第43話
「一ノ瀬さん……お父さんとお母さんに会いたくないの?」
小海さんは耐え切れずに口を開いた。両親よりも僕を大事にするような発言に思うところがあったのだろう。
一ノ瀬さんは「会いたいですけど……」と口ごもる。「でも、あたしはりつ君さえいればいい。パパもママも期待してるなんて無責任な言葉ばかりかけてあたしの事なんて見てくれてないんです。あたしの事を見てくれるのはりつ君だけなんです」
「そんなことは無いと思うけどなぁ。きっと一ノ瀬さんの事を大切に思っているはずだよ?」
小海さんは僕の悲しみをその目で見ている。あのときの僕が脳裏にチラついたのだろう。彼女にしては珍しく怒っていた。しかし一ノ瀬さんはそれに気づかずに激しい言葉をぶつける。
「2人はあたしの将来が大切なだけです。あたしの今を大切にしてくれるのはりつ君だけ! あたしの未来でもあたしの体でもない、あたしのありのままを大切にしてくれるのはりつ君なんです! パパよりもママよりもずっとずっと大切にしてくれる!」
「……本当に?」
「本当です! あたしはりつ君さえいればいいんです!」
「ご両親はいらない?」
「いらない! りつ君がいないなら誰もいらない!」
徐々にヒートアップしていく。顔を真っ赤にして激昂するさまはうら若い乙女そのものであった。給湯器が沸くかのごとく急激に怒り始めた一ノ瀬さん。そのテンションが頂点を迎えたところで、
「その言葉、四方山くんの前では言わないようにね」
「……………」
それを小海さんの一言が撃沈せしめた。
「アイツは両親を亡くしてるんだよ。大好きだった両親を。今の言葉をアイツが聞いてたらいくら一ノ瀬さんでも嫌いになってたと思う。アイツの事が好きならもう二度と言わないで上げて」
小海さんの声はドスが効いていた。ひどく怒ったときの彼女は声が低くなり聞く者の心臓を震え上がらせる。その声音はあの伯父さんでさえ蒼ざめるほどで、いきなり怒られた一ノ瀬さんの驚きは察するにあまりある。
「でも……だって………」
しかし一ノ瀬さんは退かなかった。
もう会えないのに。と一ノ瀬さんは言いたそうだった。
「だったら、あたしはどうしたらいいんですか………あたしだってこんな事を想いたくないのに、こんなひどい事を言いたいわけじゃないのに、抑えられないんですよ! そんなこと言うならどうしたらいいか教えてくださいよ!」
「冷静になりなさい。今は気が動転してるから苦しいだけ。少し休めば気分も晴れるわ」
「…………」
「気持ちは分かるわ……でもね、私の父を恨まないで欲しいの」
「どうしてですか」
一ノ瀬さんは伯父さんよりも世の中すべてを恨んでいた。自分を取り巻く運命がイジワルである事に腹を立てていた。
「私の父は四方山くんに強く当たる事が多くて昔から仲が悪かったんだけどね。それは全部アイツの事が心配だからなのよ」
「というと?」
だからどうしたと言いたげであった。
「四方山くんの母と私の父が兄妹なんだけどね、ある日杏香さんが……ああ、アイツのお母さんなんだけど、杏香さんが男の人を連れて帰ってきたの。2日くらい家を空けた後に突然帰ってきた杏香さんが紹介したのがアイツの父、修一さん。その時すでに杏香さんは身ごもっていて2人でこの子を育てるって聞かなかったらしいわ。杏香さんは四方山家に嫁入りして、以来うちとはほとんど交流が無かった」
「…………………」
「宵歌と立が家族の問題も知らずに仲良くなったもんだからなんとか交流が復活したけど、2人が出会わなかったら父も立には無関心だったでしょうね。私の父は妹を盗られた気がして辛かったの……分かる? できちゃった婚なのよ。アイツの親は。私の父は修一さんが不誠実な男に思えて仕方がなかった。でもその息子である立は愛する妹の子でもある。だから真面目な良い子に育ってほしくてアレコレと口出しして、白石楼のお手伝いをさせたりして面倒を見た。立は嫌だったろうけどね。全部父の優しさなのよ。それは分かって欲しい」
