第2話 お嬢様とご主人様

 村主実里、二十二歳。職業はメイド喫茶のメイドさん。高校卒業後すぐに働きはじめて早数年、最近は年下の子たちに仕事を教えたりイベント企画を任されたりと、仕事に忙しく生きる至って普通の女の子だ。

「お父さんお母さん、行ってきます。」 

 玄関前の棚の上、写真の二人に声をかけて家を出る。階段を降りて少し歩くと大好きな公園が見えてくる。そこは車通りの少ない静かな道。私は立ち止まるといつものようにカバンの中から携帯電話を取り出した。

「…もしもしおばあちゃん?実里だよ。うん、おはよう。そう今日も仕事だよ、頑張ってくるね。」

 お父さんお母さんが亡くなってから高校を卒業するまでの間、二人で一緒に住んでいたおばあちゃん。私が仕事のために上京し一人暮らしを始めたのをきっかけに、おばあちゃんも数年前から一人暮らしを始めた。その時叔母さんたちが一緒に住もうよとおばあちゃんに言っていたのを聞いたことがある。でもおばあちゃんは「住み慣れた家を出て行くのは嫌だ、私はここで静かに暮らしたい」と譲らなかった。

「いつでも遠慮なく帰っておいで実里。ごはん作って待っているから。」

 あの引っ越しの日の朝、笑顔で見送ってくれたおばあちゃんにこうして毎日電話をかけるのが、今の私の出勤前のルーティーンの一つだ。今日もいつもと変わらないおばあちゃんの優しくて元気そうな声を聞いて、ほっとした私は駅へと向かった。元気とはいえど、おばあちゃんもいい歳だ。いつまでも元気でいてほしいと思うのは孫として当然の気持ちだと思っている。

 改札を通り電車に揺られて三十分、そこから歩いて五分。私が考え事をできるのはここまでだ。店についてからは、開店に合わせて物のチェックをしたり、着替えをしたりとやることが色々あって忙しくなる。特に身だしなみに対しては、きっと普通の喫茶店の店員よりも気を遣っていると言えるだろう。

「実里ちゃん、今日は髪型どうするの?」

 休憩室で制服に袖を通したタイミングでいつものように同僚が声をかけてくる。腰のリボンを前側で結んで、靴下を履きそのまま靴も履き替えた。

「今日は下ろすか…いや高めの位置で三つ編みにしようかな。」

鏡の前に立ち、私は髪を梳かし始めた。髪を左右に分けて指を動かし編んでいく。それから髪飾りをつけて最後にカチューシャをつける。これでメイドさんの完成だ。すると頭の中は今日来店するであろう常連客たちの顔へと変わった。今日は日曜日。開店と同時に来てくれる私の専属の《ご主人様》は、いつもオムライスを頼む人だ。仕上げのケチャップでご主人様にメッセージと絵を添えるのが、ご指名時の私の特権。今日はどんな風にしようかなと考えながら、鮮やかな黄色のオムライスの上に真っ赤なトマトケチャップで絵を描く。ご主人様からは毎回、画伯だと褒められる。



 チリンと店の扉が開いて一人の女性が店内へと現れた。赤い花柄のワンピースを身に纏った、三十代くらいの方だろうか。

「いらっしゃいませ、橋詰百合子様ですね。お待ちしておりました。」

 女性は、私の方をじっと見ると軽く会釈をしながら笑った。

「こんにちは、貴女は私のメイドさんかしら?」

「はい、メイドの村主です。お嬢様、こちらへどうぞ。」

 希望を聞いて彼女をボックスシートの席へと案内した。彼女がゆっくりとソファーに座ると私の横からオレンジ色が現れる。

「店長の橘です。何かお飲み物をお持ちしましょうか。」

 その女性、橋詰さんは紅茶を頼んだ。店長、準備してきますねと声をかけて私は店の奥へと向かう。棚から茶葉を取り出すと、ティーポットへ茶葉を入れる。あとはお湯を沸かして注ぐだけだ。その間に温かいおしぼりと…そうだ、一緒に焼き菓子を出してもいいかな。いつもの職場じゃできないけど、ここなら何をどれだけ出してもタダだ。橘さんに聞いてみて許可が下りたら彼女にお出ししたい。

「橘さん。」

「なんだい。」

 話を終えたのか、カウンターへと戻ってきた橘さんに許可を貰う。

「あの人にお菓子も出していいですか。」

「どうぞ。君の好きにしなさい。」

 よかった、なら遠慮なくおもてなしをしてあげたい。トレーの上にお皿を並べると、ショーケースにあるお菓子の中からマフィンを一つ取って乗せた。そしてお湯が沸いたのを確かめてポットに注ぐ。おしぼりも準備できた、よし持っていこう。

 彼女はというとソファーに座ったまま、指遊びをしていた。手を開いたり閉じたりを繰り返している。指を組んで祈るようなポーズをとったかと思えば、指でカエルの顔を作り出した。自分に向けてカエルの口をパクパクと動かしている。可愛い人だ、そう思いながら彼女の側に立つ。

「こちら、アールグレイとオレンジピールのマフィンになります。」

「ありがとう。いただくわ。」

 マフィンはサービスです、と伝えると目を輝かせながら彼女が笑った。そうそう、こういう顔が見たくて何かしてあげたくなっちゃうんだよね、私。ずっと側に立っているのは邪魔かなと思い、カウンター裏に戻りながらも私の内心はとても上機嫌だ。このお客さんにもてなす感覚、お礼を言われてどちらもいい気分になるこの空気感、これが好きだな、と思う。彼女はこの店に来て初めての私のご主人様だ。私の知る店と種類は少し異なるが、おもてなし歴四年のモノくらいは提供したい。私は背筋を伸ばした。

(それに…この人が忘れ物を見つける瞬間も見てみたい。)

 ここから彼女の表情は見えないが、彼女の側でオレンジ色が点滅しているのを見る限り、おそらく彼女は今、私やハルちゃんと同じように忘れ物の話について聞いているところだろう。

(もしも彼女もメイドとして働きたい、となってしまったら橘さんは許可するのかな。)

 私がこの店に来た時、店内にいたのは店長の橘さん一人だったことから、今までこの店に訪れたお客さんは皆自分の忘れ物を思い出した、ということになるのだが。果たして彼女もちゃんと思い出すのか、思い出すまでにどんな行動を取るのか、そして私も私の忘れ物を思い出してそれから見つけられるのか…と自分のこれからを想像すると不安になる。もしもこのままずっとおもいだせなかったらどうなるのだろう。ずっとこの店にいないといけないのかな。そうしたら私のお店はどうなるの。

「ねえ、メイドさん。」

「…っはい!お嬢様どうされましたか?」

 声をかけられて我に返るとカウンターの前に彼女が立っていた。カウンターには彼女に出したカップ類がまとめられて置いてある。いけない片付けをさせてしまった…!私としたことが、彼女の動きに気付けないほどに考え込んでいたようだ。彼女はというと先ほどと変わらない笑顔をしている。

「あのね、店長さんに言われたの。私、どうやら忘れ物をしているみたい。それで少し考えたのだけど、これから外に出て周りを歩いてみたいと思ったの。もしあなたが良ければ、私と一緒に歩いてもらえないかしら。」

 一緒に歩く?私は別に構わないがそれが彼女の忘れ物探しになるのだろうか。

 店長に確認してまいります、と彼女に伝えて私はカップ類を片付けた。ハルちゃんはというと、ずっと店の隅で布巾を縫っている。ハルちゃんも一緒に…と声をかけようとして止めた。確かに私たちはこの店で一緒に働こうと決めた関係だが、ここからは仕事として私個人で動かないと。元々来店時からあのお客さんの対応をしていたのは私で、そんな彼女から指名まであったのだから私が彼女のお供をすればいいだろう。ハルちゃんと常に同じ行動を取る必要はないのだ。奥の部屋に向かって「橘さん」と名を呼ぶと、パッと現れたオレンジ色が点滅した。経緯を話すと「彼女はあまり遠くには行かないだろうから、一緒に行ってきてね」と、すぐに許可が出た。

 店内から見える窓の外の景色は明るい。そういえばここの昼間の景色は初めて見る。この店で働くことが決まってすぐ、店の周りを掃除した時はまだ夜の暗さだったから、付き添いとはいえ昼間の外を歩けるのは楽しみだ。私があの不思議な駅からこの店に来るまでに見た景色はずっと暗くて心細くて、とにかく歩くのに必死で周りを楽しむ余裕なんかなくて。だから単純に楽しみだ。だが同時に疑問も浮かんだ。彼女は近所を歩きたいと言っていたがそれはどういうことだろう。彼女の外を歩きたいという言葉がなぜか引っかかる。

「ねえ橘さん!あの人、私と同じでこの店に来るまで歩いてきたんですよね?」

 少し大きな声で聞いてしまい慌てて手で口を覆う。席で待つお客さんには聞こえてはいないだろうか。橘さん、とあたりを見渡すも彼はいない。消えたのか。もしかして私は何か聞いてはいけない、答えにくいことを質問してしまったのかもしれない。

(まあ、いいか。聞けそうだったら彼女に聞いてみよう。)

 質問したら答えてくれそうな雰囲気の方だし。そうすぐに気持ちの切り替えをできるのは私の良いところよね、実里。そう思いながら私は店の方へと戻った。ハルちゃんにもこれから二人で外出することを話すと、彼女は作業していた手を止めて立ち上がった。

「行ってらっしゃいませ、お嬢様。実里ちゃん。」

 彼女がそっと店の扉を開けてくれる。カランとドアのベルが鳴り、穏やかな笑顔で会釈をした彼女のお見送りは和風メイド百点満点の所作で、私は思わず「うわ、好きかも」と言葉を漏らしてしまうと、ハルちゃんと私の今日のご主人様に同時にくすりと笑われて、私は少し顔を赤らめた。



 その日、その女性の目の前に広がったのは、一軒の大きな家、いわゆるお屋敷だった。雲一つない青空の下に白い洋館が建っている。

「素敵…!本当に夢を見ているかのような気持ちね。」

 彼女は誘われるかのように、迷わずその洋館の方へと歩き出した。

「本当に立って歩いているのね、私。それに…走れるわ!」

 歩き出した彼女は徐々にスキップを踏みはじめ、それから更に歌を歌いはじめた。息が切れるのもお構いなしに歌い続けている。その顔はずっと笑顔だ。

「お嬢様、とても嬉しそうですね。」

 私がそう声を掛けると彼女はくるりと振り向いて更に笑った。赤い花柄のワンピースが小さな風に合わせて揺れていて、太陽の光をいっぱいに浴びている彼女はとても幸せそうに見える。そんな彼女はと言うと「だって、こんなふうに自由に動いたのは久しぶりだもの」と笑い続けている。

「本当に綺麗なお屋敷ね。」

 白い洋館。中央にそびえ立つ大きな観音開きの扉には豪華な金の装飾がされていて。まるで御伽噺に出てくるお城のようだ。この洋館は橘さんの店からしばらく歩いた、住宅地の中に突然現れた場所だった。なるほど、暗い夜道では気付けないほどの広い敷地だ。もしもこの家の前を通っていたとしても私は公園くらいにしか思わなかったのだろう。こんな綺麗な場所が近くにあったんだと感心しながら私は彼女の後を追いかける。

