第48話


「……でも」


 一ノ瀬さんは僕の頬を両手で包み込むと、目じりを柔らかくして笑った。「大好き」


「……怒られると思った」


「怒ってるよ。めちゃくちゃ怒ってる」


「だよね」


 一ノ瀬さんが柔和な笑顔を崩す。僕は申し訳なくなって頭を掻いた。


「裏切られたって思ったし、教えて欲しかったって思うし、何より寂しかった」


「…………」


「でもね、そう思うたびに、抑えられないの…………甘えたいっていう気持ちが抑えられない」


「一ノ瀬さん?」


「どうしてだろう。あたし、りつ君と別れてからずっと情緒が不安定でさ、針が落ちた音にさえイラっとするくらい神経質だったのに、今はなんでか落ち着いている。雨雲が通り過ぎた空みたいに晴れやかな気分だよ。教えてくれなかった事とかもうどうでもいい。ただ、あたしを抱きしめて………」


「……それだけでいいの?」


 僕は背中に手を回す。すると僕が抱きしめるよりも早く抱き着いて僕を見つめた。


「いいよ。りつ君以外何もいらない。あたしのポッカリ空いた心をりつ君でいっぱいにして」


「なんか、エロい事をする前みたいだ」


「あたしを女にしてくれてもいいんだよ?」


「……そんな目で見ないでくれよ」


 一ノ瀬さんは僕を見つめた。その表情をなんと表現したらよいか僕は適切な言葉を持たない。……というのも僕は見つめ返す事が出来なかったからであるけれど、その顔を見ているとなぜだかドキドキしてきて、頭に血がのぼるようだったからだ。


 それは喜びの表情。細められた瞳の奥が僕を真正面から捉え、口元には上品な微笑を湛えている。これほど穢れのない笑顔は見たことが無い。この世のどんな宝石よりも清らかで澄んでいた。それなのに僕がドキドキしているのはきっと一ノ瀬さんの雰囲気がおかしいからだと思う。


 不思議と胸元に目がいく。そう誘導されているような雰囲気すらあった。『女』の顔とでも言えばよいのだろうか。思わず飲み込まれてしまうような女性のフェロモンが清らかな笑顔をみだらに感じさせているのだ。


 こんな状況じゃなかったら飲み込まれてしまいたい。


 僕はいささかの罪悪感を覚えながらも一ノ瀬さんの頭を抱き寄せて囁いた。「それは、いまじゃない」


 すると一ノ瀬さんも僕の耳元で「分かる。いまじゃない」と楽しそうに言った。


「僕達は……先にケリをつける事がある」


「えへへ、どうしてだろう。あたし今なら何でもできそう。きっと誰にも想像つかないようなすごい事!」


「うん、僕もそんな感じ。さっ、僕から離れて」


 慌てて手を離すと「うん!」と一ノ瀬さんもすぐに座りなおした。心臓に悪いフェロモンはもうなくなっていた。代わりに天真爛漫なニコニコ笑顔。


「りつ君ったら、すっごくドキドキしてたね。心臓の音が聞こえてきてあたしまでドキドキしちゃった」


「………………」


 きょとんとした女の子座りに無垢な笑顔で言われると、それはそれでエロいからやめてほしい。「一ノ瀬さんのせいだ」


「へへへ……りつ君にそう言わせたあたしすごい!」


「…………そういうのが嫌なんじゃなかったの」


 性的な目で見られる事に嫌悪感を抱いているとはなんだったのか。今の一ノ瀬さんはむしろ求めているように見える。僕がそれを指摘すると「んー」と人差し指を顎に当てて考える仕草をして、


「りつ君ならイヤじゃないもんっ」と怒るフリをした。


「何でもありか………」


 僕は閉口した。


 一ノ瀬さんは本当によく分からない。僕がどれだけ考えても心配しても常にその先にいるように思う。乙女心と秋の空とはよく言ったものだ。コロコロ姿を変えるから考えるだけ無駄なのだろう。一ノ瀬さんはそれを肯定するように「あたしは何でもありだっ」と開き直った。


「ま、いいや。気分を害していないならそれでいい」


「うん。そろそろ行かないとね」


 僕達はそろって玄関を見た。


 あの向こうには一ノ瀬さんの母親ととおる先輩がいる。


 いつまでも立てこもっているわけにはいかなかった。


「おい! ここを開けろ!」


 ドンドンドンとドアが叩かれ、とおる先輩が叫び散らす。近所迷惑甚だしい。


「いまならとおる先輩にだって負けない。りつ君が隣にいてくれたらなんでもできるよ」


「……そうだね。でも、僕に守らせてくれなきゃ困る」


 一ノ瀬さんは笑顔を浮かべていた。とても心強い笑顔だと思う。しかし僕はこの笑顔が簡単に陰る事を知っているし、簡単に折れてしまう事も知っている。だから僕はあの手この手で一ノ瀬さんを守らねばならない。一ノ瀬さんは強いように見えてとても繊細なのだから。


「うん。きっとあたしを守ってね」


 その笑顔の消えてしまいそうな事といったら春の夜の夢の如し。僕は力強く頷いて見せるとこう訊ねた。


「ときに、とおる先輩の誕生日はいつ?」


「なんでそんなことを訊くの?」


「とても大事な事だから」


「そうなの………? えっと、昨日だったかな」


 僕はどんな手を使っても一ノ瀬さんを守るのだ。


 卑怯と罵られたって構わない。


 搦め手だってなんだって、一ノ瀬さんの笑顔のためなら構わず使ってやる。

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