第49話


 僕がドアを開けると、その向こうには顔を真っ赤にしたとおる先輩の姿があった。カンカンに腹を立てているらしい。一ノ瀬さんの母親の前であるにも関わらず怒気をみなぎらせて僕に詰め寄ってきた。


「お前! まどかに何をした!」


「何と言われましても。助けを求めているようだったので助けただけですけど」


「白々しい! お前がさらったんだろ、おい! まさか手を出したんじゃないだろうな! 俺のまどかを傷物にしたら許さないぞ!」


 この余裕の無さは間違いなく小物である。2年早く生まれただけの男だと分かれば怖くもない。僕は平気だけれど一ノ瀬さんは平気なのだろうか。


「誰が、俺のまどかよ………」


 一ノ瀬さんは顔をしかめた。やはり平気ではなさそうだ。……とはいえ今のは発言の内容もあるだろうけど。とおる先輩は最低な男だと再認識した。


 僕は2人の間に立つと、「あなたがとおる先輩ですね」


 とおる先輩を睨みながら言った。


 2人は僕を敵視しているらしい。それならそれでよい。僕がやるべき事はとおる先輩を糾弾すること。変に好意的にこられるよりもずっとやりやすい。


「お前は四方山立だな。おい、退学になった誘拐犯が今さら何しに来たんだよ」


「まどか! 怒らないからこっちに来なさい!」


「……やだ」一ノ瀬さんは身を固くして言った。


「やだって……その子は怖い目に遭わせた張本人よ?」と母親が言う。「いいから言う事を聞きなさい!」


「そうだよ、まどか。聞けばそいつは親もいないそうじゃないか。それなのに強がって独り立ちしてる気になっている。自分の生活で手一杯でお前の事なんか構っている暇もない。俺なら寂しい思いをさせることもない。ずっとそばにいてやれる」


「私たちはあなたのためを想って言っているのよ。大人しく言う事を聞いてちょうだい!」


 とおる先輩と母親は口々に言う。


 かたや本気で心配し、かたやその気持ちを利用してこの場を誘導しようとしている。その差は誰が見ても明らかなのに本気で心配する人は気がつかないらしい。自分の気持ちを伝える事に精一杯で周りを見る余裕がないのだろう。とおる先輩が味方をしている事をむしろ頼りとして、縋っているようにも見えた。


「お願い、まどか!」


 その悲痛な叫びには一ノ瀬さんも心動かされて「あたし……どうしよう」と僕の腕を掴む。


「………………」


「……りつ君」


 不安そうな一ノ瀬さんの声。僕はただ「大丈夫だから」とだけ返した。


 僕の頭の中では皆が笑顔になれる未来が見えていた。とおる先輩のみを糾弾し一ノ瀬さんも一ノ瀬さんの母親も悲しませずに済む未来。そこへ辿り着くためには少々話を整理する必要がある。それぞれの思惑が絡まって錯綜するいま快刀乱麻を断つ事は出来ない。それは誰かが血を見る羽目になる。僕には考える時間が必要だった。


 ついに一ノ瀬さんの母が「警察に連絡しよう」と言い出した。


 一ノ瀬さんがサッと蒼ざめた。


「彼がやった事はれっきとした犯罪だもの。きっと目の前で逮捕されればまどかの考えは変わるわ」


「そうですね、それがいい」


「そ、それはダメ! りつ君が捕まったらあたし……」


「いまなら言い訳も聞いてやるけど、何かある?」


「ねえやめて! あたしからりつ君を奪わないで!」


 消え入りそうな悲鳴だった。一ノ瀬さんは悲劇的な未来で頭がいっぱいらしかった。彼女は良くも悪くも純真なラブコメ的ヒロインで、僕の頭の中で搦め手的策謀が走っている事には気が付いていないらしい。


 一ノ瀬さんはぷっくりした唇を震わせて「あたしがそっちに行けば……警察には言わないでくれる?」と、とんでもない事を言い出した。


「あたしが言う事を聞いたらりつ君の事は放っておいて。それでいいでしょう、ねえ!」


「一ノ瀬さん。それはいけない」


「なんでよ!」と一ノ瀬さんは怒った。「あたしはあなたを守りたいの……もう、こうするしかないじゃない……」


 何でもできそうと言っていた一ノ瀬さんはもう消えてしまっていた。


 とおる先輩には抗いがたいトラウマがある。安寧のために体を明け渡しても良いと言えるほどのトラウマ。それは心をくじくには充分すぎるほどの恐怖だろう。


 とおる先輩を糾弾する事は容易い。『いつもの』の件について問いただせばたちまち効果を発揮するものと思われる。が、それはいわば諸刃の剣であり、強すぎる言葉は時に毒となって僕達を苦しめる。


「こいつ、この期に及んでそんなデタラメを言いやがって!」


「とおる君がそんなことをするわけないでしょう!」


 僕と一ノ瀬さんの立場を悪くするだけの結果に終わる事は火を見るよりも明らかだった。そして2人に強く言われた一ノ瀬さんは真実を口にする勇気を起こせないように思う。僕は誘拐犯として検挙され家庭裁判所にかけられるであろう。そのとき伯父さんは味方をせず僕を連れ帰ろうとするだろう。


 読者諸賢には一ノ瀬さんを責めないでいただきたい。


 自身の恥ずかしい姿を他人に見られる事は精神的焼殺に等しい屈辱を覚えるものなのだ。僕を救う事はすなわち警察にすべてを打ち明ける事であり、それは彼女の見られたくない姿を多くの人間に見られるという事でもある。捜査と称して下着姿等を大勢に見られる屈辱。その心情は察するにあまりある。痴漢等の犯罪が横行するのは被害者が屈辱と恥ずかしさで警察に言い出せないからなのである。


 いまとおる先輩を糾弾すれば最悪の未来を避けられない。僕に考える時間が必要だ。一ノ瀬さんの母親を味方に付ける必要があるが、今の彼女はとおる先輩を信用しきっており、そのとおる先輩の信用を突き崩すためには一ノ瀬さんの汚点を赤裸々にせねばならない。知恵の輪のように絡み合った思惑をどう解きほぐしていくべきか考える時間が僕には必要だった。


「とおる先輩。あなたに一ノ瀬さんは渡さない」


 時間を稼ぎたい一心でそう言った。少しでもこの場を混乱させれば警察への通報を遅らせる事が出来るだろう。とおる先輩はやはり見た目だけのようで「なんだと!」と僕に掴みかかった。


「誘拐犯が調子にのるな!」


「僕が誘拐犯ならあんたは何です?」


「あ?」


「あんたは一ノ瀬さんの心を殺した殺人犯だ。尊厳と精神の人殺しだ! あんたなんかに一ノ瀬さんは渡さない!」


「誰が人殺しだって……? 法螺ほらを吹くしか能のない孤児みなしごめ!」


 僕はあえてボルテージが上がるように言った。こういう人は言葉よりも武力に頼る事が多い。きっとテンションが上がれば手を出すだろうと思った。


「適当な事ばっかり言ってんじゃねえ!」


 と言って、殴った。


 ほらね。

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