「お嬢様、足元をお気をつけくださいね。」

「どうもありがとう。」

 城の庭のような広い洋風の庭園を歩き、咲く花々に足を止める彼女の話を聞き、まるで絵に描かれた天国の世界の一部を切り取ったかのような池を眺め鳥たちが飛んでいく様子を眺めて過ごす。そして一通り敷地内を歩いて、元来た道を歩いた。行きは少し遠く感じた道なりも、帰りはあっという間で私たちはすぐに店の前へと戻ってきた。

 赤い看板に白く書かれた「たちばな」の文字。そうかこの店の名前って、橘さんの名前そのままだったのか、とここにきて初めて気が付いた。さて、彼女のためにドアを開けよう。そう私は足を動かす。

(あれ、何だろう。)

 彼女の後ろ姿を追い越した時、彼女から何か不思議な空気を感じた。その違和感に足を止めて振り向き、私は彼女をじっと見つめる。

 どうしてだろう、彼女がとても儚げに見えるのだ。透明感が上がったというか、先ほどと身なりも表情も何も変わらないはずなのに、なぜか彼女が消えてしまうような、彼女とこうして話ができるのはこれで最後のような、そんな気がした。初めてだ、こんなふうに感じるのは。今までお客さんが帰る時に「また来てくれるといいな」と思うのは当然で、でも一度きりの来店になってしまうお客さんも少なくはなくて。それは仕方がない事だと割り切っているから、後に引きずったことはない。だがこうして別れ際にもう会えないんじゃないかと感じたのは、初めてだ。

 その時、頭に浮かんだのは彼女にまた会いたいという気持ちではなかった。彼女への質問だ。彼女に聞いておきたいことがある。私と同じように橘さんの店に現れて、それから外に出たいと言った彼女に聞いてみたい。自分の忘れ物が何なのか、分かっていそうだということを。直感でそう思ったのだ。

 よし、こういう時は聞いてみよう。せめてもの誠意を見せようと、姿勢を正して彼女の方に一歩近づく。彼女も私の様子に気が付いたのか、足を止めてこちらを真っ直ぐに見てきた。

「あの…お嬢様、お聞きしたいことがあるのですがよろしいでしょうか。」

「ええ、どうしたの?」

「お嬢様は、その目が覚めた時はどちらにいらしたのですか。」

 この質問をするだなんて、いつもの私のいる世界だったらおかしな質問だってことは、もちろんよく分かっている。場合によっては頭の変な人だと思われるかもしれない。でも現にここはいつもとは違う場所で、いくら待っても夢から覚めなくて。だから信じられないけれど受け入れようと思って。それでも一歩ずつ進んでいかないといけないと思って。

 私が目覚めた時、私はなぜか電車の中にいた。ハルちゃんは別の場所にいたという。それは人によって違うのだろうか、そう思うから彼女にも聞いておきたい。それにこの質問だったら、答えにくくはないだろうと思うし。

 彼女はというとうーんと記憶を遡るかのような素振りを見せて、それから店の方へと視線を送った。

「そのお店の前よ。気がついたら扉の前で一人で立っていたの。驚いたけれどどうしてかしらね。自然と扉を開けていてね、お店に足を踏み入れていたわ。」

 そうしたら貴女たちがいたのよね、と彼女は私に微笑んでくれた。

「聞きたいことってこのことなの?」

 彼女の問いに頭を振る。いや、聞きたいことはこれだけじゃない。この世界に来た時のことよりも、私が知りたいことがある。それは忘れ物についてだ。

「お嬢様は、忘れ物が何なのか思い出せたのでしょうか。」

「もちろんよ!だって私、もうずっと前からこんなふうに歩き回りたいって思っていたのよ。もうね、思っていた時間の長さなら他の人に負けないくらいよ。」

「以前は歩けなかったのですか?」

「そう、膝を痛めてから一人じゃ歩けなくなって。だから歩きたいって気持ちは人一倍にあったわ。でも今それが叶って、満足しているところよ。だからなのかしら。これから向かう世界のことも、私ちっとも怖くなんかないわ。むしろ一体どんな世界なのかこの目で見られるのがとても楽しみなの。」

 これから向かう世界、それはここに来る前に彼女がいた場所の事だろうか。これについても質問してみるか、どうする実里。こういうのはどこまで踏み込んでいいのだろうか。いくら彼女が私の担当したお客様とはいえ、初めて会った人にあまりプライベートのことを深掘りするのは失礼かもしれない。いや、今回はやめておこう。様子を見て次のお客様に質問するかどうか決めよう。そうなのですね、と彼女に笑顔を向けると彼女はぷっと吹き出し笑いをした。何だろう、私はなにか可笑しな事をしてしまったのだろうか。

「ごめんなさいね、私ばかりベラベラと喋ってしまって。主人にもよく言われていたの、おまえは口だけはどんな時でも達者だって。貴女の笑う顔が主人と重なって思い出しちゃったわ。許してちょうだいね、だってこうして好きなだけお喋りができるのも久しぶりなんだもの。」

 どうやら思ったことがそのまま顔に出ていたらしい。彼女の笑う顔を見る限りどうやら失礼なことをしてしまったわけでは無さそうで、私は心の中で小さく息をついた。

「そうだ、じゃあ今度は私から貴女に質問をしてもいいかしら。」

「はい、もちろんですお嬢様。」

 今度は彼女からの質問だ。できる限り誠意を持ってお答えしようと思う。個人情報までは話せないけれどね、と心の中で付け足す。元はこちらから質問をしたのだ。彼女も私に質問する権利があると思う。

「貴女はずっとここで働いているの?」

「いえ、私も少し前にこの店に客として来た身なのですが、忘れ物を探すのに時間が掛かりそうなので、店長に許可を得て働かせてもらっているんです。お嬢様は、私のこの店での初めての《ご主人様》です。」

