第26話


「じゃ、女湯はここだから。あがったらまた第2浴場まで来てくれる?」


 白石楼の第1浴場は2階にある。露天風呂や岩風呂などが無いかわりに壁一面に貼られた大きなガラス窓から飯芽町を一望できる。晴れた日には遠景に山々を望み、日本の原風景のような街並みに人は心洗われる。そこに目をつけた町の観光協会が川沿いにライトアップなぞをし、純朴な田舎の風景がLEDによってあられもなく彩られた姿を人は素敵と感動するのだ。信じられない。


 一ノ瀬さんはそんな景色には目もくれず「ただの大浴場だ……」としょんぼりした。


「お会計は……そうだなぁ。お財布を持ってきてないだろうから、後でお家までもらいに行くね」


「……ねえ、あっちの方がいいんだけど」


 言外に施設がしょぼいと言っている。たしかに昔からある施設に付けたしながら拡張していった第2浴場の方が豪華だけど、僕のためにも我慢して欲しいと思う。ぶかぶかの水着を着た一ノ瀬さんは想像するだけでまずい。男的な意味でまずい。ゆえにここは一ノ瀬さんに涙を呑んで欲しいと思う。


「ダメよ。お客様を通すんだからちゃんとしたほうじゃないと怒られてしまいます」


「でも、なんだか普通というかつまらないというか……」


「りつがいないから?」


「それもあるけどさぁ……」


 一ノ瀬さんは渋々認めるが、僕は絶対に嘘だと思う。この人は高い風呂で気兼ねなくはしゃぎたいだけだ。


 一ノ瀬さんは子供である事を隠したいのか「まあ、いいけど」とため息をついて服を脱ぎ始めた。


「ねえ、りつ君の事お願いね」


「改まって、どうしたの」


「だって、疲れが溜まってるはずだもの。昨日からの長旅で、あたしのワガママも全部聞いてくれて、きっとくたくた。幼馴染の小海さんにしか言えない事もあると思うから。りつ君の力になってあげてください」


 なんと、一ノ瀬さんも僕の事を案じてくれていたらしい。文言までほとんど同じだと運命を感じてしまうけれど、たぶん、そこに僕がいないから素直になったのだろう。


「なんだかね、あたし、りつ君に素直になれなくなってしまったの。どんなにささいな言葉にも感情が動いてしまって、我慢できなくて………」


 本当に苦しそうな声だった。


「馬鹿だなぁ……あたし」


 ブラのホックを外しながらため息をついた。そのため息にはきっと多くのフェロモンが含まれている事だろう。高校1年生が醸し出してよい色気ではないように思う。あらゆる所作が美しい一ノ瀬さんはため息すらも煽情的だった。


「自分でも分からないんだけど、たまに、本当にりつ君にイラっとする時がある。心配してくれてるって分かっているのに、だったらなんで! って思っちゃうときがあって……あたしじゃ、りつ君の相談に乗れないと思うから……」


「…………」


「ね、宵歌さん。お願いできる?」


 形の良い胸を惜しげもなくさらして、一ノ瀬さんは肩越しに宵歌を振り返った。


「知るか!」と宵歌は思ったけれど、一ノ瀬さんの真摯しんしな対応に驚いたからなのか口には出さなかった。代わりに「本当に好きなんだね……」と呟く。


「好きだよ。好きだから、いまは身を引くべきだって思ってる。小海さん。お願い」


「……言われなくたって、宵歌もりつが好きだもん」


「そっか……」


     ☆☆☆


 宵歌が戻ってくるころ。僕は体を洗い終えてのんびり掃除をしていた。定期的に掃除をしているおかげか目立つ汚れは無い。浴槽も綺麗なものだ。掃除用具は脱衣所にあるので借りているが、床の拭き掃除くらいしかする事が無いのではないか。


「あれ、りつ? なにしてるの?」


 宵歌が戻ってくる頃にはほとんど終わっているくらい、掃除する場所が無かった。


「せめて恩返しをと思ってね。一ノ瀬さんだけ入れてもらうつもりが僕まで世話になってしまったから。……と言っても、ほとんど何もしてないけど」


 すると慌てた様子で宵歌が駆け寄ってきた。僕としては掃除を終わらせてしまいたかったのだが、宵歌は変な所で真面目なのでこれ以上は逆に怒られてしまう。


「いやいやもうやめて! もう充分です! りつは休んでて!」


「お前だって学校終わってからずっとお手伝いだろ? 僕も助かった。宵歌も助かったこれでおあいこってことには―――」


「ならない! りつを休ませろって一ノ瀬さんに言われてるの!」


「一ノ瀬さんが!?」


 僕は素直に驚いた。だって、一緒に逃げようと言ってからの一ノ瀬さんはずっと怒ったり悲しんだりしていた。とても人の事を気にする余裕なんて無いだろうと思っていたけど……


 宵歌はモップを奪い取ると悔しそうに掃除を始めた。


「一ノ瀬さんは本当にりつの事が好きなんだね。ずっと心配してたよ」


「はぁ……なんで怒ってるんだ?」


「怒ってない! 宵歌だって毎日りつのこと考えてたし。でも忙しいから邪魔しちゃ悪いかなって思ってただけだし!」


「ああ、小海さんが言ってたな。宵歌が女々しい事を言ってるって」


「誰が乙女だ! いや乙女だけど!」


 宵歌は力任せにモップを走らせた。掃除というよりは八つ当たりだった。「乙女で悪いかちくしょう!」


 こいつは普段猫を被っているくせに僕や小海さんの前では怒り狂う習性がある。慣れ親しんだ空気というか、口が悪くなる宵歌にはなぜか安心感を抱く。


 本当に帰ってきたのだなぁ。とふと思った。


「宵歌。ちくしょうはやめような。連絡しなかった僕も悪いけれど、というか掃除もやめとけ」


「なんで!」


 僕は着物の裾を指さして言った。「せっかくの着物が濡れてるぞ。仕事着とはいえ高いんだろう? 掃除は僕がやるから」


「……気づかなかった」


 昔から制服を汚すなときつく言われていた。高いから気をつけろと。


 宵歌は鎮火したように大人しくなると僕にモップを預けて、壁際に設置してあるプラスチックの椅子に腰かけた。僕は軽くモップをかけて、洗剤を流し落とすためにシャワーを手に取る。


「周りが見えなくなる性格……治さないとなぁ」


「そのままでいいんじゃね? 僕は結構好きだぞ。面白くて」


「こんなんじゃお嫁にいけないよー」


「物好きはもらってくれるだろ」


 実家に訪れた時には感じなかったのに宵歌と話していると途端に故郷を感じるから本当に不思議だ。


 僕はすぐに打ち解けて、それからしばらく宵歌と話し込んだ。


 そうするうちに一ノ瀬さんが戻ってきた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る