第9話「ちがう果実の異なるあじ」

「…………、んれ?」


 ノアドラの意識はいつの間にか覚醒していた。

 気付けばそこは例の混沌空間ではなく、目を瞑ったままのため暗闇ではあるが、握るシーツの感触、掌で感じられるベッドの硬さから自分が借りた2LDKのマンションの一室、その寝室である事が窺える。

 どうやら現実世界に帰還できた(させられた)らしい。


「――ノア?」


 その耳元で囁く声も、彼の同居人であるレユネルのものに間違いはなく、

 ――って。


「……っっっ!!!!」


 思わず彼は飛び起きた。まるで吐瀉物をかけたにも拘わらずなぜか興味深げにうっとりとした表情を浮かべた美少女を眼中に収めた時くらいに、素早く。


「……」


「……」


 ……。


「……最悪の寝起きだ」


 眼前には、目が醒めるくらい可愛らしい、おっとりとした少女。

 その少女が、何やらコップを手にして、その中身を自分に向かってかけようとしていた。

 何故に彼女がそんな奇行に走ろうとしたのか、その理由を問おうとしたところで、ノアドラは口元に何か付着しているのに気が付いた。

 何かのソース……いや、果物の果肉と果汁だ。

 そして、ノアドラは自分の勘違いに気付く。

 恐らく、レユネルが手にしたコップの中身は水。食べ過ぎたのかどうかはわからないが、レユネルが心配して飲ませてくれようとしていたのだろう。……気絶しているノアドラにどうやって飲ませるつもりだったのかは知らないが。

 そして周囲を見渡せば、より詳細な理由をノアドラは知る事ができた。

 ノアドラとレユネルの周囲に散乱しているのは、たくさんの食糧ゴミ。菓子パンの袋だったりソースで汚れた皿だったりと、食い散らかすにしても派手過ぎて、これでは獣が貪ったような跡にしか見えない。

 間違いない、ノアドラの中に存在する彼女の仕業だ。


(……さっきなんか食ったとか言ってたしな……)


 部屋の荒れようから察するに、相当に必死だったのだろう。

 片づけなければいけない。……だが、それでもノアドラは彼女の行いに感謝していた。


「ん……はい、ノア」


 そしてレユネルから水を受け取り、飲み干す。飲み干した後、ノアドラは改めてレユネルに振り向いた。


「……ん?」


 目を覚ましたノアドラの数センチ先には、レユネルの瞳が。

 ……しばし見つめ合う二人。


「……ノア、きょうの、ぶん」


 言って、唐突にレユネルはノアドラに迫ろうとする。


「……あっ、……えっ、……うあっ……!」


 感情のカケラもない瞳ではあるが、魔王とは違う、同い年の異性に至近距離で見つめられたノアドラは、顔を赤くして、先程とは意味の違う目眩を起こしながら、頭を引く。

 しかし――


「っ……!? っだ、……んむっ!?」


 何故かノアドラは、壁際に沿って寝かされていたらしい。背後の壁に頭をぶつけて、その反動で前に跳ね返される。そしてレユネルの朱唇に自ら、己の唇を重ねる結果となってしまう。


「!? ……っ!?」


 さらなる羞恥に気付き、レユネルから離れようともがくも、自分からレユネルの柔肌に触れようとする勇気はノアドラには無い。故に壁とレユネルに挟まれて、彼はまな板の上の鯉である。


「ん……」


 自分と彼女はキスをしている。

 それをノアドラが自覚すると、レユネルの方からさらに迫ってきた。


 のあどらは、かのじょのこうどうのなにがもくてきなのかさっぱりりかいできない。


 全く動くこともできず、頰に手を当てられ、蕩けてしまいそうなほどのゆっくりと優しいキスに、最早ノアドラは自分でも、キスをしているのかどうかすら、わからなくなってくる。

 そのままたっぷりと濃厚なキスを交わした後、ゆっくりとレユネルの方から離れていった。


 ……っ! ……っっ!!!!


 ……レユネルがノアドラから離れる際、彼女と彼の間から伸びた唾液の糸、それが途切れるのをノアドラは目撃してしまい、彼は、さらに顔を赤く染める。

 彼女が彼から離れて身を起こすと同時、肉食動物から逃げる子羊のような、死に物狂いの動きで部屋の隅へと後退する。壁に手をついて追い詰められたような格好のノアドラだが、まるで情事の後のようなふわふわした、浮ついた空気の中で、口を開くことができた。


「な……何が目的だ」


 壁に頭を押し付けながら、ノアドラはレユネルに問いかける。


「だって今日……まだ、してない」


「前回からまだ日数どころか半日しか経ってないんですけど」


 確か、ノアドラの記憶の中では、今朝仕事に出かける前にした――されたはずだ。

 それは彼と彼女の間に交わされた義務行為。レユネルが生きるための、延命治療。


「……日が、経てば、いいって……わけじゃない」


「どうしてキスをしたんですか!?」


 ノアドラは、半ば悲鳴を上げるようにレユネルに問いかける。そこに唇があったからとか、無表情な彼女らしい、それらしい「答え」を期待して――


「ノアドラの寝顔を見てムラムラした」


 身も蓋もない言い方だった。


「……っ! ……う、うぅ……!!」


 恥辱と後悔に塗れた表情で、ノアドラは唸り声を上げる。

 因みにノアドラは、好きでもない女と挨拶代わりのキスをするような、「減るもんじゃないし」というフラットな考えを持ち合わせてはいない。だが、完全無欠な色無しというわけでもない。

 しかし、いくら情欲が滾るからとはいっても、その当てつけにされても良いと思えるほど、彼女を安く見たつもりは一度もないのだ。

 むしろ、彼女がいつどんな時でも自分から離れてしまっても良いように、綺麗な身体のままでと、そう固く決心したはずなのに。

 そして何より、ノアドラは、「助けて」というメールが来たからこそ、何よりも急いで帰ったというのに。これではあんまりではないか。


「……?」


 しかもその彼女は自分が何をしてしまったのかを、まるで理解していない。

 ノアドラは「それ」を、彼女に対して安易にしていいものではない。だが「それ」は、こなさなければならない試練でもあった。

 現在、レユネルの髪にはノアドラと同じ「黄金」が巣食っている。

 ノアドラが彼女に対して行っている「接吻」という行為の意味は、彼女の体内に残留している黄金のノアドラへの移行だ。

 黄金の侵食を受けた者は、少なくとも体表にその証拠が現れる。ノアドラであれば胸に、レユネルの場合は髪に。それを接吻によって経口吸引することで、レユネルの体内に残された黄金を回収していた。魔王の協力もあり、レユネルの体内からは順調に黄金が取り除かれている……のだが。

 ノアドラがいま取り組んでいる魔王の問題とは別に、レユネルの問題もまた対処しなければいけないもので、その事実に怒りはあっても不満はない。




 ただその方法が「キスでなければいけない」ということを除いては。




————————————————————


何なら主人公が一番初心なまである。


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