「まあそうだったのね、貴女も私と同じなの。」

 同じ。そうだ、彼女も私も橘さんのお店に来たお客さんだ。そういう意味では私も彼女と一緒だ。だがこの彼女の言う「同じ」がこの時なぜか引っかかった。何だろう。

「その服は、制服っていうのかしら。とても似合っているわね。この柄は蜂蜜?」

「はい、ミツバチをイメージしたものなんです。」

 まあ、可愛いわね!と彼女は私の周りをぐるっと歩いて回った。制服をお客さんたちに見られるのはもう慣れているはずなのに、むしろ見てもらうための店でもあるというのに、何だか改めてこうしてまじまじと見られると恥ずかしくなってくる。ここが外だからだろうか。

 羞恥心を何とか取り払おう、私も彼女を褒めよう。服を褒められたら服を褒め返すのよ、実里。そう目を瞑り頭の中で念じて、私は目を開いた。

「お嬢様の方こそ、そのワンピース。素敵なお召し物ですよね。」

「そうなの。これはね主人が若い時にくれたワンピースよ。ずっと大事に持っていた宝物なの。」

 可愛いでしょう、と彼女が裾を摘んでスカートを広げて見せてくれる。そのまま片足でくるっと回ると、嬉しそうな顔をして自分の足を見つめはじめた。本当に歩けるようになったのが嬉しい、という表情だ。見ているこちらも何故だか嬉しくなってくる。しばらく足元を見つめる彼女の様子を見ていると、大きく深呼吸をした彼女は顔を上げこちらを向いた。

「こんなところで良いおもてなしが受けられて私、幸せ者だわ。可愛らしいミツバチさんに会えて、色々お話もできて。こういうのを冥土の土産になる、って言うのね。」

「お嬢様のお役に立てたのなら幸いです。」

 彼女が深々と頭を下げた。反射的に私も頭を下げた。すると彼女から「そろそろ行こうかしらね」と言葉が出た。

 そろそろ帰る、と言うことは忘れ物が何か思い出しただけでなく、もう忘れ物を見つけたということなのか。思わずバッと顔を上げる。

「もう帰られるのですか?その、お嬢様の忘れ物はもう見つかったのですか。」

 いけない、メイド喫茶だったらここはもう出発なさるのですか、と聞くべきだったか。四年目なのに超凡ミス。落ち着け、実里。今の私は彼女に仕える専属メイドだ、設定を忘れるな…。

 いやそんなことよりも彼女ともう少し話がしたい。何か、彼女に質問しなきゃ、と彼女を見ながら言葉を探す。

「何か他に私にできることはありませんか?ありましたら、お手伝い致します。例えば、何か気になることとか…。」

「そうね、気になる事ね。それを言うのなら主人と娘たちの事ね。私は本当に主人と再会できるのかしら。娘たちもゆくゆくはまた一緒に暮らせるのかしら。」

 咄嗟に出た言葉は、至って定型的な質問になってしまった。そんな私に彼女は丁寧に答えてくれる。家族の話だ。私の全てにして一番の宝物なのよ、と彼女が答える。

「主人の時はね、私が彼の手を握りながらまた会いましょうねと話をしたの。私の時は、娘たちが手を握っていてくれて。もう目も開けられないほどぼんやりしてしまっていたけれど、あの子たちの手の温もりと私を呼ぶ声は、さいごまでちゃんと聴こえていたのよ。だから約束を守りたいのよ。会いたいし、また一緒に暮らして、家族になりたいわ。」

 つまりそれはどういうことだ。また会いたいということは、彼女は家族たちとは会えない状況なのだろうか。理由があるのだろうが、一緒にいたい家族と離れ離れになってしまうのは悲しいと思う。するとまたもや思っていたことがそのまま顔に出ていたようで、彼女は私の顔を見て少し困ったような表情をして、それからまた笑った。

「ごめんなさいね。これはあなたが分かることではないのだから、気を病まないでちょうだい。でもね、きっとあの人は私の事を待っている。それにあの子たちにもちゃんと教えてきたもの、きっといつか私やあの人と同じ場所に来るはずよ。この先がどうなるか分からないけれど、分からないからこそ、夢や希望も持てるの。だから楽しい、そういうものでしょう。」

そう話す彼女の顔は明るい。

「ありがとう、メイドさん。えっと名前は村主さんだったわね。短い間だったけれど、お世話になったわ。では行ってきます。」

「っはい!こちらこそありがとうございました。行ってらっしゃいませ、お嬢様。」

 彼女の話す言葉に何と返せばいいのだろう、そう考えていると彼女は改めて笑顔をみせて、頭を下げた。私もその笑顔に頭を下げて。彼女は一歩、二歩と今来た道を歩いていく。その足音をじっと聞く。

 足音が聞こえなくなって再び頭を上げた時には彼女の姿はどこにもなくて。人一人歩いていない静かな街並みが道の向こうまでずっと続いていた。

「あ…いなくなっちゃった。」

 店の前に立ちながら、もう見えない彼女の背中に視線を送る。彼女はこの散歩の中で何かを思い出したらしい。時間にしたら一〜二時間程度だ…一体何だ。彼女からなにかヒントを貰えるかと思ってお伴させてもらったけれど、結局よく分からなかった。

 分かったことは、彼女がこの店に来てから帰るまでの間に自分の忘れ物を思い出し、それから忘れ物を見つけて、どこかへ行ってしまったということだ。話をした感じだと、彼女は今後の自分の行き先も何となく分かっていたような気がする。彼女の忘れ物は何だったのだろう。途中で物を拾った様子はなかったし、あの白い洋館に思い入れがあったのか。でも感動していた割には彼女から中に入ろうという言葉もなかったし、結局建物の前を通っただけだった。足を悪くして歩けなかったという彼女が散歩を楽しんでいたという、ただそれだけの時間だったようにしか思えない。

