メイドさんのお仕事

好観

第1話 二人のメイド


人は死んだらどこに行くのだろう。それはきっと誰もが一度は考えるものだろう。生きとし生けるもの全てが永遠ではない時を経て終わりを迎えると知ったその時から、人は考える。私も同じだ。一度ばかりでは無かった。絶望する度にそう考えては泣き疲れて眠って、また同じ朝を迎えて、繰り返しまた考えた。

人は死んだらどこに行くのだろう。そう思いながら目を閉じて。私もついに終わりを迎える。まるで眠りの中で、ぼんやりとした掴みどころのない夢を見ているかのような感覚が続いて。耳元で誰かがずっと私の名前を呼んでいるような、雑音がひっきりなしに聞こえている。

………り。

意図して眠っていたわけではないけれど。そろそろ目を覚さなきゃね、そう思った。そして私は重く閉じていた目を開ける。



 街中の灯がポツリポツリと点きはじめ、西の空の向こうへと太陽が沈み、オレンジ色の空が闇色に変わる中。街の中心部、駅のホームのベンチに一人座り、私、村主実里は途方に暮れていた。

「ねえ本当にここはどこなのよ!」

 思わず叫ぶように強く口から出たその言葉は、誰の所に届くこともなく消えていく。それもそうだ、当たり前だ。だって周りには誰もいないのだから。居るのは私一人だけだった。

 落ち着くのよ、実里。こういう時、いつも店長に言われてきたじゃない。焦っているときこそ立ち止まって深呼吸しなさいって。私は誰にも見られていないことをいいことに、これでもかという程に思い切り大袈裟に息を吸い込んで、吐いた。熱くも冷たくもない春の空気が、胸の中にいっぱい広がった気がする。

 そのくらいには少し動揺しているのかもしれない。今ばかりは仕方がないとそう思える。なぜなら私はいつの間にか知らない街へと来てしまったみたいだからだ。

 今から少し前のことだ。プツンという、まるで何か機械の電源を落としたかのような音がして私は顔を上げた。目が少し霞む。パチパチと瞬きを繰り返すと、目の前の視界がくっきりと見え始めクリーム色の空間が広がった。電車、だ。いつの間にか眠っていたのか、それとも深く考え事をしてしまっていたのか、気がつくと私は電車の中に座っていて、その電車は駅で停まっていた。車内には私以外誰もいない。それほどに車内で熟睡をしてしまっていたのかと急いで立ち上がると、開いていた扉から慌ててホームへ降りた。するとそこには全く覚えのない駅とその先に見知らぬ街並みが広がっていたのだ。

 どこだ、ここは。どこまで来てしまったのだろう。視線を動かし駅名を探した。屋根から降りる大きな駅名看板。そこに書かれていた、二文字の名前は。

「《終点》…?」

 どうやら私は今もなお眠っていて、夢を見続けているらしい。だとしたら納得がいく。終点まで寝入ってしまって着いた駅が《終点駅》とか、意味がわからない。こんなの夢でしかない。眠る前の私は電車に乗ろうとでもしていたのだろうか、現実の私が今も車内で爆睡しているのなら、さっさと目が覚めてほしいものだ。そう願うも夢を見終わる気配は一向に現れなかった。私は諦めて辺りを見渡した。

 ホームには私一人しかいなかった。夢の中なら不思議ではないのかもしれないが、だが夢にしてはあまりにもリアルな感覚のするこの夢に、違和感を覚える。もしかしたら、いつも私が見る夢とは違うものなんじゃないかって。

 一体ここはどこだろう。そんなこんな考えているうちに、先ほどまで私の乗っていた電車は扉が閉まり、ゆっくりと動きはじめた。

 隣の駅に行くのだろうか、線路の上を走り徐々に加速していく車両を目で見送り、最後に車掌さんがこちらを向いて手を振っていたのを見て、ああ、あの人に聞いてみれば良かったのか、なんてぼんやりと思う。そして視線を動かした先にベンチを見つけると、私は無意識に足を動かし近づいて座った。

 冒頭に戻る。ホームから見える街並みは、どこにでもあるような街並みなのだが、そのビルの構えや店の並びにはどうも覚えがない。初めて来る街ならどこもそうなのだろうが、普通なら普通にあるはずの、地名を指すような看板が見当たらない。本当にここがどこなのか分からない。そしてそれを誰かに聞きたいが、その聞く人も見当たらないのだ。

「……。」

 勢いよく立ち上がりホームの階段へと向かった。階段を降りてキョロキョロと周りを見渡しながら歩いていく。

 迷子にもならないほどシンプルな駅の構内。蛍光灯が辺りを照らしている。改札の方向を示す看板がよく目立つ。目指す場所は一目瞭然だ。それなのに歩けば歩くほど不安が増えていくのはどうしてだろう。

 前方に目を向けると次の電車を知らせる電光掲示板には、何も表示されていない。終電が終わったのか、今日はもう電車が来ないことを示しているようだった。帰りの電車がないなら、駅を出て歩こうか。改札が見えたところで実里はポケットに手を伸ばそうとして、そして気がついた。何も持ち物がないのだ。財布も何もない。どうやって電車に乗ったのだろうと思ったが、もう一人の私が頭の中に出てきて囁いた。これは夢だよ実里…と。

「確かにね、夢だしどうにかなるかも。」

 夢なら夢のままに任せてみよう。こういう時の自分の謎のポジティブ思考には感謝する。そう思い改札を抜けるとまるでドラマのセットの中にでもいるかのように、全ての電源が落とされていた改札は、案の定何も反応しなかった。勿論、無賃乗車をしたはずの私を引き止める人もいなかった。

(あとで怒られませんように。)

 罪悪感を僅かに抱え少しだけ背中を丸めながら歩いていた私だったが、駅を出たところでそんなことはすっかり忘れてしまった。何故なら視界に動くものを見つけたからだ。

 人だ。駅の中では不自然な程に見当たらなかった人の影があちらこちらに見える。よかった。場所は分からないけれど、これは私のよく知る駅前の景色だ。 

「あの、すみません。」

 ここはいったいどこなのだろう。私は目の前を通り過ぎようとする男性に声を掛けた。だが私が声を掛けた途端に彼はくるりと向きを変え、小走りで道の向こうへと走り去っていってしまった。おや、立ち止まってくれるような感じの人だったのに。私が声を掛けたタイミングで彼は何か用を思い出し、来た道を戻っていったのだろうか。

「すみません…って、……。」

 気を取り直し、今度はこちらに向かって歩いてくる女性に会釈をしながら近づこうとして、足を一歩動かした。今度は大丈夫、と。すると目の前のその彼女は、ぱっと姿を消してしまった。いない。今さっきまで確実にそこに居たのに。足を止めて辺りをぐるりと見渡したが、その人らしき女性の影はどこにも見当たらなかった。

(なんだろう…もしかして私、避けられているの。)

 偶然に偶然が重なった、ただそれだけかもしれない。そう自分に言い聞かせて何度か同じことを繰り返し試してみた。だが結果は変わらなかった。

 人影は今もまばらに見えるのだが、私が声をかけようとするとこちらの歩くスピードよりも遥かに早い速さで道向こうに姿を消してしまう。そうして誰とも話ができずに時間が経ち、気付けば頭上に広がる空は完全な夜に変わっていた。

「なんで、誰も私と話してくれないの?」

 目が覚めたら知らない街にいて、そして誰とも話ができないなんて。そもそもこれは何だろう。本当に夢か、それとも現実か。自分の置かれている状況がわからないというのは、こんなにも不安になるものなのか。そう不安だ。自覚したのをきっかけに、時間が経てば経つほどその不安は風船のように膨らみ、すぐに私の全てを覆いつくしてしまう。

 嫌だな、怖い、助けてほしい。夜の駅前の街並み。どこにでもありそうなコンビニ、スーパーに薬局、レストラン。立ち並ぶビルの灯りが、今はとても怖い。あの灯りの全てが、今の私をまるで存在しないかのように見下ろしているのかと思うと、怖くなる。ここから逃げ出したい。でもその思いとは裏腹に、私の足は動こうとしない。

 頭の中で嫌な記憶がぶわりと浮かぶ。十代の頃の記憶だ。教室の扉を開けて席に座り授業の始まりをじっと待つ時間。誰も私に目を向けない空間。好意も嫌悪も感じない、無関心が辛いという、私にとって一番嫌な記憶だ。誰か助けて、誰か私に気が付いて。私を知る誰かの所に連れて行って、ここから逃げさせて。

(違う、逃げるのではなくて探しに行くの、実里。自分で、動かなきゃ…!)

 弱気になる私。そこにもう一人の私が私を奮い立たせてくる。いつの間にか地面にしゃがみこんでいた身体に私は喝を入れて立ち上がった。弱気になるな、ポジティブ実里。私はまだ、この駅の前から動いていないじゃない。何よ、たかが周りに数回無視されたからって、不安になったりして。

 自分よ強くなれ、希望を強く持て、そう言い聞かせる。この駅から離れたら誰かがいるかもしれない。私の声に振り向いてくれる誰かが…と。だがそんな私の気持ちとは裏腹に、心臓は鉛のように重く感じる。心臓だけじゃない、身体全てが重い。不安がそうさせている?まるで周りの空気が全て水に代わり、抵抗を受けながら前に進んでいるような重さだ。これが全て夢ならば、本当に早く目が覚めてほしい。そう願いながら駅から離れるために私はついに歩き出した。

 それからどのくらいの時間と距離を歩いたのだろう。駅を抜けた先には商店街が並び、そこでも人影はあったものの、相変わらず私の存在に足を止めるものは現れなかった。

「寒いなー。」

 春の夜はまだ冷える。どこか暖の取れるような、休めそうな場所はないだろうか、腕を擦り辺りを見渡しながらも、歩みは止めずにいた。信号の点滅する横断歩道を渡り、シャッターの並ぶ街を抜ける。走る車を横目に河川敷を歩き、橋を渡り公園を抜け、明かりがぽつぽつと灯る住宅地の中を歩く。すると小さな交差点の前に来た時、曲がった道の先に一軒の喫茶店があるのに気が付いた。

 看板の灯りがくっきりと見える。いわゆる喫茶店バーというものなのだろうか。ここまで来る間にも何件か飲食店はあったのだが、その時は重い空気を感じて店の前を通り過ぎてしまっていた。だがこの店はどうだ。見つけた途端『入りたい』という気持ちが湧いてきたではないか。

 店の前には手入れされた植木が並び、道路沿いに並ぶ窓から店の中が少し見えた。

「今度はきっと大丈夫。」

 深呼吸をした。頑張れ実里、とドアノブに手を伸ばす。扉を開くと頭上でチリンとベルの音がして、私はゆっくりと扉を閉めながら店内を見渡す。淡いランプの光がいくつも灯されていて、店内はぼんやり明るく照らされていた。

