも代わりにはちみつを掛けていたの。」

「そうなのね。ハチミツ…。」

「だから私の中でのホットケーキは、はちみつをかけるんだ。おばあちゃんのホットケーキが好きで。でも、もう食べられないんだ……。」

 急にまた目元が熱くなって、床に一粒涙が落ちる。

「…そうなのね。じゃあ美味しいハチミツを用意してもらいましょうね。」

 完成したホットケーキをハルちゃんがお皿に盛って。私はそれをカウンターへと運び、ナイフ・フォークと一緒に並べようとして、気が付いた。

「あ……。」

 カウンターの上に小さな小瓶が置かれている。貼られていたラベルには《オレンジ蜂蜜》と書かれている。私よりも先にハルちゃんが瓶を手に取った。

「えーっと、オレンジの花に集まるミツバチの巣から取れた蜂蜜ですって。橘さんったら、ちゃんと実里ちゃんの好きなもの分かっているじゃない。」

 ふふっと笑うハルちゃんの横で私は店内を見渡した。消えてしまったはずの店内の明かりはいつのまにかまた点いていて、でも目を凝らしてみても橘さんらしき光は見えなかった。先ほど自分が彼に放った言葉を思い出す。事実を受け入れられないからって、人に当たって大人げなかったな。橘さんはただ私たちの傍にいて、私たちがここに居ることを許してくれた大きな存在なのに。

「橘さん、いない…。」

「大丈夫よ。実里ちゃん相手なら橘さんは絶対に許してくれるわよ。」

 変わらない落ち着いた様子のハルちゃんは瓶の蓋を開けようとして、でも力が足りなくて開けられなくて、私が代わりに開ける。瓶の中からはほのかにオレンジの混ざる蜂蜜のいい香りがする。

「酷いこと言っちゃったのに、用意してくれたんだ。」

 沈み続けそうな気持を何とか上げようと、ハチミツをスプーンで掬う。日の光を浴びてキラキラと光っている。それをホットケーキの上にたっぷり掛けた。

「あのね。おばあちゃんの作るホットケーキね、時々少し焦げていて。考え事をしていると焦がしちゃうんだって。でもそれも含めておばあちゃんのホットケーキ、って感じだったんだ。」

 そう言いながら私はハルちゃんに瓶を渡した。受け取ったハルちゃんはというと、じっとお皿の上のホットケーキを見つめている。

「………。」

「ハルちゃん?」

 ハルちゃんが手を伸ばして自分のお皿の分のホットケーキを少しだけめくった。裏側がだいぶこんがりと焼けている。

「まさに実里ちゃんのおばあちゃんと同じ事をしちゃったわ。」

 ぺろりと舌を出して笑ったハルちゃんが、とても可愛らしい。

「ねえ、せっかくだからそのハルちゃんのおばあちゃんの話、詳しく聞きたいな。」

 フォークを刺して口の中に放り込んだホットケーキ。ふんわりと柔らかい生地に絡まるオレンジ風味の蜂蜜。甘くて、少しほろ苦い。

―ほら実里、焼けたから沢山食べな。―

 エプロン姿のおばあちゃんが台所に立って、ホットケーキを焼いている姿が頭の中に広がる。気が付くとまた私は泣いていて。しっとりとしたホットケーキへと変わった最後の一口を口の中に放り込むと、生地の中からオレンジと蜂蜜の香りがふわりと鼻を抜けて。オレンジジュースをごくりと飲んだ私は、あのね、とハルちゃんに思い出話をし始めた。

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