「…何だったんだろう。」

 いくら考えても何一つ分からなかった。無音の空気が考え込んでいた私の肩を叩いた気がして身体の向きを変えた。店の中に入る。扉のベルがカランと音を鳴らす。外で強く風が吹いたのだろうか、足元に隙間風が通り、扉が風に揺られ一度鳴り止んだベルが再び小さくカランと鳴った。

「……。」

 シンと静まった店内を見渡す。カウンター席にはハルちゃんが座っていて、こちらに気付いて振り向き手を振っている。橘さんの姿は見えなかった。

「おかえりなさい、実里ちゃん。」

「ただいま、ハルちゃん。」

 カウンターの上には空のカップが置かれていた。さっきの彼女の分は私が店を出る前に裏へと運んだはずだ。しかしハルちゃんの目の前にではなくその隣の席の前に置かれている、ということは他の人のものだろう。

「誰か来ていたの?」

「うん。一人ね、お客様がいらしていたのよ。」

 なんと他にもお客さんが来ていたのか。店の前で私たちが話をしている間に、誰かが出てくる様子はなかったから、つまり散歩の間に誰かが来ていたということだ。

「そうなんだ、ってこの短い時間で、来て帰ったの?」

「うん。」

「えー…早いなー。」

 先ほどの彼女ですら早いなと思ったところなのに、こんなに短い時間で忘れ物とやらをちゃんと探せる人もいるらしい。私なんて、この店に来てからもう随分と時間が経つというのに未だ忘れ物が何なのかも分からずにいて…。

「凄いというか、ちょっと凹む。」

 目に留まった空のカップを見つめた。少し深めの白いカップ。おそらくお客さんに出したのは珈琲系の飲み物だ。カップ一杯で全てを思い出し解決して店を後にしたのだろう。このお客さんも、そしてさっきの彼女も、一体何を忘れてそして思い出したのか。少し質問をさせてもらったけれど、結局よく分からなかったし。こんなに考えても分からないのならもう少し詳しく聞いてみればよかったかな、なんて思う。

「私もちゃんと忘れ物を思い出せるのかな…。」

 こうやってすぐに自分の忘れ物を思い出して店を出ていくお客さんたち。反して私は自分が何を忘れたのかも思い出せずにこの店に留まって、メイドとして働いている。

 なんか嫌だな。大好きなメイドの仕事をしたいという理由もあってこの店で働こうと思っていたのに、今この店のメイドでいることが、まるで世間に置いて行かれているような後ろめたい気持ちを感じるなんて。

「実里ちゃん。」

 ハルちゃんが手招きしている。そこでようやく自分が店の入り口に立ったまま動かなくなっていたことに気がついた。ポンポンと隣の椅子を叩いた彼女に誘われ、カウンター席へと座る。するとハルちゃんは前を向いてテーブルに肘をつき、頬杖をつきはじめた。着物姿で常に姿勢を正していた彼女が頬杖をついている。袖が捲れて両腕が肘まで見えそうだ。髪をまとめている簪は、オレンジ色のトンボ玉が揺れてキラキラと光っている。ちらりと下を見ると足も組んでいる。彼女もこんな崩れた格好をするんだな、と意外な彼女の姿に少しだけ強張っていた気持ちが和らいだ。

「大丈夫よ。そんな焦らなくたって、実里ちゃんはちゃんとここで大事なことを思い出せるわ。お客様たちにはお客様たちのペースがあって、それに私たちが合わせる理由なんてないの。お客様の近くにいて話を聞いて過ごす、それでいいのよ。」

 カウンター上の明かりを見つめながらハルちゃんが口を開く。彼女の言う通りだ。そう大丈夫、焦らないのよ、実里。自分で言い聞かせるのと誰かにそう言ってもらうのとでは、随分と心への響き方が違うものだな。こうやってハルちゃんと話すことが、私の忘れ物探しに繋がるのだろうか、と私も彼女に応えるように口を開いた。

「うん。本当にね、何を忘れちゃったんだろう。」

 あまり深掘りした話はできなかったけれど、店の前でお見送りした時のさっきの女性の顔がとてもすっきりとしていて、思い残すことがないというような表情だったのが印象的に残っている。思い残すことがない…それじゃあまるで彼女が死んだかのような言い方じゃないか。ブンブンと頭を振ると、隣のハルちゃんが不思議そうな顔をしてこちらを見てきた。何でもないよと答えると再び彼女は前を向く。

 彼女と私のいるこの店は、忘れ物をした人が訪れるというお店で、彼女も私も忘れ物をしている当事者だ。今はまだ何も思い出せない。でもきっとこの店を出ていく時には、それが何なのか全て分かっているはず。だったら焦らずに自分の忘れ物探しをしよう。目を瞑ると私の大好きな職場の風景が現れた。軽快な音楽と明るい色使いの店内。可愛い花の装飾と広がるはちみつの甘い香り。早くあのお店でメイドさんのお仕事がしたい。この世界が一体何のためにあるのか、どうして私が今ここにいるのか分からないけれど、私もあのお客さん達と同じように必ず自分の忘れ物を探し出してこの店を出たい。大事なものをもう一度自分のものにして、私は私のお店に帰ろう。そう言い聞かせた。

「ハルちゃんも絶対に忘れ物を見つけて一緒に帰ろうね!」

「そうね、一緒にこのお店を出ましょう。」

 伏せていた顔を起こし彼女に向かって言うと、首を傾けたハルちゃんはニコッと笑った。営業スマイルじゃない素の彼女の笑顔だ。彼女との距離が近くなったように感じて、嬉しくなる。

