第2話「最強存在はあなたの心の中に。」
山の向こうに沈みつつある太陽が、空にまばらに浮いている雲、切り立った山々を茜色に染めていく。人が多い、多すぎる街として知られる「サリカ」にも、夕暮れが訪れていた。
(……そうか。もうそんな時間か)
店の壁面に表示された時計を視て、少年は息を吐いた。
澄んだ青色だった空はゆっくりと茜色に染まっていき、やがて青みを含んだ黒色へと変わる。そして、昨日と寸分違わない星の空を映し出す。
随分と早い夕暮れだ。自分が「地下水路」に潜ってからそれほど時間は経過していない筈……ということはつまり、それだけ時間を取られてしまったということでもある。
その事実に思わずため息をつきながら、少年は手にしていた商品を棚に戻した。
振り返り、何か良いものはないかと視線を変えながら歩いていく。
しかし――この少年。
一六という年齢にしては、一〇歳や良くて一二歳ほどにしか見えない、幼い顔立ちをしている。あどけなさが残る童顔ではあるが、誰もが振り返るほど特別に整った顔立ちではないし、髪が結っても尚足元に届きそうなほど長いことと、髪色が桃色であることくらいしか、彼を示すわかりやすい言葉はなかった。
にゃおん、という猫の鳴き声が、彼の通り過ぎたショーケースから聞こえる。
少年のいる場所は、サリカの中にある猫専用ペットショップ、「にゃあにゃあキャット」。
彼は今、自分が飼っている仔猫の餌を買うために店にやって来ていた。
【――――――――】
途端、少年の脳内にノイズのような耳障りな音が駆け回る。
「……」
だが己の中に響いてきた不快な音に顔を歪ませないよう、できるだけ平穏を装いながら少年は視線を左右に揺らす。
しかし彼の目に映るものはキャットフード以外にない。にもかかわらず、背後から伸びてきた色白で華奢な細腕が、少年の顔を挟み込むように、少年の頬に爪を立てた。
それは、感情に囚われ、意志という決定権を以て世界に爪を立てる「ただの」思念体。少年から生まれたものではないが、少年の精神に同居している一つの人格だ。
「彼女」は、視ることさえできるならば誰もが振り返るであろう「可愛らしさ」と「美しさ」と「親しみやすさ」の三つを兼ね備えた超絶美少女であることに間違いはない。……と、彼女の宿主となっている少年は彼女からそう聞いていたが、彼女が少年の精神に宿って以降、目が覚めている間は彼女の声は少年に届かず、只のノイズとしてこの少年の頭を悩ませるだけ。
【――――】
少年には声の聞こえないその少女が覆う少年の口元、少女の指をすり抜けて少年の唇からわずかに零れ出るそれ。――少年が空腹であることから察するに、彼女は【早く胃に何かを詰め込んでください】とでも言いたいのだろうか。
彼女が示す事実として、少年は自らが手にしている目下の猫の餌に涎を垂らしかけていた。
「……! くっ……」
空腹のあまり口の端から溢れかけたそれを飲み込み、口元を袖で拭い、首を振って意識を散らす。そして、少年は視線を商品棚へと合わせた。
そもそも猫は、どんな味の感じ方をするのだろうか。辛い、苦い、酸っぱい、渋い……それらの猫にとっても嫌な味が猫にも感じ取れることは知ってはいるが、じゃあ逆にその仔猫の好みは何なのだと聞かれると、それもわからない。
健康に配慮して、決まった数種類の餌を順番で与えているのだが、それではこの猫が飽きてしまわないのかと、ふと考えたのだ。
しかし、給料が安定している「定」所得者とは違い、彼の家計はいつも火の車だ。床屋に髪を切りに行く余裕なんてものはなく、彼の髪も伸び「過ぎ」れば邪魔にならない程度に自分で切っている。
それだからか、結局この時も少年がこの場で行き着く答えは同じであった。
――まあ、いつも通りの缶詰で良いか。
しばらく考えたあと、少年は「大安売り」というプラカードが下げられた棚に手を伸ばす。
仔猫の飼い主である少年がいつも仔猫に購入しているのは、少年が手を伸ばす先にある、お手頃価格の缶詰キャットフードである。「しっとりとした舌触りと塩分控えめの味付けでネコちゃんにも大人気!」とラベルにも書かれてはいるのだから、それなりに満足はしてくれる筈だ。
【――】
再び脳内に響く声。少年がその声に反応するより早く、彼の頭上から重みが消えていた。
「……え? ……あ、おい、ちょっとコラ」
彼はそれで良しとしていても、その仔猫は納得がいかなかったらしい。
少年の頭上から、兎の如く飛び跳ねた存在が一つ、在った。
少年が飼っている仔猫だ。入店時は鼻をすんすんとピクつかせて、先ほどから嬉しそうに尻尾を左右に振っていただけだった。しかし今は眼を鋭くさせて、みニャアと可愛らしい雄叫びを上げて、ライオンのように勇ましく跳躍していた。
仔猫が向かう先は、少年が手を伸ばす所とは真反対の棚。そこには、天然素材を使用し魔術加工保存料や魔術調味料は一切うんちゃらかんちゃら、彼が「それもう人間の食い物じゃねえの」と言いたくなる、一個で五〇〇円以上の高級缶詰が並んでいる。
