第25話


 白石楼は古い時代から続く由緒正しい旅館であるが、改装に改装を重ねて現代まで存続させている事もあってか、内装はわりと近代的であった。


「すっご……高い旅館だぁ……」


 一ノ瀬さんが目をキラキラさせて廊下を見渡す。年季の入った太い木の柱。壁にはよく分からないけど芸術的らしい絵画や綺麗な生け花が飾られており、重厚な紅色の絨毯じゅうたんが雰囲気を引き締める。入った瞬間に分かる高級感。目が覚めるような洗練された内装に重みを与える絨毯も町の古い店のものだった。老舗しにせゆえの空気感なのだろうか。その独特な雰囲気に人は知らず知らずのうちに緊張して、僕のような庶民は身振りが硬くなってしまうのである。


 しかし一ノ瀬さんは浮足立っているようにソワソワして、「すごいね、すごいねぇ」と辺りをきょろきょろ見回している。


「一ノ瀬さん。はしたないよ」と小声で注意する。


 すると一ノ瀬さんも小声で、「だってこんなところ初めて来たんだもの」


「これからたまに通うんだから慣れて」


「りつ君、こんなところで働いてたの? すごい……すごぉい……」


「ただのお手伝いだよ……」


 裏口は従業員専用のスタッフルームに繋がっており、廊下へ出て玄関ロビーに繋がる。浴場へは玄関を右に抜けて階段を降りる必要があった。


 玄関は天井の高い開放的なエリアになっており、シックな黒の一人掛けソファがいくつか集められた談話スペースが窓際にある。玄関の中央には枯山水があり、周りを囲うロープさえ純白。ポールは金色である。薄暗い廊下を抜けるといきなり視界が開けるのだからあたかもトンネルを抜けたような解放感だった。


「わはー! すごいすごいすごーい!」


「一ノ瀬さぁん……静かにして……」


「ごめんごめん。バレないようにね」


「こっちこっち」と宵歌が手招きする。僕達は壁際をこそこそ移動して浴場の方へと向かった。


 玄関も廊下もすごいのだから、とうぜん浴場もすごい。


 古めかしい木の階段を降りてカラカラ鳴る引き戸を開けると脱衣所が広がる。そこを抜けると大浴場が広がっていた。


「ひ……ひろーーーーい!」


 頬を高揚させて走り出した一ノ瀬さんの声と足音が反響する。白石楼自慢の大浴場だ。こちらは第2浴場。掃除する時間をずらしているので、いま第2浴場にいるのは僕と一ノ瀬さん。それから掃除当番の宵歌だけだった。


 室内には大きな浴槽が一つとたくさんのシャワーが並んでいる。外には本物の岩を削って作られた露天風呂がいくつかあり、晴れた日には遠くの山に霞がかかる絶景を望める。その眺めに感動した一ノ瀬さんは興奮した面持ちで「ねえねえねえ! 景色すっごいよ! りつ君もこっち来てっ!」と僕の手を引っ張った。


「もう見飽きたんですけど……」


「テンションたけーー。一ノ瀬さーーん! 転ばないようにねーーー!」


「分かってるーーー! きゃーーー!」


 一ノ瀬さんが足を滑らせた。お決まりだが、タイミングが完璧すぎると思う。


 僕は「危ない!」と腕を引いて一ノ瀬さんの体を抱き寄せる。


「床が濡れてるんだから気を付けて」


「……怖い思いをした」


 自業自得だ。


「……この人がりつの彼女っていうのが、なんか複雑……」


 宵歌がため息をついた。賑やかな人や場所が苦手な彼女は一ノ瀬さんのテンションが頭に響くらしい。僕の母親代わりと言って良いほど世話を焼いた彼女が一ノ瀬さんを気にいることはないのかもしれない。「じゃあ、一ノ瀬さんは女湯の方に案内するから」と一ノ瀬さんの手をむんずと掴むとズルズル引きずっていった。


「え、あれ? あれ? あたしこっちじゃないの!?」


「ここ男湯です」


「あたしのお風呂って話はーー!?」


「歴史あるうちの旅館で不純異性交遊なんて許しません。一ノ瀬さんは客としてきちんと案内させていただきます」


「お金があまりないから、できればこのまま入りたいのだけど……」僕がなけなしの抵抗をすると宵歌は「従業員割引にしてあげますから」ときっぱりと言った。


 自分はさんざん男湯に突入してきたくせに都合のいいやつだ。僕は呆れる思いだったが、しかし割引にしてくれるならそっちの方がいいかもしれない。慣れない長旅で疲れただろうし、昨日はちゃんと寝ていないのだから一ノ瀬さんの疲れは相当溜まっているはずである。


 第1浴場の方にはジェットバスなどがあったはずだし、温かいお湯にゆっくり浸かって欲しいと思う。


「ゆっくりしてきてよ」僕はそう声をかけた。


 だけど一ノ瀬さんには僕の心が伝わらなかったようで嫌だ嫌だと暴れだす。

 

「この子と2人っきりなんてダメ! 特にこの胸はダメーーーーー!」


「あんまり騒ぐと追い出しますよ?」


「横暴!」


 背丈も年齢も同一なのにあの落ち着き具合の差はなんなのだろうか。というか一ノ瀬さんはもっと落ち着いた人だと記憶していたのだけど、まだ知らない一面があるということだろうか。


 本当の一ノ瀬さんはもっと知的で明るくて優しい人なのに。宵歌とは良い友達になれると思っていたのに。


「……騒がしい人だと誤解されないといいのだけど」


 騒ぎながら退場する2人を見送って宵歌が持ってきた水着に着替える。


 これは小海家に持って行った僕の水着だ。ということは一ノ瀬さんが着る予定だったのは……宵歌の水着?


「なら、きっとブカブカだったろうな。見ずにすんでよかった」


 宵歌の蛮行も今日ばかりは賞賛せざるをえなかった。


 参考までに推定カップ数をお伝えしておくと、宵歌がHで一ノ瀬さんがCである。そこにはお母さんと小学生の娘くらいの差がある。


 しかしそれはあくまで推定の話であり、真相は女湯の垂れ幕の向こうにある。男性読者諸君。夢は夢だからこそ美しいとは思わないだろうか。


 夢の園を暴こうなどと無粋な真似は紳士たる僕にはできない。


 ブラジャーの合間から覗く形の良い………


 いや、そこまでにしておこう。


 夢は夢だからこそ美しいのである。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る