 好きな雰囲気のお店だ。店員さんはいるだろうか。すると店の奥に動くものを見つけ、咄嗟にそちらを向いた。カウンター席の向こう側、その中央にオレンジ色の何かがフワフワと浮いている。

「ああいらっしゃい、村主君。村主実里君だね。」

「はい…へっ?」

 みかんだ。宙に浮く、フルーツのみかん。凄くいい色だ。私、フルーツの中だったらみかんが一番好き!じゃなくて中心が明るく白く光る光の玉だ。火の玉のようにも見える。その火の玉が私に話しかけてきた。火の玉が私に……ブンブンと首を横に振ろうとして止めた。明らかに人でも動物でもないそれをいつもだったら一目散に避けたであろうに、どうしてか今日は素直に近づいた。それはきっとこの火の玉が、このよく分からない夢の世界に迷い込んでから初めて、私に話しかけてきてくれた存在だったからだと思う。オレンジ色をした光の中からは男の人の声がした。

「はじめまして。私は店主の橘です。どうぞよろしく。」

「店長さん。」

「村主君は今日から、この店のお客様だね。」

「へ……ええ?」

 なぜ、この火の玉は私の名前を知っている。火の玉、じゃなくて店長さんの名前は何だったか、たった今聞いたはずなのに、もう忘れた。ショックだ。仕事柄、人の名前を覚えるのは得意な方なのに。じゃなくて!今はそれよりもこの火の玉、オレンジ色の何かさんがなぜ私の事を知っているかの方が大事だ。

「あ、あのどうして私の名前を……。」

 狼狽える私とは裏腹に、そのオレンジ色さんは落ち着いた声色で話を続ける。「まあまずは好きな所に座って」と促され、私は店の奥へと足を進めた。オレンジ色さん改めオレンジさんが宙に浮かぶそのカウンターの前の席へと座った。棚の上の飾りを眺める。大正ロマンを少し感じる、レトロな雰囲気のお店だ。僅かに感じる煙草の匂いも店の雰囲気を演出しているような気がする。

「お嬢さん、好きな飲み物をどうぞ。お出ししますよ。」

「えっと…オレンジジュース、をお願いします。」

 キョロキョロと席の周りを探すもメニュー表が見当たらず、でも喫茶店なら大体あるよね、と素直に好きなものを言ってみた。すると棚に置かれたグラスが宙に浮き、氷が浮き、カウンター奥からピッチャーが同じく浮いて出てきて、オレンジジュースが注がれた。まるでマジックのパフォーマンスを見ているかのようだ。どうなっている。瞬きもせずにじっと見つめていると、「不思議でしょう。」という少し楽しそうな声と共に私の目の前にそのグラスが置かれた。

 カランと氷が溶けて店内に音が響く。私は恐る恐るグラスに手を伸ばし、何も起こらないことを確かめると一口ジュースを口に含んだ。甘酸っぱい味と爽やかな香りが鼻を抜けていく。いつも飲む味、大好きな味だ。美味しい。

 ふう、と私は息を吐いた。するとタイミングを見計らったかのように、目の前のオレンジ色の彼は話し始めた。

「この店はね、忘れ物をした者がそれを見つけるためのお店さ。」

「はあ。」

 彼曰く、ここに来る客は皆何かを忘れていて、この店で忘れた何かを見つけたり、思い出したりして店を後にするのだという。唐突な話をされ、私は呆けてしまった。忘れ物だって。一体何のことだろう。

「あのー、これって夢じゃないですよね。」

「夢だと思うならそれでも構わないが、君はどう思う。」

 ぼやっとした説明をされて、さらに質問に質問で返された。オレンジさん……ただでさえ見かけが不思議だっていうのに、言うことまで不思議だっていうのかい。

「君には十分時間があるのだから、この店でのんびりと忘れ物探しをすればいい。」

「はい…。」

 なんとも曖昧な説明だ。急にそう言われたってよく分からない。変な夢は続くな。まあ、とりあえず少し心が落ち着くまでこの店でジュースを飲むとしよう。先程まで私の一番の不安要素だった《誰かと話す》というものは、たった今達成されたのだから。

 私は視線を落として、置いていたグラスへと手を伸ばした。カラン。再び音を立てたグラスの中の氷を見つめていると、オレンジさんはカウンター奥の空間へとスッと姿を消してしまった。また私に用があれば彼は姿を見せるはずだ。根拠は無いが、街中にいた人たちのような不安を覚える消え方ではないような気がする。店内はちょうどいい暖かさ保っていて、それが冷たいジュースを更に美味しくさせている。ああ、ひとまず落ち着ける場所が見つかって良かった。私は大きくため息を吐いた。さて、ここは彼に言われた通り、私の忘れ物について思い出してみようではないか。

(忘れ物か。)

 ふむ。そう指摘されたものの、全く身に覚えがない。一体自分は何を忘れてしまったのだろう。忘れ物、それは例えば大事な物。それとも物じゃなくて記憶だったりするのかな。最近の出来事をざっと思い出すも、ほぼ仕事漬けの毎日の中でそんな忘れてはいけないような重大なものは無かったはずだ。

「だめだ、何が分からないかすら分からない。」

 最近の出来事でないのなら昔の古い記憶とか。ならばこういう時は順序を追って一つずつ自分の事を思い出せばいいのだろうか。そう私は目を閉じて思い出していった。私が生まれた時のことから、順に。

