第30話


「やっぱり、りつ君も理解してくれないんだ」


 一ノ瀬さんはそう言ってきびすを返した。


 迷っている時間は無い。


 僕は「待って!」と大きな声を出した。


「僕の話を聞いてくれ! ……待って、行かないで!」


「……………」


「僕は一ノ瀬さんの事が嫌いになったわけじゃない。……ただ」


「……ただ、なに?」


 振り返らなかった。「なに?」と聞き返す声は不機嫌で、言葉を間違えたら二度と話すつもりは無いと突っぱねるような怒りがフンダンに含まれている。けれど立ち止まってくれただけ良い。


 僕は思いのたけを吐き出した。


「正直に言うと、いまの一ノ瀬さんの方が好きなんだ。こんな事を言うと変に思われるかもしれないけど……さっきの告白を聞いて、より好きになった。きれいに見られたいって気持ちは分かるし、コンプレックスを抱える辛さも分かる。でも、それを告白する一ノ瀬さんの姿は……なんていうか、とても美しかった。きれいなだけじゃない一ノ瀬さんを知って、より好きになったよ」


 こんな事を言ったら変に思われるというのは分かっている。君の面倒くさい所が好きだなんて言われて喜ぶ人がいるだろうか? いや、いるわけがない。僕の選んだ道が誤りである事は分かっていた。


 だけど止まる事も出来なかった。


「治したいと言ってるものを好きと言われたって困るだろうけれど、でも、僕はそこも好きなんだよ。一ノ瀬さんは我慢しすぎだ。もっと怒っていいし、もっと迷惑をかけてもいい。もっと見せて欲しいとさえ思う」


「……なにそれ」


「変だよな、僕。分かってるよ。一ノ瀬さんだって良い所を褒める人の方が嬉しいに決まってるよね。でも、僕には悪い所の方が魅力的に見えてしまうんだ。一ノ瀬さんが清楚すぎるゆえに、ワガママなところが、怒りっぽいところが可愛く見えてしまうんだよ。ごめん。変なヤツで、ごめん」


「………………」


 僕は頭を下げた。


 これで嫌われたらもうできる事はない。


 女性と付き合った経験が無ければ、そもそも女性が苦手なのだ。女の子を慰める方法なんて知らない。知るよしもない。


 思った事を正直に言うしか、僕にできる事は無かった。


「……本当に変なヤツ」


「………もし愛想を尽かしたのなら帰りの電車代を出すよ。僕がぜんぶ罪を被るから、一ノ瀬さんは帰っていつも通りの日常に戻ってほしい」


「………なんでそんなこと言うの?」


「え……」


「ねえ、あたしの顔、どう見える?」


 一ノ瀬さんがしゃがんで上目遣いに僕を見た。頭を下げていた所にいきなり一ノ瀬さんの顔が現れたからビックリしたし、その表情にさらに驚いた。


「えっと……泣いてる?」


 大粒の涙をこぼしていた。けれど目は険しくひそめられ、口元はもどかしそうに震えている。


 僕が頭を上げると、一緒に立ち上がってジッと見つめてくる。


「泣いているようにも、怒ってるようにも、嫌われてるようにも見えるけど、ちょっと嬉しそう……」


「なにそれ。あたしは怒ってるの。なによ、愛想を尽かしたなら帰っていいとか。ずっと一緒って言ったじゃん。2人でいようって言ったじゃん。あたしの事を大事にするって言ったのは嘘だったの? あたし、絶対に帰らないからね」


「一ノ瀬さん……」


「りつ君の言葉、ぜんぶ嬉しいよ。でも、綺麗な所をいっぱい見て欲しい。悪い所を受け入れて欲しいけど、良い所ばっかり褒めて欲しい。でも良い所だけ褒めるのは嫌。ねえ、この感情をどうしたらいいのよ。頑張って隠してたのに、そんなにすんなり受け入れられたらどうしていいかわからないじゃん!」


「えっと………」


「ねえ、あたしはなんのために頑張ってたのよ! こんなぐちゃぐちゃな気持ちにさせて……責任取ってよね!」


 なんで怒られているのか僕には分からなかった。一人で帰ってという弱気な発言を咎められたけれど、本当に怒っている理由が別にある気がする。


「僕でいいなら、とるよ」


 僕は嫌われる覚悟で思いのたけを吐き出した。それは受け止めてくれたように見える。でも、だから怒られる理由が分からなかった。


 一ノ瀬さんが寂しそうに俯く。その理由も………


「……だから、素直過ぎるよ。あたし、本当に情緒不安定だし、めんどくさいし、ワガママだよ。それでもいいの?」


「いいよ。それが一ノ瀬さんのありのままなら」


 僕はしっかりと答えた。一ノ瀬さんの目を見て、ちゃんと気持ちが伝わるように答えて見せた。するといきなり抱き着いてきて「寂しい……」と弱々しい声で呟いたではないか。


「……寂しい。嬉しいのに、すっごくドキドキしてるのに、りつ君が好きって気持ちでいっぱいなのに、幸せな気持ちで心が満たされているはずなのに、寂しい。幸せな気持ちと同じくらい寂しい。胸の裏側がすかすかになってる気がする……寂しいよ……」


 たしかに難しい人だ。さっきまで怒っていたのに今度は寂しいだなんて。


 明らかに僕の許容範囲を超えている。


 女性の繊細な心の機微きびを僕にどうしろというのだ。


「抱きしめたら、治る?」と訊きながら僕は背中に手を回した。


「……治らない。どんどん寂しくなる。怖いよ。幸せすぎて怖い」


 今度は怖いときたか……


「だって、ここへ連れて来てくれたのもあたしのためなんだよね。りつ君がしてくれることが全部特別なんだもん。あたしが欲しい言葉をくれる。幸せでいっぱいだから失いたくない」


「そういうことか。なら、大丈夫だよ。僕はどこにも行かないから」


「もしどこかに行ったら……?」


「………………」


「あたし怖いよ……こんなに幸せでいいのかな…………」


 一ノ瀬さんの声は溶けたチョコレートのように甘かった。恋に濡れた瞳。さくらんぼのような頬。寂しい寂しいと言いながら、いまは幸せいっぱいのように見えた。


 僕は一ノ瀬さんを幸せにするためにここへ来た。


 不安にさせたり、怖がらせるために来たわけではない。


 どうすれば一ノ瀬さんを幸せにできるのか分からないけれど、やっぱり思いのたけを伝える事が大切だと思う。


 僕は安心してほしくて「好きだよ」と伝えた。


 それが僕にできる精一杯だから。


 すると一ノ瀬さんは「ひぁっ」と可愛い悲鳴をあげて、


「……あたしも」


 そう呟いて、頭を預けてくるのだった。

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