 するとハルちゃんが巾着を取り出した。ゴソゴソと中を探る。はいどうぞ、と渡されたのは薄い黄色の飴玉だった。色からしてはちみつ味だろうか。実はこの味もよく持っていたの、とハルちゃんが笑う。そんなハルちゃんが眩しくて暖かく見える。ハルちゃんだって、私と同じように忘れものが何なのかわからなくて、そしてどうしてここにいるのかも分からなくて、一緒にこの店でメイドさんをしているというのに。何でこんなふうに余裕があって笑っていられるのだろう。

 ありがとう、と貰った飴玉を口の中に入れた。口の中から鼻へと広がるはちみつの香りに懐かしさを感じて、私の大好きなお店の店長や同僚たち、それから常連さんの顔が一気に浮かんで、元々熱くなっていた目元が更に熱くなって、私は彼女に悟られないようにと再び顔を伏せた。



 片平ハル、年齢不詳。職業はメイドだ。メイドとは言ったが、あの子のいうメイド喫茶のメイドではない。正真正銘のメイドだ。地主の松原家に仕える専属の女中。掃除に洗濯、炊事など家事の全てを賄うのが私の仕事だった。

先日私はこの不思議な場所へと迷い込み、そこでメイドさんをしているという彼女・村主実里と出会った。忘れ物探しを一緒にしようと彼女と共にこの店で働くこととなり、そして朝を向かえた。

 実里ちゃんがお客様と一緒に外へ出てから、本当にすぐの事だった。チリンと音が鳴り扉が開いて、一人の男性が来店した。橘さんが彼と話をしている間に、私は珈琲を淹れて彼の前へお出しした。勤め先ではお客様にはお茶を出すのが基本だったがここは喫茶店だし珈琲でもいいだろうという私の勝手な判断だ。苦手だったら他のものを出そう、その思いは杞憂に終わりカウンター席へと座った男性はありがとうとカップに口をつけた。

 さて私はどうしたらいいのだろう。私から何か話しかけたほうが良いのだろうか、と彼の方を見てしまう。

「えーと。俺は高野聖一、六十二歳。」

 私が口を開く間もなく、彼は自身のこれまでの生きてきた道を話し始めた。話はこうだ。彼は二十代の頃に結婚し娘が二人いた。だが数年後に妻と上手く行かなくなり別々の住まいで暮らし始め、その際娘二人は母親の方へとついていったため、彼はそれ以来一人で過ごしてきたという。

「最近、職場の健康診断を受けたら病院に行けって書かれていた。だけど後回しにしていたんだ。時々胸が苦しいような、痛い感じがしていたんだけどね。まだ大丈夫だろうと高をくくっていた。そしたら、今日……。」

「……。」

「そっか……俺、本当に。こうなるって分かっていたら、最後にあいつと娘たちに会って話がしたかったな。あいつ……妻は希美子っていうんだ。娘は千乃と夏乃。三人とも今は泣いてくれているのかな。流石にもう連絡が入っているはずだよな。なあ、メイドさん。俺はあの三人にもう一度会うことはできないのかい?」

 そんな質問には答えられない。だって今、この男性は何と話していたのだろう。彼の話を順に追っていこう。彼は病院に行くようにと言われていて、今日…死んだというのか。今日死んだ、死亡した。それで家族にもう一度会いたいと言っている。

 今日死んだ、それはどういうこと。この人は死んでいて、そしてこの店に訪れた客人は全てが死んだ者で。それはつまり私も彼と同じ死んだ人間だという事なのだろう。

 私が、死んでいる…。嘘だ、そんなの信じられないわ。だって今こうして私は彼の言葉に身体を震わせているのだ。こんなに感情が豊かに動いているというのに、そんな自分がもう死んでいるだなんて、信じられない。何と言えばいいのか分からない。彼にどう答えたらいいのか分からない。身体がいう事を聞かなくて、口が震えて声も出ない。

「申し訳ございません、それは出来ないのです。」

 黙ってしまった私の隣に橘さんが現れて、彼にそう答えた。

「そう、ですよね……。」

 彼も黙ってしまう。

 そんな彼を見て私も呆然とその場に立ち竦んでいた。点滅するオレンジ色の光から「私が彼の話を聞くから、君も一緒に聞いていてほしい」と声がして。私はカウンター席のすぐそばの一人がけのソファーへと落ちるように座り込んだ。

「あの世にいく前に、一つやり残したことがあるんだ。俺は家族にお礼を言いたいんだ。」

「そうなんだね。」

「妻と娘に会いたい。最近の俺はずっと皆に会うのを避けていて、でも娘たちは連絡をくれていて、妻も時々くれて。父親らしい事を何もできなかった俺をずっと気に掛けてくれていて。だからこそいつか会ってお礼を言いたいと思っていたんだ。思っていたのに行動できずにここに来てしまった。後悔したってもう戻れないのに…。」

「そうだね…。」

 橘さんと彼の会話のやり取りを聞いていて、推測は確信に変わった。橘さんが彼にはっきりと言ったのだ。「この店は冥土に行く前に、死者が立ち寄る店だ」ということを。

 そうか私は本当に死んだのか、そう思いながら彼らの話を聞き続ける。だが先ほどの動揺していた時とは打って変わって、自分が明らかに落ち着いているのがよくわかる。

(変なの。)

不思議なもので時に人は目の前で他の人間が慌てていたり苦悩する様子を俯瞰的に見ていると、本来ならば混乱するはずの自分の頭が急に冷静になったり、物事がすんなりと受け入れられたりすることがある。それと同じように彼が頭を抱えている様子を見ていてなぜかこの短い時間の間に私は私の死を受け入れはじめている。そう分析できるくらいには今の私の頭は冷静に動いていた。

 珈琲を飲み始めた彼は、何度もため息をついている。それはそうだろう、さっきまで彼は生きていて、必死に自分の死を受け入れている最中なのだから。そう考えると自分の冷静さが可笑しく感じた。何だろうこの冷静さは。もしかして生きていた頃の自分は、もうとっくに死への覚悟ができていたとでもいうのだろうか、よく思い出せないだけで。