(私は村主実里、二十二歳。父幹夫と母由里子の間に生まれた一人娘。うん、ちゃんと覚えている。出身は……。)

 グラスの中の氷がまたカランと音を立てる。淡いランプの光に温かい店内。昔の事をゆっくり思い出すには丁度いい空気だ。目の前のオレンジジュースを見つめていると、楽しそうに私の話をする両親の顔が浮かぶ。『実里は小さい頃から決まって飲むのはオレンジジュースだったね』と。



脳内で順に追っていた幼い頃の記憶が情報から記憶へと変わり始めた頃。チリン…扉が開く音がして私は考えるのを止めた。振り向くと扉の前には人の姿がある。

 人だ。先程の宙に浮くオレンジさんとは明らかに違う、私と同じ人間だ。女の子が店の中へと足を踏み入れて、そして私の方をちらっと見た。そして私の後ろのカウンターの奥、いつの間にか再び現れていたオレンジさんのほうへと顔を向けた。

 良かった。彼女の存在の登場に自分の心が躍ってそれから、安堵したのが分かった。やっぱりこの店にきてからもずっと不安で、だから安心したのだ。彼女は私と《同じ》で逃げたり消えたりしない人だって、直感だけどそんな感じがするから。

 彼女はゆっくりとこちらに歩いてきて、オレンジさんの真正面に立った。薄紫色の着物を着た女の子。見た目から年齢も近いような気がする。この後一緒に話ができるだろうか、期待を込めて彼女の様子を伺う。女の子は困ったような、驚いたような複雑そうな顔をしていた。きっと私もこの店に入ってきた時、彼女と同じような顔をしていたのだろう。ちらりと視線をオレンジさんへと移すと、彼は炎の揺らめきのようなやんわりとした点滅をし始めた。

「ああ、片平君。片平ハル君だね、思ったよりも早く着いたね。」

 へー、話す時に点滅するのか。さっきは動揺していて気付かなかったな。彼はというと先ほどの私と同じ事を彼女にも話しはじめる。うーん、二回目を聞いたところでやはりよく分からない。彼女も私と同じように驚く様子を見せたものの、全体的に言葉数は少なく、最後に「わかりました」と答えていた。

 彼女はふうと息を吐くと店内をゆっくりと見渡して、そして私の姿を視界に捉えると動きをぴたりと止めた。分かってはいたものの、思わずこちらにも力が入ってしまう。さあ行くんだ実里、ここは得意な営業スマイルを、と彼女に向けて満面の笑みを向けた。

「はじめまして、村主です。」

 効果覿面。彼女も笑い返してくれた。そして隣をいいかしら、と彼女はカウンターへと近づいた。着物姿がとても綺麗で、でもカウンター席に座るのは大変そうだと思いソファー席に移動しないかと提案する。どうせ今は、お客は私たちしかいないのだ。席の移動くらいは自由にしてもいいだろう。

「お気遣いありがとう。」

 私の提案に笑う彼女。その笑顔がとても朗らかで可愛らしい人だな、と思う。ソファー席にそれぞれ向かい合わせで座ると、私は背筋をピンと伸ばした。

「改めて自己紹介するね。村主実里です。」

「片平ハルと申します。」

 ハルちゃん。可愛い名前だ。秋生まれの私・実里に対して彼女は春のハル。秋と春。うん、覚えた。

「村主様は、……。」

「え、様付け⁉普通に呼んでください、そのまま、実里で!」

 初対面の人に丁寧な言葉を使うのは当たり前だけど、仕事でも何でもない場所で様づけされるのは、何だか嫌だ。いや絶対にダメだとかそういうのではないのだけれど、別に私を持ち上げなくていいというか、相手に下がってほしくないというか…何とも言えないむず痒しさを感じるのだ。

 思わず前のめりになってしまった。ハルちゃんは変わらず笑顔のままだ。いけない、落ち着くのよ、実里。目の前の彼女のように、背筋を伸ばしてそう、お淑やかに振る舞うのだ。

「実里…ちゃん。」

「そう!私はハルちゃんって呼んでいいかな、敬語も使わずにっ…てもう使ってないけれど話していい…?」

「うん。もちろん。」

 着物姿の彼女、ハルちゃんがまた笑う。うわあ、可愛い。こういう可愛く笑う子が私は好きだな。友だちも笑う子が多いし、何なら私もよく笑うって言われるし。ようし、第一印象はお互い良さそうだ。このままこの子とも仲良くなれたらいいなと、思う。

 それから私たちは話し始めた。話題はもちろん、私たちがこの店に来た理由だという《忘れ物》についてだ。

「ハルちゃんも同じ、忘れ物探しをするんだよね。」

「そうなの。忘れ物もそうなのだけれど、ここに来るまでの間の事、よく分からなくて。あのね、私いつの間にか眠っていたみたいで、目が覚めたら知らない部屋で横になっていたのよ。」

「部屋ってどこの?家?」

 私がいつの間にか電車に乗っていて、見知らぬ駅に着いていたのと同じだ。うーん、と彼女は首を傾げた。

「あれはまるで…病院のような、質素な部屋構えだったの。白い部屋で、窓にカーテンがあってね。でも部屋にも建物の中にも誰もいなくて。探してみたのだけど、誰も見当たらなくて。それで私どうしようかなと思って外を歩いていたら、いつの間にかこのお店の前にたどり着いたの。」

