第50話


 読者諸賢は知っているだろうか。人に殴られた時というのは本当の痛みよりも心が痛いのである。


 そもそも殴るという行為が明確な敵意の現れであり、古代生物を狩って回った原始人ならいざ知らず、平和に過ごしてきた僕達現代人にとっては敵意を向けられるという事自体が驚愕に値する。


 心が驚き思考が一瞬停止する。痛みを知覚するのは敵意を認識した後にズキズキやってくる。そして人は心の驚きを殴られた痛みと理解する。


「お前ふざけんなよ! この、この!」


 とおる先輩は血相を変えて何発も殴った。怒りに我を忘れてるのだろう。これまで一ノ瀬さんの母親を利用して場の雰囲気を掌握しようとしていた狡猾さはどこにも見当たらない。おそらく僕の言った尊厳の殺人の意味を理解したのだろう。自身の悪行をばらされたものと思って殴りかかってきたのだろうが、浅はか。そもそもその意味を理解しているのは僕と一ノ瀬さんと彼だけだ。


 ゴッ、ゴッ、と鈍い音が響く。しかし僕は何発殴られようと平気だった。


 ブレる視界の隅に一ノ瀬さんの母親の姿が見える。息を呑むように両手を口に当てて固まる様が、僕の勝ちを意味した。


 ゆえに僕は痛くない。


 殴られると分かっていれば覚悟をする事が出来る。驚きも無い。


 ゆえに僕は痛くない。……嘘。ほっぺは痛い。


「もう止めて!」


 一ノ瀬さんが叫ぶ。まるでレースのカーテンを引き裂いたように鋭く甲高い叫びが僕達の鼓膜をつんざいた。とおる先輩はそれで我に返ったのか「ちっ」とバツが悪そうに僕を放り投げる。


 ドベッと廊下にへばりつく僕の体。意外とこたえていたらしく立ち上がる事が出来ない。しかし同時に彼の信用も地に落ちた。きっと一ノ瀬さんの母親も話を聞いてくれるだろう。それならば名誉の負傷である。


「………とおる、君?」裏切者を見るような目でとおる先輩を見つめていた。


「………………」


「とおる君……いまのは、嘘、よね……?」


「…………ちっ」


「りつ君……血が出てる……」


 一ノ瀬さんが駆け寄ってきて僕の頬を撫でた。


「これだけで済むなら安いもんだよ」このあと手足を縛られて強姦されないのであればこんなもの………。僕は頭を撫でて言った。


「無茶しないでって……あたし………言ったもん………」


「うん、その予定だったんだけどねぇ……ちょっと殴られ過ぎたよねぇ」


「殴られ過ぎたね、じゃなぁい!」


 ぽろぽろ泣きながら声を荒げるとは忙しい人だ。一ノ瀬さんは僕の肩を掴むとガクガク揺らしながら「二度とこんな事するな! ばかばかばかばか!」と懸命に訴えかける。なんでこんな可愛い人が僕を選んでくれるのだろうとボンヤリ考えた。


「あぅあぅあぅ、傷に響くからやめて肩を離して………」


「誰のせいだよ! あんたは放っといたら何するか分からないのに離せるかぁ!」


「あいたたたたたた! 何もできないからさぁ!」


 というかもうする必要が無い。僕の望んだ結果はすでに得られた。あと一押しで母親はこちら側につくだろう。「無茶はもうしないよ!」と叫んだが、しかし僕の策略を欠片も知らない一ノ瀬さんは、


「ばか! ばか! ばか! ばか!」


 と髪を振り乱しながら僕を叩き始めた。ぽとぽとぽとと優しい拳が胸に落ちる。そこに優しさを見出すのは僕だけでは無いはずだ。


 僕は一ノ瀬さんに笑っていて欲しいと思う。


 けれど、とおる先輩を引き剥がすためには誰かが一ノ瀬さんの秘密を告げねばならない。


 警察に話し、とおる先輩の悪行をおおやけにすることで彼に引導を渡す事が出来る。それは同時に一ノ瀬さんの秘密を公にすることでもあった。


 とおる先輩は18になった。彼の誕生日が夏だという事は知っていたから8月まで安全な所にいようと思っていたけれど、誕生日を迎えたと言っていたからもう成人しているものと思われる。法律的には逮捕してもらえるだろう。たぶん。……いや、知らないけれど。そうあって欲しい。


 僕は一ノ瀬さんに嫌われる覚悟で糾弾しようと思う。


 唯一思い浮かんだ解決策が大切な人のトラウマを掘り返す事というのが、僕がダメ人間たる証拠であろう。ごめん一ノ瀬さん。君はもっと素晴らしい人と幸せに暮らしてくれ。


「コイツが誘拐犯だという事に変わりはない! 早く警察に連絡をしろ!」


 とおる先輩が声を荒げるが、しかし、虚しいだけであった。


 僕は一ノ瀬さんの手を借りて起き上がると痛みに耐えながら言った。


「警察に捕まるのはあんたの方ですよ、とおる先輩」


「あっ? どういう事だよ」


「あんたがやった事は全部分かってる。さっきのはハッタリでも何でもない!」


 僕は口を開いた。一ノ瀬さんはすべてを察したのか傷を飲み込むような表情をしたけれど、ここでやめてはいけない。


 裏切る事だけが心苦しかった。積み上げた物を自分で崩す事になる。それでも一ノ瀬さんを救えるのなら、未来の一ノ瀬さんが笑っているのなら後悔はなかった。


 その隣に僕がいなくたって構わない。


「あんたがやった事は許される事じゃない。警察に捕まって裁かれるべきはあんたの方だ!」


 悪者になる覚悟であった。


 こんな形でしか一ノ瀬さんを助けられない僕なんて嫌いになってくれればよい。そうしてもっと良い人の隣で笑っていて欲しい。そう思っていたのだけれど……


「話は聞かせてもらったわ!」と乱入者あり。


 救いの手は意外な所から伸びてくるのであった。

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