(もしかしたらそうなのかもしれないわね。)

 私にとっての忘れ物は《自分が死んだ事》だったのだろうか。視界に入った自分の髪を触る。灰色の髪だ。よく見ると白い髪も混じっている。店の灯りにかざしてみると白金色に光った。

(白い髪、生まれた時は確か黒髪だったはずよ。)

 ここではたと気が付いた。実里ちゃんと話していた時は、自分も彼女と同じくらいの歳だろうと思い込んでいたけれど、もしかしたら私は高齢のおばあさんなのではないだろうか。咄嗟に両手で頬を覆った。触った感じの肌は特に老いを感じない肌だ。今度はその頬に触れた両手をまじまじと観察する。手のひらを見て甲を見る。こちらも老いを感じないものだ。

(髪以外は若いままだ。でもなんだろう、私はおばあさんという感覚がしっくりくるのよね。)

 鮮明な記憶はないのに違和感を覚えないという感覚。これが私の忘れ物の正体なの?いつまでも変化の見られない手のひらを見つめていると、ねえ、と声を掛けられて私は顔を上げた。お客さんの彼だ。こちらを向いて座っている。

「メイドさんは歳はいくつになる?俺の娘より少し若いか、同じくらいじゃないか?」

「私は、…分かりません。自分が何歳なのか思い出せないのです。」

「そうなのか。」

 目の前の彼が動きを止めてじっと何かを考え出した。視線を逸らし考え込んで、それから私の方をチラリと見る。そしてまた考え込んでしまう。そして顔を手で覆い「娘には長生きしてほしい」と呟いた。

「メイドさん…君もいつか冥土に来るのかい。」

「ここで自分の忘れ物を思い出して、見つけることができたら行くことになると思います。」

 そう、私もいつかはこの店を出て行くのだ。大事なものを思い出したら。

「そうか。いや、今もあの世に心残りがないと言うと嘘になるんだ。もちろん家族に会いたいという気持ちは変わらないし、後悔も消えないだろう。でも俺はあいつたちに会うことと同じくらい、誰かに俺の話を聞いて欲しかったんだろうな。その気持ちを思い出したよ。この話は今日初めて他人に話したんだ。友達にも職場の同僚にもずっと黙っていたんだ…突然来た俺の話を聞いてくれてありがとう。」

 お客様にお礼を言われてしまった。それに私はただ、自分が死んだことに衝撃を受けて何もできず、ただ傍で彼と橘さんの会話を聞いていただけだ。そんな事はと言いかけると、彼に「いいんだよ」と言葉を遮られた。

 彼が椅子から立ち上がる。

「珈琲ごちそうさまでした。じゃあメイドさん…、えっと差し支えなければ名前を聞いてもいいかい。」

「片平ハル、と申します。」

「またどこかで会おう、片平さん。」

「え?」

 お礼に加えてまた会おうと言われた。死んだのに、また会うとはどういうことなの。そんな私の頭の中が彼には見えていたらしい。この店に来てから初めて笑った彼は、私の前に静かに立つ。

「俺が死んでから冥土に行くまでの間に、こうして君と過ごしたことには何か意味があるのかもしれない。縁を感じただけさ。もしかしたらまたどこかで会えるかもしれないだろう。だから、また会おう。」

「は、はい。……またお会いできるのを、私も楽しみにしております。」

「じゃあ、短い間だったけどお世話になりました。」

「あの、…行ってらっしゃいませ、高野様。」

 そう言って彼は私に会釈をすると、玄関の扉を大きく開けて外へと出ていった。彼の向かった先は、どうしてか私には見えない。ただただ白く光り輝く世界。ああ、あの世界には一体何が広がっているのだろう。冥土には何がある。私は想いを馳せながらも彼の後ろ姿に頭を下げた。

 扉を閉めると店の中はシンと静かになった。元々静かな店内だったがお客様がいた店内を覚えてしまうと、やはり静かに感じてしまう。

 カウンター席の真上には、柔らかい照明と一緒に、オレンジ色の光が点滅している。店長の橘さんだ。途中から姿を見せなくなった彼だったが、もしかすると彼はこの店の明かりに紛れて私たち客人の様子をずっと見ているのかもしれない。

「あの、橘さん。あの方の、ご家族に会いたいという願いはやはり叶えられないのですね。」

「そうだね、あちらの世界の人と会わせることはできないんだ。」

 なるほど。橘さんが最初に説明してくれた通り、ここは忘れ物を見つけるための店であって、願いを叶える店ではないということだ。私にもつい先ほどまでは願いがあった。ここで忘れてしまったものを思い出し元の世界に戻るというものだ。でも彼らの話を聞いた今、願う気持ちが少し薄れたように感じる。

「それは私も同じということで、もうあちらの世界に戻ることはできないのですね…。」

 答えはもう分かっている。私はもう戻れない。忘れ物が何かを思い出して見つけたら、これまでの人生を終わらせるために戻るのではなく先に進むしか道がないという事を。

 座って話そうか、と橘さんはカウンターテーブルの側まで降りてきた。私は先ほどの彼の隣の席へと座らせてもらう。彼の席を今は空けておきたかったのだ。もしかしたら先ほど店を後にした彼が今この席に戻ってきて私たちの話を聞いているかもしれないから。

「さて、片平君。どんな事を思い出したのか教えてくれるかい。」

「私の忘れ物が一つだけではなくて。そしてそのうちの一つを思い出しました。」

「うん、どんなことだ。」

「私が死んだ時のことです。」

「そうかい。」

 相変わらず橘さんの受け答えは淡白だ。だが今までにも大勢の人の死の話を聞いてきたであろう彼ならば、淡白になるのも仕方がない。私はそれでも特に構わないのだが実里ちゃんは彼のそういう部分をちょっと気にしていそうだ。