「私も。私は起きたら電車の中にいて、駅に誰も居なくて、ここに来たんだ。」

「実里ちゃんもなのね。」

「うん…無意識にというよりは、どこかに行きたい気持ちがあって、この店を見た時に惹かれるものがあった感じで。」

「そうね、私も同じ。それでいざ店に入ったらあの達磨さんがああ言うものだから、もう何が何だか分からなくて。」

「だるま…?ああ、あのオレンジさんの事か。」

 突然出てきただるまの存在に私は思い切り首を傾げた。そうか、私にはあの浮かぶ火の玉がオレンジに見えたけど、彼女にはだるまに見えるのか。なるほど、だるまの方が何だか縁起が良さそうだ。うむ、私にはないハルちゃんのナイスセンス、欲しい。それにしてもあのオレンジ…だるまさんは何て名前だったか。ハルちゃんにも名乗っていたはずだが、大事な所を見事に聴きそびれてしまった。もしや彼は人じゃないから覚えられないのか。一応ハルちゃんに聞いてみたものの「何だっけ?」と彼女も忘れたと言っていてお互い苦笑いした。仕方がない、私たち店に来るまで色々と混乱していたし。またあとで聞いてみよう。

「それで『ここは忘れ物を探すための場所だから探してみなさい』か…。」

「そうね。もしそれが本当なら、私たち、二人とも何か忘れ物をしているって事じゃない。」

 心当たりはあるかという問いにハルちゃんは黙って首を振った。私も同じだと伝える。

 それから彼女は口元に手を当てて黙ってしまった。状況整理のための沈黙だろう、私も彼女から視線を外し、思考を巡らせようとする。店内を見渡す。お客さんが十数人入れそうな喫茶店。店内を照らす淡いランプの明かりは僅かに揺らめいている。

 改めて。ここは、一体どこだろう。そして目の前に座るハルちゃんと、こうしてちゃんと話せるのは何故だ。駅前にいた人たちとは何が違う。ハルちゃんはこの店に来るまでに何か見たり聞いたりしたのだろうか。

ハルちゃんは…と声を掛けようとして私は俯いていた顔を上げた。するといつの間にかこちらを見ていた彼女と視線が合った。少し薄いグレーの目が、私の頭を見ている。

「実里ちゃんは、何というかハイカラなものを着ているのね。」

「ハイカラ。ああ、この服のこと。」

 彼女の視線が私の顔から下に動いて、それから再び上へと戻った。やはり頭の上だ。

 私は手を頭の上へと伸ばし、つけていたカチューシャを外しテーブルの上へと置いた。

「これは仕事着。私ね、メイドさんとの仕事をしているんだ。」

「メイド?」

「お店とか行ったことある?」

 彼女が僅かに首を傾げた気がする。これは行った事がないというよりは、メイドというものにピンとこないという反応だろうか。座っていたらテーブルに隠れて全体像が見えないよな、とソファーから立ち上がりテーブルの横に立った。店内に私たち以外に誰もいない事をもう一度確認して、私はその場でくるりと回ってみせた。スカートがふわりと広がりながら揺れる。可愛い。このスカートの広がる感じが小さい頃から凄く好きで、大人になってもたくさん履くんだって決めていたから、この揺れを感じる度に気分が上がるのだ。私の姿を目で追っていたハルちゃんは可愛らしいわね、と小さく呟いた。そして彼女もソファーから立ち上がり、私の正面に立ち、向かい合う。

「メイドって主人に仕える、メイドのことよね?」

「うん? そうだけど。」

「具体的には、どんな仕事?」

「ご主人様が選んだ食事を準備して運んだり、お話ししたりだね。」

「メイド…。」

 ここまでは、よく聞く言葉だ。四年間のメイド歴の中で何度も聞いた言葉と反応。可愛いねと褒めてくれる人がいる反面、中には知り合って間もない人から、こちらが傷つくような悲しい言葉を続けて返してくる人もいて。

 うーん、この仕事の話をすると結構変な目で見られることも多いのだけど、私はこの仕事が好きでしているんだよね。人を笑顔にさせる、他人に誇れる大好きな仕事だ。なのに世の中には理解してくれない人の方が多くて、それが時々悔しくて。

 ハルちゃんの顔を伺う。彼女も私のこの仕事のことをあの人たちのように色眼鏡で見るのだろうか。いつもだったらもう少し相手の為人が分かってから自分の仕事の話をするっていうのに。初対面の人にこんなにあっさりと話してしまったのは初めてかもしれない。まあこの格好をしていたら遅かれ早かれ聞かれたであろう質問だろうし、でももし彼女もそうだったら…仲良くなりたいと思っているのに悲しいな。そんな事を考え出したらきゅっと胸が痛みはじめたような気がする。

「多分だけど…。」

 再び口元に手を当てて考え込んでいたハルちゃんが、多分ね、と繰り返し呟く。

「私の仕事もその、実里ちゃんと同じ《メイド》だと思う。」

「そうなんだ…って、へ、ハルちゃんも⁉」

 落ち着いた口調で口を開いた彼女とは真逆の、素っ頓狂な声を発してしまう。ハルちゃんがメイドさん⁉てっきり彼女からマイナスな言葉を言われるかもしれないと構えていたのに、まさかの同業者。塞がらない口を開けたまま彼女の姿を改めて見直した。薄い紫色の花柄の着物に白いエプロンを身につけている彼女。エプロンにはお店のロゴマークのようなものが刺繍されている。うわ、よく見ると凝っているというかお金が掛かっていそうなものだ。

