第29話


 さて、白石楼でいただいたまかないを食べた僕達は家の裏の山道を歩いていた。僕が一ノ瀬さんに見せたいと思っているものはこの先にあった。


 時刻は夜9時を回ったところ。虫が鳴き、こずえの擦れる森の音、イタチが草をかき分け走り、幽霊みたいな鳥の声。


 これぞ田舎の夏。それはあたかも天然の雅楽ががくであった。


 田舎には街灯が無い。ビルも無い。真っ暗な宵闇を照らすのは月明かりのみである。目を開けていても真っ暗だから、自然と聴覚が鋭くなって、それらの夏の音がよく聞こえた。


「一ノ瀬さん、寒くない?」


「それはなに。お化け的な意味? それとも夜風が寒いかってこと? だったら怖くて背筋が凍るようだけど……」


 一ノ瀬さんはそれらの音が鳴るたびに驚いていた。肝試しをしているわけでもないのに何が怖いのか。僕の手をしっかり握って、虫が鳴けば「ひゃあ!」と飛び上がり、鳥が飛び立てば「みぎゃあ!」と抱き着き、動物が走れば「むりむりむりむりむりむり!」と走って逃げようとした。そんなだからいつの間にか僕の右手は一ノ瀬さんの体が包んでいた。


「一ノ瀬さん……そんなに怖い?」


「はぁ!? こここ怖くないし!」


「なら、僕の腕を解放してくれると助かるのだけど」


「…………変なこと考えてないでしょうね」


 僕の腕を抱きしめている事にようやく気付いたらしい。一ノ瀬さんがパッと離れてジロリと睨んだ。何もしていないのに心外だ。


 そこへ鳥がぎゃあぎゃあ鳴きながら飛び立った。


「ぎゃあ!」


 今度は固まってしまったので、仕方なく背中から手を回して一ノ瀬さんの右手を取った。これなら怒られないだろう。


「ほら、近くにいるから。一緒に行こう」


「………なんでりつ君は平気なのよ」


 僕達は家にあった懐中電灯を持って山道を進んだ。昔はそこで水を汲んでいたのだろう。踏み固められた道を目じるしに僕達はずんずん歩いた。


 狭い山道を歩いて数分。目的の場所はすぐに見えてきた。


 視界が突然開けて、かすかな月明かりが大きな崖を照らし出す。崖の上には木が生い茂っていて小さな森のよう。懐中電灯で照らすと岩肌がキラキラ反射する。それは小さな滝だった。崖上から染み出した清水が崖を伝って小さな川を作っているのである。


「なにここ……きゃっ、足元が濡れてる」


「うん。小さな滝が流れてるんだよ。ここが川の源流。水場が近いから涼しいでしょ?」


「……これを見せたかったの?」


 信じられないというような目で一ノ瀬さんが僕を見上げる。もっとロマンチックなものを期待していた顔だが、これも充分神秘的だと思う。


「これでも?」


 僕は懐中電灯を消した。


 この時間はちょうど崖の反対側に月が昇っている。灯りを消したことで光源が月明かりのみになり、まるで宝石のようなキラキラが岩肌を流れるのである。本当に見せたかったのはこの滝に反射する月の光だった。


 僕は嫌な事があった時や一人になりたい時はいつもここを訪れていた。誰だって辛い事があった日や頑張った日はご褒美を欲するだろう。ちょっと高いご飯。ちょっと贅沢な買い物。良い物に触れて疲れを癒そうとするのが人間だと思う。僕の場合はこの眺めだった。


 小学生の時分はここが特別な場所だと信じて疑わなかった。春には桜が鮮やかに咲き誇り、秋は遠くの山に見える紅葉が見事である。冬になると雪が積もって氷の壁が出来上がる。この滝は1年を通して特別な場所であった。


 ここならきっと一ノ瀬さんの心にも響くはず。良い物に触れて疲れた心も癒えるはず。そう思って連れて来たのだけど……もしかしたら失敗だったかもしれない。


 昔は特別だと思っていたけれど、都会に出てネオンの眩しさを知ってしまったせいか、滝に反射する光がちっぽけに見えた。こんな地味な光景では一ノ瀬さんが飽きてしまうかもしれない。


 しかし一ノ瀬さんは小さな口を開けて「わぁ……」ともらした。


 この感受性の豊かさ。僕は不安だったけどホッとした。


「綺麗でしょ。これは夏の間が一番綺麗に見えるんだ。後ろを振り返れば町の灯りが一望できるし、足元の小川にも月の灯りが反射して………」


「………きれい」


「聞いてない。……まあ、いいか」


 僕は一ノ瀬さんの手を離した。すると彼女は夢に浮かされたように歩き出して滝に手を伸ばす。「……冷たい」


「そりゃ湧水だからね。何してるの?」


「このキラキラに洗い流してもらったらきれいになれるかな……って」


「なんだそりゃ」


 僕は思わず笑ってしまった。


 一ノ瀬さんの目は岩壁の光が反射して天の川のようである。思い詰めたように語るその言葉は夢のように儚い。


 月明かりがスポットライトのようだった。


 僕は思わず見とれてしまった。


「なんだか変だよね、あたし。ここに来てからずっと怒ったりワガママ言ったり、迷惑をかけてばかりだった。りつ君が心配してくれてるのは分かってるのにさ。なんて面倒なヤツなんだろうって、自分が嫌いになった。こんなあたしなんて流れてしまえばいい」


「……………」


「りつ君。あたし、面倒くさいよね」


 一ノ瀬さんはそう言って振り返った。


「そうかな。旅の疲れが溜まってるんだと思うけど」


「んーん。あたしっていつもこうなんだ。平気なフリして心の中では嫌な事ばかり言ってる。きれいなのは見た目だけだよ。心の中は真っ黒だもん。だから、このキラキラに洗い流して欲しいなって思うの。りつ君だってきれいなあたしの方がいいでしょ?」


 そう言って首をかしげる仕草は、申し訳ないけれど美しかった。


 アイドル的存在の一ノ瀬さんが己の腹黒さを告白している。美人で気配り上手がゆえの悩みに苦しむその姿に、本当に申し訳ないけれどときめいてしまったのだ。


 一ノ瀬さんが治したいと思っているところを好きだと感じてしまった。それははたして正しいのだろうか? 僕は一ノ瀬さんの心の傷を癒そうと思ってここへ来た。それなのに治さなくて良いと伝えるのは本末転倒ではないのだろうか。


 連日の出来事に疲れて、年上の彼氏に辱められて、積もり積もった心労が己を黒く見せているのではないのだろうか。


 僕は、本当の一ノ瀬さんは明るいと思っている。疲れが癒えたら黒い所も自然と消えるのではないかと思っている。


「あたし、りつ君が思ってるほど清楚じゃないよ。アイドルでもない。心の中で悪口ばかり言ってる嫌な女の子。ねえ、こんなあたしなんて嫌いだよね」


 一ノ瀬さんのその声音は不安そうでもあり、甘えているようでもあった。表情もそうだ。自分を卑下しているようには見えないが、開き直っている様子もない。その複雑な様子をどう解釈したら良いのだろう?


「……………」


「やっぱり、嫌いだよね」


 僕は何と答えたら良いのか分からなかった。


 しかし沈黙している時間は無い。


 僕の沈黙を見た一ノ瀬さんが、明確に傷ついた様子を見せたからだ。


 おそらく肯定の沈黙と捉えたのだろう。俯いて、振り絞るような声で「やっぱり……」と呟いた。


 きびすを返して走り去ろうとする。


 その背中に僕は……

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