第45話


 マンションに着くころには夜の10時を回っていた。数日ぶりに見た街の明かりが一ノ瀬さんに安心感を与える。本当に帰ってきたのだなぁとぼんやり思っていると、マンションの入口に母親の姿が見えた。


 不安そうに辺りを見回して黄色い車を見つけるとパッと顔を上げる。そんな母親の姿を見たのは初めてのこと。一ノ瀬さんは(とんでもないことをした)と思い、今になって罪悪感が込み上げてきた。車から降りてリュックを背負うと重く感じられた。


「まどか……! 帰ってきたのね!」


「……………」


「もう……心配したんだから……」


 どうして今になってそんなことを言うのだろう。こんな時だけ都合が良い……。


(ママがもっとあたしのことを見てくれてたらこんなことにはならなかったんじゃないの。もっと心配してくれたら……)一ノ瀬さんはそんなことを思ったけれど、母親に抱きしめられるとすぐに寂しさが押し寄せてきて「ママぁ……ごめんなさい」と涙をこぼした。


「まどかが無事ならそれでいいのよ……怖くなかった?」


「うん……反省してます……」


「よしよし……」


 頭を撫でられて一ノ瀬さんは安心していた。


 一ノ瀬さんは両親に愛されていた。羨ましいと思う。


 迷子の子猫が親猫に甘えるように頭を摺り寄せる一ノ瀬さん。大切な人(僕の事である)を遠い所に一人残してきた罪悪感が胸を締め付けるのに甘える事をやめられなかった。


 ここに一ノ瀬さんは自身の矛盾を見て取った。


 母の胸に甘えたいと思うほどに弱い自分が嫌になった。いますぐ僕の元に行きたいと思うほどにここを離れたくなくなった。胸がギュウギュウ締め付けられながらも安心を求める事を心地よいと思った。


 気丈に振る舞っていた反動がきたのだ。今の一ノ瀬さんは小さな子供に返っていた。どれだけ自分を偽っても母の強さには勝てないのが子供である。僕だって両親がいたら甘えているだろうと思う。


 その矛盾を乗り越えて人は強くなるのだ。頑張れ一ノ瀬さん。


「ほら、帰ろう?」と母親が手を差し伸べる。一ノ瀬さんはコクリと頷いてその手を取った。


 小海さんが2人の背中を見送って車に戻る。


「これで良かったんだ。これで」と呟いて車のエンジンをかけたとき。トランクから物音がした。


     ☆☆☆


 さて、一ノ瀬さんは母と手を繋いでエレベーターに乗っていた。


「お父さんもずっと心配してたわよ。今日は帰ってこられないみたいだけど……でも、明日は久しぶりにご飯を食べに行きましょう。家族そろって食事なんていつぶりになるかしらね」


「……怒らないの?」


「どうして?」


 一ノ瀬さんは母親似らしい。笑うと下がる目じりがよく似ていた。


「だって、あたし、お父さんとお母さんに嘘をついたんだよ。電話とか全部無視しちゃったし……」


「いいのよ。こうして無事に帰ってきてくれたんだから。いまとなってはこれも人生経験よね。相手の子……四方山君と言ったかしら。親もいない子がまどかを幸せにできるとは思えない。帰ってきてくれて本当に良かったわ」


 なんて失礼な事を言うのだろう。


 ……とはいえ、僕は自分の事で精一杯だから反論は出来ない。バイトに明け暮れて授業もまともに受けない高校生なのだ。自分がその立場に置かれているのだから反感を抱くのであって、僕も両親がいる幸せな家庭で過ごしていたら彼女と同じ感想を抱くだろうと思われる。僕はその辺をしっかり理解しているのだから悲しくもなんともない。


「りつ君は良い人だよ……あんな人よりずっと」


 一ノ瀬さんはムッとして言ったが、母親は年頃の女の子らしいと言って笑った。


「そういえばとおる君が来てるわよ」


「……え?」


「まどかが帰って来るって教えてあげたらすぐに来たわ。よっぽど心配だったのね」


「………うそ」


 一ノ瀬さんの心がズキズキと軋んだ。いま一番会いたくないとおる先輩。家にいると知った途端、エレベーターが監獄のように感じられた。


「とおる君は頭も良いし運動もできるし、まどかの事を大切に思ってくれている。結婚するなら彼みたいな人にしなさい」


「……やだ、やだ、帰りたくない」


「まどか?」


「帰りたくない! あの人に会いたくない!」


 家族と再会して幸せだった気持ちが急激に冷えていく。家に帰りたくない。あの人に会いたくない。あの人に会ってしまったら、またあの日々が始まってしまう。それが心底恐ろしかった。


 手を強く引っ張ってエレベーター内にとどまろうとする一ノ瀬さん。しかし無情にもエレベーターは到着し、無機質な音を立ててドアが開く。


「会いたくないって……心配してくれたとおる君に失礼でしょう? さ、帰るわよ」


「嫌だ……! あの人に会うくらいならここから飛び降りてやる!」


「まどか! やめなさい!」


 一ノ瀬さんは激しく抵抗した。しかし子供の力には親に勝てず、ズルズルとエレベーターから引きずりだされてしまう。


「だってあの人はあたしの体しか見てないんだもん! ママなんか何も知らないくせに!」


「……まどか?」と男の声がした。外の騒ぎを聞きつけたのだろう。その人は一ノ瀬さんの家から飛び出してきた。


「まどか、まどかだよな!?」


「あ、とおる………先輩………」


「メッセージが返ってこないから心配したんだぞ! どこに行ってたんだ、まどか」


「………………」


 一ノ瀬さんがぴしりと固まる。それを無造作に抱きかかえて「帰ってきてくれてよかった」と囁く。


 誰あろう、にっくきとおる先輩であった。


 この人がいたから一ノ瀬さんは苦しみ、この人がいたから一ノ瀬さんは遠くへ逃げようと思い立った。この人がいなければ一ノ瀬さんはもっと幸せだったろう。


 どこへ逃げても、どれだけ遠くへ離れてもこの人からは逃げられないのだと、一ノ瀬さんは深く絶望した。


 しかしここでようやく僕が登場するのである。

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