「それ制服?」

「そうね。支給されたものね。」

「みんなその服なの?」

「着物は違う柄の人もいるわ。」

 そうか和風メイド喫茶か。うちの店もコンセプト喫茶だし、メイド喫茶が世間に認知されてきてからは、本当に色々な種類のものが増えている。近所で和風の店の情報は聞いたことはないけれど、全然ありえなくない、むしろ和風とか王道のテーマだし。何で気付かなかったの、実里。

(まあ、和風メイド喫茶にしては、ちょっと着物が地味じゃないかな。私だったらもう少し鮮やかな着物でもいいと思うけど。侘び寂びが売りなのかな…。)

 でも落ち着いた雰囲気の方が好きっていう人もいるだろうし、私が知らなかっただけで。まだまだ勉強不足だったな。そんなことは今はどうでもいい。彼女が私と同じメイドだというのだ。

「うわ、シンプルに嬉しい!だって一歩外の世界に出ると中々同じ仕事をしている人っていないし。完全なプライベートの時に同じメイドさんに出会ったの、…人生初かもしれない!」

 あまりにも予想外の嬉しい共通点の発覚に、私は彼女の手を取りブンブンと振りながら握手をしてしまった。

「実里ちゃんが嬉しいなら、よかった。」

 結構な勢いで腕を振ってしまったにも関わらず嫌なそぶりを全く見せることなく、ハルちゃんはにっこりと笑い返してくれた。何だろう、嬉しい気持ち以上に彼女の笑顔は暖かみを感じて凄く安心する。

 何度か興奮の声を上げて、そしてお決まりの深呼吸をして私たちは再び席についた。今この店に他のお客さんがいなかったことを、心から良かったと思う。そのくらい大きな声で喜んでしまったし、もし私が店員だったら注意しにいくレベルの声だった。ちょっと反省だ、落ち着け実里。

 目の前のハルちゃんは相変わらず落ち着いた様子を見せていて、私も彼女みたいに少しは落ち着きのある人になりたいな、なんて思う。ようし、今から落ち着きのある人になろう。思い立ったら今から、だ。ピシッと背筋を伸ばしたら彼女がどうしたの、と尋ねてきた。うふふ、と笑い返したらうふふと笑い返された。はあ…本物のうふふは違うな、私も早くナチュラルに笑えるようにならないと、だ。

 そういえば、とハルちゃんが店内を見渡す。

「そろそろ飲み物がくるかしら。」

「って、そうだ、お金。さすがにお店だし、お代がいるよね?」

 あのオレンジさんに促されて好きな飲み物をオーダーしてしまったのだが、困ったことに今私は、何も持ち合わせていないのだ。財布どころかお金の代わりになるような持ち物も何も持っていないことをすっかり忘れてしまっていた。どうしよう。もしかして、と思い彼女に聞いてみると、彼女もお金を持っていないのだという。

 お金がない、これは大問題だ。こんな謎の夢なのに妙にリアルな空間で食いっぱぐれるつもりもない。食いっぱぐれと言えば、前に未会計のまま店を出て行った《ご主人様》を制服姿のまま走って追いかけたことがあったな。その時は逃げられてしまって、でも次の週に店の前に《ご主人様》が現れて背中から思い切り跳び膝蹴りをお見舞いして、警察に引き渡して。近所のお店の人たちに褒められたことがある。店長には二度とするなと怒られたけど。

「ダメだダメだ。」

 あの客のようになるわけにはいかない、けれど無い物はないのだから仕方ない。さてどうしようかと考えを巡らせていると彼女が先に口を開いた。あのオレンジさんに相談するという案だ。

 するとナイスタイミングで彼が店の奥から姿をみせた。宙に浮く彼の横にはオレンジジュースの入ったグラスが二つ、お盆の上に乗せられた状態でふわふわと浮いている。まて、二つあるということは強制的に私におかわりをさせるつもりなのだろうか。

「だるまさん。」「オレンジさん。私たち持ち合わせが無いんです、どうしたらいいですか。」

 ハルちゃんと私の声が重なる。それに対してだるまオレンジさんは驚くこともなく、ああ、と答えた。

「お代はいらないよ。この店はお客様からお代を頂かない店なんだ。そして君たちはこの店のお客様だ。好きに飲んで食べればいい。希望があれば何でも提供するさ。あと私の名前は達磨でもオレンジでもなく橘だ。」

「「はい、たちばなさん。」」

 再びハルちゃんと声が重なった。橘さん、タチバナさん。はい忘れずに復唱しよう、たちばなさーん。橘って何だっけ?確か花の名前だったか。

 橘さんがこちらに近づくとお盆の上のグラスが宙に浮いて、ハルちゃんの前へと置かれた。宙に浮く謎の生命体に宙に浮くジュース…ううん、やはりこれは夢だ。

 もう一つのグラスは私の目の前に置かれ、「おかわりをどうぞ」と耳元で声が聞こえた。やった、私は飲みかけのグラスを持つとジュースを一気に飲み干し、新しいグラスに手を伸ばした。うう、ジュースがおかわり自由だなんて、なんて贅沢なひととき…。

 夢の中でタダ飯を食べられるのであれば有難い。せっかくだし、ジュースだけじゃ勿体ないからあとでサンドイッチとか出してもらおうかな、なんて考えた。

 橘さんの姿がスッと消えたタイミングで、私たちも話題に戻る。そう、私たちの忘れ物についてだ。

 忘れてしまった、忘れ物。だが何時間経っても、その忘れ物が何なのか、私たちは思い出す事が出来なかった。店の外に出て少しひんやりとする空気を吸ったり、飾られたランプの灯りをじっと見つめたり、テーブルに伏せてうとうとしたり物思いに耽ってみたりと色々過ごしてみたが、肝心な忘れ物については一切思い出せなかった。

 不思議なことに《思い出したいのに思い出せない》というあの独特なモヤモヤ感は感じないのが救いだった。むしろ時間が経つにつれ、新たな感情が芽生えてきてしまったのだ。ハルちゃんにその事を話すと、実は私もそう思っていたと言うから、これまた驚いたものだった。私たち気が合うのかな。穏やかで大人しそうに見える彼女だが、どうやら思考パターンは私と似ているらしい。

「私たち、忘れものが見つからない限りはこの夢?夢から醒めないということよね。その中で、ずっとのんびりするというのはどうも性に合わないわね。」

「うん、苦手というか。」

「じっとしているより、動いていたいという感じがするのよね。」

「そうなの、それ。」

 そう言って彼女はテーブルの上に置かれた台布巾を取るとサッとコップの底に付いた水滴を拭いた。あ、と声を漏らした彼女が「まさにこういうところ」とこちらを見てふふっと笑った。

 ハルちゃんの言うとおりだ。橘さんが説明してくれたように、この店にいる限り衣食住が提供されるのであれば困りはしないのだが、なんせ私は自他共に認める仕事人間だ。以前数日間の連休を貰った時なんて最初の二日間は心躍ったものの、最終日に関しては何をしていいのか分からなくなり、終いには店にお客として行って店長に呆れられた記憶がある。

 働く、か。良い案かもしれない。それに今のような、一体何をどうしたらいいのか分からない状況に陥った時に、仕事など目の前のことに集中することで心が落ち着いたり、その中で解決案を見つけたりする事だって時にはあるのだ。そんな事が今までにも何度もあったような気がする。

 私の《忘れ物》が何なのか、探す方法は色々あるはず。好きなものを食べたり飲んだり、音楽を聴いたり。ぼんやりしたり、景色を眺めたり。人の数だけその方法はあっていいはずで。それが働くという形でも、良いはずだ。そして私たちはメイドで。ここは喫茶店だ。

 そうしたら、選ぶ方法は一つしかない。

「ねえハルちゃん。私たち、この店で働くことって出来ないかな?」



 私たちの座る席にオレンジ…ではなく橘さんがふわりと飛んできた。この浮かぶ物体はどうなっているんだ。未だ気になってそっと指を伸ばして突こうとしたら、光に触れる寸前のところでサッと避けられてしまった。沈黙が続く。橘さんの無言が怖い。すみません、勝手に突こうとして。私は少し背中を丸めてハルちゃんの方を向いた。

「なるほど。仕事ですか。」

 少し間が空いて、ハルちゃんと橘さんが話をしはじめた。ハルちゃんの表情が真剣なものに変わって、私は未だ目の前に浮かぶ者の声がどこから聴こえてくるのか、不思議に思いながらじっと観察している。勿論私も話に参加しているよ、しているとも。

 だめだ、分からない。この光る物体の中心にスピーカーでも埋め込まれているんだ、きっと。そう思うことにしよう。スピーカーだ、これは。じゃあ耳はどこに付いているんだ、ますます分からない。

「今まで色々な人を見てきましたが、まさかここで仕事がしたいと申し出てくるとはね。メイドなら、まあいいでしょう。」

 私が橘さんの言葉に耳を傾けて、本当にすぐだ。私たちの提案はあっさりと通ってしまった。食べるものだとかそういう「物」を提供される場所であるこの喫茶店で仕事をくださいというのはレアケースなのかもしれない。だが望むのがあれば、と言っていた橘さんの言葉は嘘ではなく、本当に私たちはこの店で働いていいというものだった。ちなみに他の店で働くことはできるのかも聞いてみた。残念ながらそこまでは出来ないらしい。この不思議な夢の中でも融通が効かないものもあるようで、それは何となく理解した。この店で出来る仕事があるのならこの店で働こう、ハルちゃんと私の意見は一致していた。

 話が終わると橘さんは再び姿を消して私とハルちゃんの二人だけに戻る。顔を見合わせるとお互いの口から自然に「よかったね」と言い合って、私たちは笑い合った。

「あ、そうだ実里ちゃん。これあげる。」

「え?」

 ハルちゃんがゴソゴソと袖の中を探している。彼女が私の手を取ると手のひらの上に何かを置いた。コロンと転がった、飴玉。透明な包み紙のオレンジ色の飴玉だ。大きさや形からすぐに分かった。食べたことのある飴だ。

「これ、なつかしい。」

 小さい頃、おばあちゃんの家に遊びに行くと、よくくれた飴だ。彼女が淹れてくれたお茶を皆で飲んで、その後お母さんが席を外しお父さんがテレビをぼんやり見始める頃、机の下でそっと私の手の中に飴を置いてくれた。お父さんたちには内緒だよ…と。他にも私が学校のテストで満点を取った時。両親に叱られて泣いている時。机の上に置かれた巾着の中から、この飴を取り出しては必ずくれたものだ。

 一緒に住むようになってからは毎日では無かったが、帰りが遅くなった時などに、彼女が作ってくれた料理の横にこの飴が一つ置かれていて、その飴を味わいながら扉の向こうで先に眠る彼女に小さな声でお礼を言っていた。

