第27話


 旅館を出た僕達は家を目指して歩いている。一緒に入ると騒いでいた一ノ瀬さんも温かいお湯に浸かってスッキリしたのか晴れやかな表情をしていた。暗い山道を照らすような笑顔。「気持ちよかったね」とシャンプーの香りを振りまいて僕を見上げ、ギュッと手を握ってのんびり歩いた。


「どう、スッキリした?」


「うんっ。生まれ変わった気分!」


 本当に人が変わったような笑顔だった。ここへ来てからどこか機嫌が悪かったが今は憑き物が落ちたような顔つきをしている。親元を離れ遠くへ来た不安がそうさせるのだろう。一ノ瀬さんの不安定な情緒はこの逃亡に起因するものと思われる。


「そっか」


 僕は一ノ瀬さんの明るさに救われているけれど、僕は一ノ瀬さんの救いになっているのだろうか? 一ノ瀬さんの苦しみをきちんと汲み取る事が出来ているのだろうか。


 急に不安になってきた。


 僕は勢いのままに逃げようと口にしたが、この時間をただの青春的迷走のままにしておくつもりは無かった。


 僕がこの逃避行で成し遂げたい事は二つある。その一つは一ノ瀬さんの心の傷を癒す事だった。


 このままで良いのか? このままでは一ノ瀬さんの傷を広げているだけではないのか?


「それにさ。美味しそうなオムライスまで貰っちゃったし、早く帰って食べようよ!」


 一ノ瀬さんは得意げに手に持ったプラ袋を持ち上げて見せる。厨房のまかないらしいが、白石楼のまかないは普通にメニューに入れても良いくらいの出来栄えを誇る。僕も早く食べたいと思っているけれど、一ノ瀬さんの笑顔にはどこか影を感じてしまうのだ。


 不安な心を隠すための笑顔にしか、僕には見えないのだ。


「一ノ瀬さん」


「ん、どしたの?」


 しかし、それを聞きだす事は困難を極めた。


「何か辛い事ある?」と訊いたとしよう。すると一ノ瀬さんは涼しい顔して「何もないよ」と答えるだろう。これはダメだ。


 ちょっと踏み込んで「我慢している事があったらいつでも言ってよ」と言ったとしよう。すると一ノ瀬さんは小首をかしげて「うん。いつも頼りにしているよ」と逆に気を遣われるだろう。これはダメだ。


 いっそのこと「君の泣いている所が見たくなった」と言ったとしよう。すると一ノ瀬さんはクスッと吹き出して「なぁに? 急にかっこつけちゃって。どうしたの?」と心配されるだろう。これはダメだ。しかも気持ち悪い。


 一ノ瀬さんは本心を隠す事にかけては僕の想像を超える。どんなに辛い事があっても人前では何事もないような顔を作り、胸の奥で起こる荒波の片鱗さえも感じさせない。実際、僕は一ノ瀬さんの苦しみに気づくことができなかった。とおる先輩からのラインが無ければいまだに見抜けていないと思う。


 名も知らぬ先輩に襲われかけた時だってクラスメイトには何も言わなかった一ノ瀬さんだ。いま僕が口にしようとしている言葉は僕の軽蔑するクラスメイトたちと何ら変わらないのだ。一ノ瀬さんにとって聞き慣れた言葉の一つに過ぎないのである。そのような有象無象に成り下がるつもりなど毛頭ないが、しかし、僕が持っているのはなしのつぶてばかり。


「あのさ……」


「うん。なに?」


「あの………」


 僕は悩んだすえに、「これを食べたあとで散歩しない?」


「いいよ。自然が素敵なところだもの。家にいてばかりじゃもったいないと思ってたんだ」


「ならよかった。どうしても見せたいところがあるんだ」


「わぁ……楽しみ!」


「うん。きっと気に入ると思うよ」


「そんなに? じゃ、早く行こう!」


 一ノ瀬さんが歩き出した。その爛漫らんまんの笑顔。心が痛むくらい染みる純朴さ。あれで本心を隠していると分かっているから、より辛かった。


 僕は悩んだすえに、逃げたのだ。


     ☆☆☆


『そっちにりつはいた?』


『いなかったよ』


『そう。ならいいんだけど』


『なんでそんなこと訊くの? 夏休みに帰ってくるかって話なら、りつに直接訊いたらいいのに』


『ううん、なんでもないの。いないなら大丈夫。私も夏休みは帰るからね』


『やった! お土産!』


『姉よりもお土産が大切か! まぁいいけど』


 旅館のお手伝いが終わった午後10時。宵歌が課題を解いていると姉からラインが来た。


 小海さんはいつもどおりだった。妹に余計な心配をかけないようにするためか、それ以上は何も言わなかった。最初に僕の居場所を訊ねて以来敢えて話題に出さないようにしているのかもしれない。その空気は宵歌にも伝わっていた。


「もちろん姉さんと会えるのも楽しみだよ。いっぱいお話しようね……と、送信」


 姉とのラインを締めくくるとため息をついて「なに迷惑かけてんだよ……りつのバカ」


 スマホをしまった。


 姉の言葉がすべてが空元気であるように宵歌には見えた。僕と一ノ瀬さんの事が心配でたまらなくて、でも妹にこれ以上心配をかけたくないという気遣いが見てとれた。


「あの一ノ瀬さんって子がそんなに大事なの? いろんな人に迷惑をかけてまで……宵歌も姉さんも味方なのに」


 僕は色んな人に迷惑をかけて入佐高校に行った。あのときは伯父さんと毎日大喧嘩して大変だった。宵歌にも小海さんにもとんでもない迷惑をかけてまでここを離れたのに、すぐに帰ってきた。しかも一ノ瀬さんのために。


 宵歌はそれが自分のためではない事が悔しかった。


「あんなに一緒だったのに……」


 無心で課題を解き進めた。


「一ノ瀬まどか……イヤだなぁ」


 考える事は一ノ瀬さんの事ばかり。あの品の良い笑顔を思い出すたびに毒に蝕まれるような不快感が脳髄のうずいにほとばしる。


 一ノ瀬さんの良い所は宵歌も薄々理解していた。あの均整の取れたスタイル。整った容姿。着飾らない言動。あの人は誰が見ても可愛いと感じるアイドルなのだ。


 忘れよう忘れようとペンを走らせて頭の中をからっぽにするほど、その毒は巡り巡って脳内を満たした。


 自分が薄汚れた人間であると突きつけられるあの眩しさが宵歌は嫌いだった。


「………ああもう! ぜんぜん集中できない!」


 宵歌は自分でも分からないくらい苛立っていた。


「8月になるまで隠してくれなんて………なんなのよそれ」


 それは浴場で話していた時に僕が伝えたのだった。

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