「私は、病に倒れてからずっと病院に入院していて、そのままでした。」

 そう。先程お客様をお見送りした際の、その扉の向こうに消えていく後ろ姿を見た時に私は思い出したのだ。病院のベッドに横たわる自分と、誰かが部屋を出ていく後ろ姿を。待ってお願い帰らないで。もう少し話を聞かせて。何でもいいのよ。全部聞くから。私には話を聞くことしかできないけれど、それが私のたったひとつ残された大事な生きがいだから…。

「その時の気持ちは思い出せるのです。自分が何もできないもどかしさや虚しさ、それから後悔も。家族が大事だった事も。ただ…その肝心な家族の顔と名前はまだ思い出せなくて。それが私のもう一つの忘れ物なんだと思います。」

 色々な情景は浮かぶのに肝心な人の顔が浮かばないのだ。靄のかかった人の影がずっと私に話し掛けている。それが誰なのか思い出せない。病院まで見舞いに来てくれるほどの私にとって大事な人だったはずなのに、だ。

「それにしても、ここは死後の世界だったんですね。」

「そうだよ。君もあの子も、もう死んだ人間だ。」

 あの子、実里ちゃんも死んでいるのね。あの不思な格好をした《メイドさん》の女の子。明るくて元気いっぱいで表情がコロコロと変わってなんとも可愛いらしいあの子がもう死んでいるだなんて、自分のことよりも信じられない。

「彼女はまだこのことを知らないのですよね。」

「そうだね。知らないね。きっと気付いていないと思うよ。」

 あの子はちゃんと受け入れられるのだろうか、自分が死んだということを。もしもこの世界に来てすぐにそのことを知ることができていたら、また受け入れ方は違うのだろうか。いや遅くても早くても、生きていた頃への想いに変わりはないのかもしれない。人やものへの想いは尚更に…。

「実里ちゃん、大丈夫かしら。」

「君はもう少し自分の心配をしたらどうなんだ。君だってまだ思い出せないことがあるのだろう。」

「そうは言っても、あの子のことが心配ですもの。そうね…彼女が何か思い出せたら、そのタイミングで私も話そうかしら…。」

 橘さんが何か言い返していたが、私の頭の中は彼女の事でいっぱいだった。同じ時期にこの店に訪れた彼女のことだからか、やはり気になる。同じ時期にここへ来たという事は、死んだ時期も同じなのだろうか。でも目覚めた場所は違うわね、それは一体どういうこと。私はそのままカウンター席に座り、ああでもないこうでもないと一人考え事をはじめた。

 カランと扉のベルが鳴った。店の中に入ってきたのは実里ちゃんだけだ。あのお嬢さんは散歩の途中で旅立ったのだろう。扉の前に立ち尽くす彼女は、どこか沈んだ顔をしている。

「凄いというか、ちょっと凹む。」

 お客さんたちがこの短い時間でそれぞれ忘れ物を見つけたという事に対し、未だ忘れ物が分からない自分に焦りを感じているのだろう。何が分からないのか分からないという状況が一番不安になる。それはよく分かる。そういう時は待つしかないのよと彼女に言いたいのだが、若い彼女にはまだそれが分からないのかもしれない。少し考えて、彼女には焦らずにねという言葉を掛けた。うん、と頷く彼女は何だか泣きそうな顔をしている。

(そんな彼女に、私たちはもう死んでいるのよ、なんて言えないわ。)

 勿論私も衝撃を受けた。けれど何故かすんなり受け入れられたのだ。それよりも彼女がまだその事に気付いていなくて、これから知る事になるというのは、今は避けたい。現に彼女は「帰りたい」と言っている。帰るというのはもちろん生きていた頃の、元いた自分の世界にという事だろう。

(実里ちゃん、残念だけどそれは、もう二度とできない事なのよ。)

 そう教えてあげたいけれど今はまだ教えられない。こんなに元気のない彼女の希望を絶望に変えるだなんて今は言えない。私からではなく橘さんから話してもらうという手も考えたのだが、これについては時を見て私から話す方が良い気がするのだ。きっと私たちがこうしてこの店のメイドを一緒にしているという事に、何らかの意味があると信じて。

 私は持っていた巾着の中から飴を取り出した。ハチミツの飴だ。みかん味と一緒に持っている私のお気に入りの味。ミツバチのメイドさんをしているという彼女にはちょうどいい味だろう。メイド喫茶という不思議な喫茶店で働く彼女が少しでも元気になりますように。と祈りながら飴を渡す。

 飴を舐め始めた彼女はしばらく顔を伏せていだが、やがて顔を上げてぼんやりと店の外の景色を眺めはじめた。高いカウンター席の椅子に座り、両脚をプラプラと揺らしながら彼女は物思いに耽っている。

 一瞬、何かの景色と重なった。けれどすぐに消えてしまう。なんだどこだった、誰が居た。それは今はもう思い出せない。

(でもこの感じ、どこかで見たことある。)

 どこで見た景色だろうか、もしかするとこれも忘れてしまった忘れ物の一つなのか。そこには人がいたような気がする。私の大切な思い出の中に、大切な人が…。

「誰だったのかな。」

「ん、何?」

 呟いた私に彼女が振り向く。

「ううん、何でもない。」

 彼女の顔を見て思った、私はここで彼女の様子を見守りながら過ごそう。自分の死という大事なことを一つ思い出したにも関わらず、まだまだ思い出せない記憶たち。このぼんやりとしたものが何なのかは、きっとこの店を出ていく時には分かっているはず。ならば彼女に言い聞かせたように、私も焦らずに自分の忘れ物探しをしよう。私は組んでいた足を戻し崩していた姿勢を伸ばして立ち上がった。耳元で簪の飾りが揺れてキラリと光った。


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