第28話


「ねえ、もうずっとこっちにいるの?」


 僕が掃除用具を片付けているとふいに宵歌が言った。


 太ももの間に置いた両手をギュッと握り、心なしか声のトーンが低い。何気なく訊いたふうを装っているけれど、どこか寂しそうな様子がある。


 入佐高校に進学する時に一番引き留めてきたのが宵歌だった。親戚ということもあってか田植えやお盆や年末年始などのイベントは常に一緒に過ごしたし、学校でも一緒に過ごす事が多かったように思う。だからこそ寂しかったのだろう。出発前夜などは僕の部屋に乗り込んできて「寂しくない?」とか「明日から離れて暮らすんだね」とか言っていつまでも居座った。


 その時と同じ表情をしていた。


「少なくとも8月まではいたいかなー……っていうか、いつまでいるかは僕に決められる事ではないけど」


 長くいる事は出来ないと思う。


 警察に見つかるとか、伯父さんたちに見つかるとか、僕達の逃避行は簡単に終わってしまう。とにかく誰かに見つかるとその時点で連れ戻されるし、小海さんの入れ知恵でここが捜索される可能性は極めて高いと思われる。結末はそうなるとしても、少しでも長い時間を逃げたいと僕は思う。一ノ瀬さんの心の傷が癒えるまではせめて捕まりたくない。


「なんで? いたいならいつまでもいればいいじゃん」


「全人類みんなが宵歌だったらいつまでもここにいるだろうさ。でもね……」


「……分かってるよ。これは宵歌とりつだけの秘密。誰にも言わないから安心して」


「うん。宵歌がいて本当に良かったよ。ありがとう」


「……………」


 宵歌はこの言葉に喜んだけれど、内心こうも思った。


(それって、宵歌のことをただの協力者としてしか見てないってこと? 黙って協力してくれる都合の良い女って事だよね。りつは宵歌がいるから帰ってきたんじゃなくて、一ノ瀬さんのためにここに来た。宵歌の気持ちは全部搾取されるんだ。きっと助けてもらって当たり前だって思ってるんだ……)


 それが宵歌には悔しかった。ずっと幼馴染や従兄妹として見られるばかりで、その立場を抜け出したいと思っていた。しかしもがけばもがくほど深く沼にハマっていき、もう抜け出せない所まできてしまった。


 すこし過去の話をすると、僕があの女性ひとに襲われたのが中学1年生の夏。白石楼のお手伝いをしている時だった。まだ日の明るい夕方の事で、その女性は酔っていた。シーツを取り換えて欲しいというので交換に向かうとそのまま手足を掴まれて逃げられないように縛られた。それを助けてくれたのが宵歌だ。


 僕が女性嫌いだという話はしたと思うけれど本当に怖かったのだ。獣に襲われているのかと思ったくらいだ。


 それからの僕は女性が怖くなって、中3には両親が亡くなって、正直、恋愛をしている場合では無かったのだ。


 宵歌は幼馴染の関係から抜け出したいとアレコレ世話してくれたけれど、僕には逆効果だった。恋情ではなく深い友情を抱いた。性欲を汚い物として感じる性格はこの時に形成されたのだろう。そんな汚い物を宵歌に抱けるわけがなかった。


「……僕がここを選んだのはきっと、宵歌がいたからだろう」


「……ふぅん」


「僕は飯芽町が嫌いだし二度と帰りたくないと思っていたけど、それでもここを選んだのは宵歌がいるからだと思う。安心感というか、温かさというか、そういうものを宵歌がくれたから僕は立ち直る事ができた。それを一ノ瀬さんにも感じて欲しかったのかもしれない」


「………………」


「……と、これで掃除は終わりだな」


 僕は掃除用具を片付ける。


 宵歌は複雑そうな顔をして俯いていた。


 誤解なきように言っておくけど、僕は本当に無意識にここを選んだのだ。その理由を自分なりに考えて、宵歌がいたから今の僕がいて、恋や愛よりも固く清らかな絆を感じていると伝えたかったのだけど、彼女の心に届かなかったのは仕方のない事だと思う。


 僕の話を聞いて、やっぱり自分は搾取されているんだと感じるのは仕方のない事だ。


 宵歌の恋慕に気づかない僕が彼女をフォローできない事も、仕方のない事だと思う。


     ☆☆☆


 宵歌は第2浴場でのやり取りを思い出して深いため息をついた。


「宵歌だっているのに……りつのばか、ばか、ばか!」


 宵歌の胸中は黒く苦いモヤモヤで満たされていた。

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