第52話


 さて、警察署から出た僕と一ノ瀬さん(それと母親)は小海さんの運転する車に乗ってマンションへと帰っている最中だった。


「いやー、それにしても驚いたね。車のトランクがガタガタいうから開けて見たら四方山くんが隠れていて、追いかけたらあんな場面なんだもの」


「どこから聞いてたんでふか」


 僕は腫れ始めた頬をかばいながら訊ねた。


「あっはっはっは! 君、それ面白いからやめてくれよ!」


「………………」


「ま、いいけど。どこからって、あまり聞いてなかったよ。四方山くんの罵声が聞こえて何やってんだコイツ……とは思ったけど、とおる君や一ノ瀬さんのお母さんがいるのを見てピーンときたんだ。デカい顔をするならここだって」


「ひょっと、不謹慎でふよ」


「だっはっはっはっは!」


「…………………」


 小海さんは愉快でたまらないようだった。ハンドルを握りながら終始上機嫌で喋り続けている。それは僕の顔のせいだけではないだろう。聞けばとおる先輩はあらゆる女子に手を出していたらしい。被害者は一ノ瀬さんだけではなく、卒業した生徒にまで及ぶとのこと。数年に渡り学校を密かに脅かしていた脅威を一掃できたことが嬉しいのだろう。


 車内の陰と陽はくっきりしていた。一ノ瀬さんの母親はバツが悪いやら納得がいかないやらでだんまりを決め込んでいるし、一之瀬さんも神妙な顔で後部座席に座っている。僕は助手席に座っているが背後からどんよりしたした空気が流れ込んできてたいへん居心地が悪い。


 運転席の小海さんが上機嫌でいる事がなお気まずかった。


「いや、君の無鉄砲さには昔から手を焼いていたけど、まさかこんな所で役に立つなんてね」


「……そりゃ、どうも」


「おやどうした? なんだか気分が悪そうだけれど」


「そりゃ居心地が悪いでしょ!」


 僕は耐え切れずに大きな声を出した。


 なぜこの空気感の中でキャッキャできるのか甚だ疑問だけれど、大きな口を開けた事で唇が切れて血が出てきた。「いてて……」


「ふぅむ、女の敵を牢屋にぶち込むことができたのに何を暗くなることがあるんだろうね? だって暴行の現行犯に加えて盗撮痴漢性的暴行エトセトラエトセトラ……。余罪も含めて実に数十件! いやはや実にめでたい事じゃないか!」


「だからその捕まった人が問題なんです!」


 とおる先輩は一ノ瀬さんのトラウマであり被害者。一ノ瀬さんの母親にとっては娘の将来を託しても良いと思っていた人。受け取り方は対極にあるだろうけれど、一度は愛し合った仲の人間が逮捕されれば一ノ瀬さんだって複雑な心境にあると思われる。


 これは僕としても看過できない問題で、一ノ瀬さんの心に垂れ込める暗雲を払う役目が僕にはある。


「だからとおる君が捕まってみんなハッピーという話じゃないか」


「だーかーらー! ……痛い!」


 そうだった。そういえばこの人は気分が昂揚するととたんに傍若無人になるのだった。平常時の優しさはどこへ行ってしまうのか。言葉遣いも横柄になり、声の質さえ変わってしまう。ハキハキとよく通る声で小海さんはなおも喋り続けた。


 小海さんに理解を求める事は不可能であった。


 マンションに向かう道中ずっと胃がキリキリと音を立て、一ノ瀬さんが「はぁ…」とため息をコッソリつくのが聞こえてギクッとした。


     ☆☆☆


「じゃ、私は帰るよ。四方山くん」


「はい……早く帰ってください」


「うん。今日の事は父に報告しておくから楽しみにしておいてくれ」


 小海さんはそう言い残して去って行った。まさしく台風一過。安堵すると心が晴れやかになるのだと僕は知った。


 時刻はもう11時を回っている。


 マンションの明かりもぽつぽつと消え始め、人が眠る時間であると悟る瞬間。


「一ノ瀬さん。もう寝よう。今日は本当にいろいろあって疲れたよね」


「…………」


 一ノ瀬さんはぼんやりとマンションを見上げていたが、僕の声で気が付いたのか「……その前に」と呟いた。


「ママ……じゃなくて、お母さん。隠しててごめんなさい」


「……………」一ノ瀬さんの母親は無言であった。


「言い出せなかったの。恥ずかしかったし、怖かったし、相談してもっと悪い事になったらどうしようって思ったら言えなかった。……隠そうと思って隠していたわけじゃないの……でも、言い出せなくて、ごめんなさい」


「……………」


「……………」


 気まずい沈黙が流れた。母の沈黙が心に刺さったように一ノ瀬さんもつられて沈黙する。僕が何か言った方が良いのか? 部外者たる僕が?


 しかし一ノ瀬さんが神妙な顔をしていた理由はこれで分かった。


 母親に隠し事をしていたという罪悪感。いつか言わなければならない。迫るその瞬間が胸に沈殿し鉛のように重くしていたのだ。


 一ノ瀬さんは悪くない。彼女は精一杯あがいてその結果こうなったのだから責めてはいけない。だが、母親としてはやはり心配だったろうし隠し事をされて悔しかったと思う。


 双方の気持ちを慮れば軽々な言葉をかけることなどできない。


 僕達3人は沈黙のうちに時を過ごした。


 やがて、一ノ瀬さんの母親が口を開いた。

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