【――】
猫が空を駆ける。脳内に響き渡るノイズとその眼前の現象が相まって、少年は苦い顔をした。
……やったのは一回だけなのに、それで味を覚えたな……。
やはり、猫であるとはいえ、この仔猫は美味いものが好きならしい。缶詰だから匂いもしない筈だが、興味本位で一度だけ与えてみた味を、ラベルの絵柄だけでここまで飛びつくとはこの少年には思いもしなかった。
ため息をつく少年。しかしその間にも仔猫は目を爛々と輝かせて前脚を商品棚に伸ばそうとしている。ここのところ少年が手に取ろうとしたエサしか口にしていないので、「美味い飯」の味を覚えた仔猫には高級ペットフードの棚が「ごちそうの海」にでも見えてしまっているのだろうか。……とにかく、仔猫が体当たりで商品棚を崩して余計な支払いが増えてしまう前に仔猫を引き戻さなければならない。
しかし、仔猫はもう少年の手の届く距離には居らず、それどころか少年は仔猫を引き止めようとすらしていない。だが、その場に居合わせた他の女性客が、その光景を目にしていた。
「……!? ちょっとあんた……!」
彼女はそのまま、仔猫の突撃を止めようと手を伸ばす――が。
【――――】
一方の少年は、ただ小さく口で何かを呟いた。
「――空道架(フェルスター)」
少年が発したそれは只の呪文や祈り言ではなく、一般的に魔法、魔術と呼ばれていた。
魔物が使う異能。人間には決して宿ることはなく、魔物を象徴するかのような、人が魅入られてはならない禁忌の象徴――とされていたはずの、異能だ。
しかし、三〇〇年前のある日を境にして、人類はその未知の領域の力を「技術として」手にしていた。
現代では最早スプーンやフォークなどと同程度に容易に扱われ、手足を失った者にとっては文字通り手足の代わりとなる、当たり前の存在となっている。
そして、この少年も当たり前のようにその術を発動――しようとして、しまった、という表情を浮かべた。
「ニャッ、ミャアア!」
(――失敗だ)
心の中で苦虫を噛み潰したかのような味わいを覚え、歯を食いしばる少年。
しかし――
「……え」
――女性客が瞬きをした次の瞬間、仔猫は何故か、少年の腕に抱かれていた。
「……ったくお前は」
「え、ええ!? はぁ!?」
気がつけば、商品を突き崩しているのは、その仔猫を止めようとした女性客の方だった。
「え、あっちょ、うわああ!?」
音を立てて、まるで雪崩のようにペットフードが崩れていく。
棚に並べられていた缶詰であったり袋詰めであったりの様々なペットフードが床に散乱する。
そのうちの一つ、自分のところに転がってきた缶詰を手に取り、少年は買い物カゴに入れ、その場を後にしようと……だが。
「……待ちなさいよ、まさかあんた逃げる気……?」
ぐぁし、と万力のような力で女性客に肩を掴まれて、引き止められる。
振り返ると、女性客は少年を掴んでいるのとは反対側の手でべこべこに凹んだ缶詰を手にしていた。その缶詰を視界に収めた少年が、冷や汗を垂らす。
「……えと、これっておれのせいです?」
「……あんたの猫が棚に突っ込もうとしたから、こうなったんでしょうが……!」
さらに、詰め寄る女性客。と――
「……? なにその、あんた。……胸の金色」
「はえっ!?」
沸騰していた女性客の激怒が、ノアドラのとあるものを目にして一瞬和らぐ。
彼女が目にしていたのは、ノアドラの服の隙間から覗いていた黄金に光る何か。
しかもそれは単なる装飾品というわけではなく、体に刻まれた「傷」であるかのように見えて、女性客はそれをもう一度確認しようとノアドラを引き寄せようとするが、
「どっ、どうされました!? お客様、お怪我はございませんか!」
しかし、女性客の追求は店員がやってきたことによって中断される。
「あっ!? ちょっとアンタ、目を逸らすなんていい度胸よね……!」
顔を背け、はあ、とため息をつく少年に女性客は取り戻した様子だが、どうやら今見た光景は忘れてしまったらしい。店員がやってくるとなぜか途端に取り繕ったようには見えない完璧な表情(笑顔ではない、弱気そうな顔だ)で、店員に事情を話し始めた。
少年は胸の黄金についての追求を逃れられたことに対して安堵して、その顔を見られまいと少年も女性客が頭を下げるのとほぼ同時に頭を下げた。
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魔術「空道架」について
自分が指定した二つの場所のあらゆるものを入れ替える、或いは移動させる術式。
最も基本的で魔術を扱うための素養があれば誰でも使えるが、基礎ランクとしてはEレベル。
この術式を用いて三箇所以上に作用させる場合、数に応じて術式を成立させる難易度は上がっていく。
最後までお読みくださり、ありがとうございます!
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