第53話


「ごめんなさい」


 一ノ瀬さんの母親が口惜しそうに言った。


 腹に据えかねる物があるのか伏目がちに俯き、認めがたいものを飲み込むように口を開く。「私は母親失格ね」


 一ノ瀬さんは怒られるとばかり思っていたのか「そんなことないよ」と驚いたように言う。


「いえ、母親失格よ。娘の悩みに気づけなかったんだもの。仕事にかまけてばかりの両親でごめんなさい。もっとちゃんとあなたと向き合うべきだった」


「そんなこと……あたしの方こそ、お母さんに相談できなくてごめんなさい」


「言い出せない事だってあるわよ……あなたはしっかりした子だから大丈夫だろうと思っていたけど、違うよね。私の子供だもんね。私がちゃんと向き合わないといけなかったよね」


「お母さん………」


 そうして母娘はひしと抱き合った。なんと美しい場面であろうか。僕は思わず涙を流して感動していた。……と、そこへスマホが振動して宵歌からのラインが届く。


『りつの学校の件だけど………』


 しかし僕がラインアプリを立ち上げようとしたとき一ノ瀬さんの母親が「……だからね」と僕の方を見た。


「あの子と付き合うのはやめなさい」


「え………」


「今後、彼氏は私が選びます。あなたが選んだ人がちゃんとあなたを幸せにしてくれるのか。私が母親として責任を持って見定める。それで良いでしょう?」


 一ノ瀬さんは不服そうに俯いた「…………」


 おそらく母親に逆らう事が出来ないのだろう。守ってくれる存在は時として畏怖の対象になる。鳥かごに閉じ込められた小鳥のように、自分の命は彼女の手の中。自分は逆らう事が出来ないのだと思い込んでしまうのである。


 逆らって怒られることが怖い。自分の意思で決めたことを頭ごなしに否定されてしまうと人は簡単にくじけてしまう。僕のようなひねくれ者は「なんだとコノヤロウ」の精神で歯向かっていけるけど、一ノ瀬さんの繊細な心はどうか? 両親の事が大好きな彼女には身を切るよりも辛いだろうし、自分は間違った事ばかりする社会不適郷社なのだと自信を喪失してしまうだろう。


 自分を否定される事が怖くなると、最後には何も言い出せなくなる。


 僕にはそういう沈黙に見えた。


「いいわね、まどか?」


 一ノ瀬さんの母は念を押した。僕は一ノ瀬さんに変わって「なぜ僕ではダメなのか説明していただきたい」と反論する。


 否定されるのなら相応の理由が無ければ納得できない。僕ら若者は納得を優先するものだから。納得できない事には従いたくもない。


「なぜ? 考えなくても分かるでしょう? あなたは親がいないし学校を退学になった。娘を勝手に連れ出して大勢の大人に迷惑をかけた。これ以上の理由が必要かしら」


 一ノ瀬さんの母親はそう言い放つ。だが、それはすべて結果論であると思うし、そもそも僕という人間を推し量る材料とするには主観的過ぎると僕は言いたい。


「お言葉ですが、あなたがとおる先輩に心酔していなければ一ノ瀬さんはもっと早く相談できたのではないですか? あなたは自分で彼氏を見定めると仰いましたが、彼の悪行の数々を見過ごして、あべこべに彼を将来の夫にしようとしていた。そんな人の目を僕は信用できない」


「…………………」


「それに、僕を退学にしたのは伯父の独断です。彼は僕を地元に縛り付けようとしている。たとえ99の善行を積んだとしても1の悪行があれば彼はそこを執拗に責め立てるでしょう。うちの家庭事情を自身に都合の良いように解釈して悪者にするのはやめてください。何より両親がいなかったらなんなんです? 僕は両親に捨てられたわけではない。むしろ幸せだった。僕は一人立ちして……たしかに自分が生きる事に精一杯だった。それは認めます。でも、僕は一度たりとも自分の境遇を不幸だなんて思っちゃいない!」


 僕は言い切った。そうだ。僕は自分の置かれた立場を嘆いたことなどない。両親の死を立ち止まる理由にしたくなかったし、遠くで応援してくれている宵歌の存在もある。小海さんだっている。一ノ瀬さんだってそうだ。僕は一人じゃないのだ。何も知らない他人に不幸だと決めつけられる理由などどこにもない。


 一ノ瀬さんの母親は面食らったようにたじろいでいる。可哀そうな子供だと思っていた男の子にこれだけ反論されればさすがに考えを改めるだろうと思われる。


 ようやく一ノ瀬さんを守る事が出来た。僕はそう思っていたのだが……


「ママの事を悪く言わないで!」


 ぱちぃん、と、気味の良い音を立てて一ノ瀬さんのビンタが炸裂する。僕の頬に。


「ママはお仕事で忙しかったんだから仕方ないでしょう! ママもパパもお仕事が忙しくて夜遅くまで働いてて、ずっと頑張ってた。うちの事を何も知らないのに決めつけてるのはりつ君もでしょ! 謝って!」


「………………」


 一ノ瀬さんは怒っていた。頬を高揚させ針のように鋭い高音は、まるで、溜まっていた不安や怒りやストレスをすべて僕にぶつけているようであった。


 僕はいささか面喰った。まさか一ノ瀬さんに怒られるとは思ってもいなかった。しかし考えてみれば僕も一ノ瀬さんの母親を敵だと認識していた。彼女を倒すべき敵のように認識し、そのつもりで言葉を選んでいた。それは認めなければならない。僕は素直に謝った。「……ごめん」


 一ノ瀬さんは僕が謝ると今度は母親の方を向いて「ママもだよ! りつ君はママが思うほど悪い人じゃない! たしかにバイトばかりで学校では眠ってばかりだけどそれでも勉強が出来るし優しいしかっこいいし、お料理も家事もできる! りつ君の良い所いっぱい知ってるもん!」と腰に手を当てて怒った。


 それは一ノ瀬さんが鳥かごから羽ばたいた瞬間であった。


 一ノ瀬さんの母親もまた面喰った。


 一ノ瀬さんは「だから!」と僕に抱き着くと「あたしは四方山立くんと付き合います」とハッキリと言った。


「一ノ瀬さん………」


「彼は口は悪いし授業をサボるし宿題は忘れるし学校の先生に目を付けられるし人と仲良くなることなんか何にも考えてないけど、でも、あたしはりつ君の優しさを知ってる。りつ君が努力家で気遣い上手で優しくて、誰かのために自分を犠牲にできる人だって知ってる。だからあたしはりつ君と付き合う!」


「……………」


「りつ君の良い所を一つでも多く分かってもらえるように頑張る。だから、認めてください」


 一ノ瀬さんが頭を下げた。僕も慌てて、


「僕も、一之瀬まどかさんと付き合います。きっと幸せにします。だから、認めてください。お願いします」と頭を下げた。


「……………」


 一ノ瀬さんの母親はしばらく逡巡していた。


 やがて口を開いた彼女は「……どうしても、その子を選ぶと言うのね?」


 と言い、一つの答えを提示した。


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