第31話


 それから僕達は家に帰って床に就いた。


 一ノ瀬さんは疲れていたようですぐ眠りについた。僕も疲れていたらしく布団に横になると体が泥のように重くなった。体力はあるほうだと思っていたけれど、長い1日に振り回されて消耗していたらしい。


 一ノ瀬さんの寝顔は子供のように安らかな寝顔だったが、こうして改めて見ると今日は緊張しっぱなしだった事がよく分かる。眉間にしわの痕が残っているし、強く結びっぱなしだった唇がプルプルと寒天のように震えている。まるで幼児のようなあどけなさは信頼の証なのだろうか。蠟燭ろうそくの炎さえも消せないような寝息を立てて一ノ瀬さんは眠っている。


 僕はそれを確認すると目を閉じて仰向けに寝た。


「……よかった。一ノ瀬さんの負担になっていないか心配だったけど。気持ちよさそうに眠ってる」


 明日からまた忙しくなる。僕の見立てによれば8月になれば万事解決するはずだ。あと1週間と少し。この短い期間で一ノ瀬さんの心の傷を癒し、追手から逃げ続ける(いるか分からないけれど……)。それが僕のなすべき事だ。


 幸せな今が怖いと言った一ノ瀬さん。僕達の現状は恵まれているとは言えないのに、いったい彼女の目には何が見えているのだろう。


 所持金は限られていて、家の中に食料は無く、電気やガスも使えない(メーターが回っていたら人が住んでいると分かってしまうため)。普通に考えれば幸せなわけがない。僕と一ノ瀬さんそれぞれの事情だってある。しかも簡単には解決できない事情同士。こんなことをしている場合ではないと言う僕がいる。それは言うならば理知的な眼鏡をかけた理性的な僕で、彼のいう事は正しい。


 逃げている場合ではないのはその通り。


 もう一人の純真な僕は逃げろと言う。


 一ノ瀬さんには時間が必要でありこの逃避行は正しいのだと言う。


 誰が一ノ瀬さんの味方なのか考えてみろ。いま彼女に寄り添う事ができるのは僕しかいない。しがらみだらけの現実から解放するために逃げたのではないのか? だったら迷う事はないだろう。一ノ瀬さんだって頼りにしているじゃないか。喜怒哀楽の激しいのは理性の仮面を脱ぎ捨てたからだ。あれこそが一ノ瀬さんの本心であり、それは僕を信頼しているからなのだ。そう言う。


 前に逃げた目的は二つあると書いたが、それはすべて後付けなのではないのかと思うときがある。僕はその二つを達成する事が正しいと信じているのだけど、それはただの言い訳にすぎないのかもしれない。高校生ゆえの全能感。この身一つでどんな事でも成し遂げられると信じてやまない未熟さがそう思わせるのかもしれない。


「……どうしたら君を幸せにできるのかな」


 僕は呟いた。


 現状がどうであれ、どんな目的を持っていたって、一ノ瀬さんが幸せでなければ意味がない。


 どんなに苦しくても一ノ瀬さんが幸せであればそれでよいと思うし、


 二つの目的を達成できても一ノ瀬さんが幸せじゃ無ければ意味が無いと思う。


 信念や目的なんて言葉で飾り付けても空回りしたら虚しいだけだ。


「……もう寝よう。こんな埃っぽいところで考えてるからじめじめした事ばかり浮かんでくるんだ。明日は掃除をしなければな」


 僕はすぐ眠りに落ちた。


 ……そのすぐあと。ふいに目を開けた一ノ瀬さんがぽつりと呟いた言葉。


「……本当にばか。あなたがいれば他に何もいらないのに」


 頭を撫でながらそう呟いたけれど、残念ながら僕の知るよしもない事である。


 起きていればよかったと後悔しても後の祭りだ。


 幾度もすれ違っていた僕達だけど、このときばかりはすれ違うべきではなかった。


 僕達の逃避行はすぐに終わってしまった。


 本音で話し合える時間は、いましかなかったのだから。

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