第46話
一ノ瀬さんは体に毒が回るように感じた。
とおる先輩は優しく抱きしめているように見えて全く違う。腰とお尻の曖昧な境に手を回し、小さな身体を堪能するように覆いかぶさった。
触れているところが腐っていくように感じられる。激しい嫌悪、軽蔑、腐乱臭のような囁き声に殺意さえ覚えた。こいつは体しか見ていないのだと改めて確信する。
一ノ瀬さんは吐き気を堪えるのに精一杯で逃げることができなかった。
「まどか。俺がずっとそばにいるから安心してくれ。俺はもうこの手を離さないから」
「………………」
「四方山ってやつも迷惑な男だな。まどかの気持ちを何も考えずに無理やり連れだして、散々迷惑をかけて退学か……ざまぁみろだ。俺のまどかに手を出して、結果自滅しやがった」
「そんなふうに言わないでよ……」
「なんだよ、あんなやつに気があるのか?」
とおる先輩は勝ちを確信しているのか、一ノ瀬さんの立場を分からせるようにねっとりとした言葉遣いであった。
僕の事を落として自分を上げようとしているのだろう。他と比べる事でしか自身を誇る事ができない小物っぷりが哀れですらあった。
聞く者の臓腑を逆撫でするようなおぞましい声音。
大きな手が背中を撫でつけるたびに鳥肌が立つ。
「やめて………やめてよ………」
「どうしたの? 四方山ってやつがそんなに怖かったのか? 俺が忘れさせてやるから安心して」
「違う………」
一ノ瀬さんは逃げ出そうと抵抗を試みるが、男の力には敵わない。
「やだ……痛いよ………」
「まどか。とおる君を困らせたらダメでしょう?」
「ママ……」
一ノ瀬さんの母親はとおる先輩に笑いかけて「ごめんなさい。この子ったらちょっと疲れているみたいで」
「そのようですね。俺はもう帰ります」
「2人でゆっくりさせてあげたかったのだけど、また来てくれるかしら?」
「この手を離すといなくなってしまいそうで怖いです」
「あらあら、情熱的ね」
そんなやり取りが一ノ瀬さんの意思を介さずに行われる。どうして誰も理解してくれないのだろうと一ノ瀬さんは怖くなった。
あたしの事は誰も見ていない。みんなあたしをモノみたいに扱うんだ。これは何も考えずに付き合ったお前への罰だ。と、見えない誰かに言われているように感じる一ノ瀬さん。
「なぁ、別れる前にキスをしてくれよ」
とおる先輩が一ノ瀬さんの顎をつまんで言う。
これは罰なのだ。と一ノ瀬さんは恐ろしく思った。
「……キス?」
「そうだよ。彼氏なんだから当然だろう?」
「まぁ、とおる君ったら」
「俺、まどかさんを本気で幸せにしたいんで。……な、いいだろう?」
一ノ瀬さんには答えられなかった。本心を言うなら断りたい。しかし、いろんな恐怖が一ノ瀬さんを縛り付けて、「嫌だ」と断る勇気を奪っていた。とおる先輩はその沈黙を肯定と捉えたらしい。
「好きだよ、まどか……」
と、とおる先輩は唇を厚ぼったくすぼめて目を閉じた。
猿みたいだと一ノ瀬さんは思った。
理性の欠片もない下品な顔。恥じらいも無く性欲のままに行動する下卑た男。そんな男の性欲が近づいてくる。一ノ瀬さんは「やだ……やだぁ……」と抵抗するが、とおる先輩の力が強くて逃げられない。
(嫌だ……嫌だ………嫌だ………こんな男とキスなんてしたくない。死にたい、口を削ぎ落したい。嫌だ……助けてりつ君………りつ君………!)
もう少しで唇が触れてしまう。
一ノ瀬さんの願いは天に届いたのはその時だった。
エレベーターが駆動して、中から一人の男の子が飛び出してくる。その見た目は平凡そのもので、高校デビューの事なんか考えられないくらい人生に疲れた顔。こんな男の子を好きになる女の子なんてご都合主義的ラブコメヒロインしかいないと思われる。が、その男の子と一ノ瀬さんの間には様々な事件があり、決してご都合主義ではない
その男の子こそ僕。四方山立である。
「一ノ瀬さん! 大丈夫!?」
僕はエレベーターを飛び出すとすぐさま一ノ瀬さんととおる先輩を引き剥がした。
「助けに来たよ!」
「あれ、りつ君!? なんで!?」
「それは後で話す! ひとまず逃げよう!」
僕は一ノ瀬さんの手を引っ張ったが、しかし一ノ瀬さんはふるふると首を振る。
「どうして。まさか僕の事が嫌いになったのか?」
「違う。逃げるならこっち」と、一ノ瀬さんは僕の家の方に足を進めた。
「僕の家? しかし鍵がないぞ」
僕が言うと一ノ瀬さんはニッコリほほ笑んで「えいっ」とドアノブを掴んで思い切り捻った。
するとどうだろう? 不思議な事にドアが開いたではないか。
「ほら入って、はやく!」
一ノ瀬さんに促されるままに僕は部屋へ入る。
呆気にとられているとおる先輩たちを拒絶するようにドアを閉めて施錠し、僕を部屋の奥へと引っ張って行った。
「これですぐには入ってこれないはず」
「……あの、一ノ瀬さん」
「なに?」
一ノ瀬さんはきょとんと首をかしげる。
「もしかして僕の家の鍵を盗んだのって………君?」
小海さんが言っていた事を覚えているだろうか。僕の家の鍵が無いから管理人が怒っていると。僕はここを後にする前に袋に入れてドアノブに掛けておいた。それなのに無くなっていると。その犯人に思い当たる節がなく、なんのために鍵を盗むのか皆目見当もつかなかったが、しかし、いま、役に立った。
一ノ瀬さんは僕の胸に飛び込むと「……てへっ」と笑って誤魔化した。
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