「ありがとう。よくおばあちゃんがくれた飴なんだ。」

「そうなのね、実里ちゃんも食べていたのね。私ね、この飴が一番好きで、いつもこれだけは持っていようって鞄の中に入れてあって。この場所に来た時にもしかしたら、と思って探してみたら袖の中に袋ごと入っていたの。」

 そう彼女は持っていた巾着の中から、もう一つ同じ飴を取り出すと「いま食べちゃおう」と包みを開けて飴玉を口に放り込んだ。私も、と真似る。口の中にお馴染みの、そして懐かしい柑橘類の甘酸っぱい爽やかな味が広がる。オレンジジュースとは少し違う、人工的なお砂糖の味…でもこの味はほっとするのだ。不安な時なんか特にそう、堪えていたはずの涙が溢れるのも、この飴を舐めていた時が多かった気がする。

「実里ちゃん?」

「……ちょっと不安になっていたんだけど、飴舐めたら落ち着いたかも。忘れ物が一体なんなのか、このまま分からなかったらどうしようって思っていたところだったし。でも焦ってもダメな時はダメだよね。時が解決してくれると信じてお仕事頑張ろうかな。」

「うん、私も一緒だからね。一緒に頑張ろうね。」

 ハルちゃんが私の背中をそっと摩ってくれて、思わず涙腺が緩んだ。堪えろ、今は泣くところじゃない。なんとか溢さずに引っ込んだ私の涙、偉い偉い。よし、楽しく過ごすぞと大きな声で宣言すると、「君は元気だな」と店のどこからか橘さんの声がした。

 口の中で溶けて半分くらいの大きさになった飴。舌でコロコロと転がす。今日は多分もうお客様は来ないと思うよと橘さんは言っていたけれど、働くと決めた以上はお店の為に動きたいと思い、私は店の中のテーブルを順に布巾で拭き始めた。

 飴、か。ハルちゃんが持ち物を持っているという事実には特に驚かなかった。だが自分の事を思い出した。あの駅に降りた時に、私も持ち物の有無を入念に確認したはずだが…。

「いいなー。私は何も持ってなかったんだよね。」

 改めてポケットの中を両手で探る。もしかしたら、と期待をしながら全身をチェックしてみたものの、案の定、私のポケットの中は空で…つまり私が今持っているものはこの身体とメイド服のみだった。

 私のメイド服、喫茶店の制服。黄色と黒の縞々模様のメイド服、ミツバチを模した私のお気に入りのデザインだ。メイド喫茶みつばちの箱庭の、私はミツバチ班のリーダーをしている。簡単に言えばメイド喫茶のメイド長だ。常連さんには女王なんてからかわれる時もあるけれど、お店は本当にいい人たちの集まりで、裏方スタッフもみんな優しくて、何と言っても可愛い制服で毎日楽しく働ける自慢の職場が私はとても大好きで。

(あれ、こんな感じだったかな。)

私はワンピースをまじまじと見下ろした。左腰についた大きなリボン、バツ印のような縞々模様がどうしてか気になる。履いている靴下も、靴のリボンだって同じ色だけど、これはなんだろう。違和感というものだろうか。何かが引っ掛かった。

「……。」

「どうしたの?」

「うーん…あのね、この服こんなデザインだったかなと思って …。」

 ハルちゃんも私の服を見ている。彼女の前でスカートの裾をフリフリと揺らしてみた。何度見ても可愛い。そして何年着ていても可愛い、私のお気に入りの制服。その大好きな制服のはずなのに、何か変な感じがする。この変な感じは、なんだろう。

「そうね確かに、私も…私もこんな服で仕事をしていたかしら。何か、どこか違うような気がして…。」

「ハルちゃんも?」

 ハルちゃんは襟、袖と順にペタペタと自分の着物を触りはじめた。

「服、いや身体なのかな…。」

 ポツリと呟いた彼女の声は。真似して自分の制服を触っていた私には聞こえておらず。

「まあ、そのうち理由が分かるかな。」

「そうね、のんびりと働きながら解明していきましょうか。」

 気を取り直して背筋を伸ばした私を見て、彼女も姿勢を整える。ああ、着物の立ち姿ってやっぱり綺麗。今度ウチの店でもイベントで和装してみようかな。着付けは誰かに頼みたいけれど、身内に頼める人はいないかな、なんて思いながら私は再び手を動かす。そしてハルちゃんと目が合った。

「どうぞよろしくね、実里ちゃん。」

「こちらこそよろしく、ハルちゃん!」

 顔を合わせてお互いに満面の笑みを浮かべた。

よく分からない、夢。妙にリアルな夢。誰もいない駅に見知らぬ街並み。誰とも話のできない歩き道、そして辿り着いた喫茶店。そんな中で友だちができた。一人じゃ不安だけど、友だちが一緒なら私はずっと心強い。

 そう。だから私たちは、この新しい場所で働けることに、ただただ浮かれていた。これからどんなお客さんが来るだろう、一緒にお話ができたらいいね、なんて予想し合ったりして。二人が出会い、共に過ごせるこれからの時間を楽しんでいた。私たちがこれまでの自分と何も変わらない存在であると疑いもせずに。



 人は死んだらどこに行くのだろう。私たちは一体、どんな忘れ物をしたのだろう。

 今思えば、この時ちゃんと、店主の橘さんに聞いておくべきだったんだ。私たちがもう死んでいて、ここが冥途の世界であるということを。

 さあ、私たちの、メイドの最期の夢が始まる。


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