「不器用だったってことですか。伯父さんにとってりつ君は妹さんの忘れ形見。大切にしたいのについ厳しくしてしまう……とか? ああ、でも……」一ノ瀬さんはホッと息を吐いた。「りつ君もちゃんと守ってくれる人がいたんだ……」
しかし、
「そうだねぇ……」
小海さんはチラリと振り返ると小さく首を振った。「今回あなたたちがしたことは父にとってトラウマをほじくり返されるようなものだった。若い2人だけで逃げ出して帰ってくる頃にはもう自分の手が届かない場所にいってしまった後。だから縛り付けてでも手元に置いておきたいんだよ」
「……………」
「これは私たちの問題。巻き込んでおいて申し訳ないけれど、立の事は忘れて頂戴。父が意見を曲げる事は無いから」
甚だ迷惑な話である。あの人はいつだって勝手に首を突っ込んできて難癖をつけてきた。やれ言葉遣いが汚いだの、やれだらしがないだの、やれ態度が悪いだの。面倒くさい事この上ない。たしかに一時期は世話になったけれども、僕は一人で生きていくと決めたのだ。バイトもして、一人で暮らして、自立した一人の男として生きて行くと決めたのだ。
当然、一ノ瀬さんも面白くなかった。
「……なんですかそれ」
それは明らかな怒りを含んでいた。小海さんの言葉が一ノ瀬さんの負けん気に火をつけてしまった。いいぞ、やれやれ一ノ瀬さん。
「なんですかそれ。これはあたしたちの問題でもあります。いえ、むしろあたしたちの問題に小海先生たちが首を突っ込んできてるんです。りつ君は自分の人生を自分で決められる強さがある。勝手な理由でりつ君の人生を奪わないでください! あたしたちの自由を奪わないでください!」
「一ノ瀬さん」
「あたしもりつ君も子供じゃない。自分の事は自分で決める。都合の悪い時だけしゃしゃり出て来てめちゃくちゃにしないで!」
「一ノ瀬さん! 言って良い事と悪い事があるわよ!」
「じゃあ親戚で大人だったら何を言っても良いって事ですか!? ずっと放置してたくせにたまに怒ればそれで良いって事? 子供なんだからって言っておけばあたしたちが言う事を聞くとでも? 毎日夜遅くまで一人で残しておいても大人なら許されるんですか!? それであたしたちが何かしたら怒るんですか!? そんなの無責任じゃないですか!」
「一ノ瀬さん‼」
ついに小海さんが声を荒げた。
一ノ瀬さんの言葉は論点がずれ始めていた。きっと彼女にも事情があるのだろう。それは両親に抱えていた思いをぶちまけているかのようだった。僕は彼女に共感できない。僕の両親はとても面倒見の良い人たちだったから。
一ノ瀬さんがどんな苦労をしてきたのかは分からないけれど、大人だったら何をしても良いわけではないという意見には賛同する。伯父さんのやっている事はめちゃくちゃだ。親戚なんて血の繋がりの薄い他人である。彼の自由になるつもりは毛頭なかった。この時ばかりは小海さんも敵であった。
「一ノ瀬さん。大人だって悩みや苦労があるの。夜遅いのはきっとあなたのために働いているからよ。無責任なんて言わないであげて」
「……………」
小海さんは冷静に言った。とても大人びた的を射た意見だと思う。僕もそれには同意だけれど一ノ瀬さんが欲した言葉は違った。
(なんだか突き放されているみたい。りつ君ならこんなとき寄り添ってくれるのに……)
この時初めて、一ノ瀬さんは一人ぼっちになったのだと実感した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます