第22話
とうとう帰ってきてしまった。僕はこの家から逃げ出したのに。
「……掃除はまた明日にしよう。使えそうな家具と使えない家具を分けて、使えない家具は倉庫にまとめておく。で、必要な物をあらいだして買いそろえなければいけないね」
「とりあえず今は、ゆっくりしたいかな……疲れた……」
「そうだね。でもその前にお風呂が使えるかを確認して、寝床も確保しなければ」
僕は玄関の引き戸に手をかける。その瞬間伝わってきた冷たい感触にドキリとした。
これから家に帰る。あれほど帰りたくなかった我が家に帰る。そう思うと古いガラスのドアが急に重く感じられた。とはいえ、近代的な建物に使われる軽い建材と比べると詩的表現を抜きにしても重い。手首で昔を感じていると、一ノ瀬さんが「入れるの?」と言った。
「うちに鍵なんてないよ」
「わぁ、田舎」
一ノ瀬さんは驚いていた。
意を決して玄関を開ける。
家の中はあの日のままだった。両親が帰らぬ人となって、僕が全国大会に出発したあの日まま。水の中のように静かな家。しぃんと静まり返った玄関。7時を過ぎた夕闇のせいなのか、墨を垂らしたように暗い室内と積もった埃が、あの世のように恐ろしかった。冷たかった。
暗い我が家の敷居をまたいだ時、僕は冥界に足を踏み入れたのかと思って身震いをした。
「くっら……埃っぽいし、最悪だ。やっぱりこんなところやめよう。いまならまだ他のところに変えても――――」
「お邪魔します」
しかし一ノ瀬さんは僕の脇を通り抜けて玄関に立つと深くお辞儀をした。誰もいない家なのにお邪魔しますなんておかしな話だけれど、でも一ノ瀬さんはまるで人が住んでいるように礼をした。僕はハッとした。
そうだ。ここは僕の家なのだ。僕が住んでいた家なのだ。
その瞬間、空気が色づいたように感じられた。
「りつ君。ただいまは?」
一ノ瀬さんはすごいと思う。僕だけだったらきっと引き返していたかもしれない。嫌な思い出を残した嫌な場所として二度と訪れなかったかもしれない。
誰もいない家なのだから適当に使えばいいのにキチンと挨拶をする礼儀正しさ、奥ゆかしさ、育ちの良さ。両親の遺影を前にしたときもそうだった。一ノ瀬さんは真剣に両親に挨拶をしていた。あのときも今も、僕は救われたように感じた。
一ノ瀬さんがいなかったら死んだものとして捨てていたかもしれない。
「だから好きなのか」僕はボソッと呟いて頭を下げた。
「ただいま」
「うん、おかえり。じゃ、お夕飯にする?」
一ノ瀬さんは脱いだクツを揃えて置いて土間からあがった。
その後ろ姿を見てようやく家に帰ってきたのだと実感した。
「あ、一ノ瀬さん。そこ床が腐ってるから気を付け――――」
「きゃあ!」
床が金属のような音を立てる。
うちは古いからところどころ木材が腐っている。しばらく住んでいないから腐食はさらに進んでいるだろう。
一ノ瀬さんは蒼い顔をして振り返って「お、お昼……食べ過ぎたのかなぁ……」
「うち、古いから床が腐ってるんだよ」
「え、そうなの!?」
僕は一ノ瀬さんの手を取って居間へと向かう。
「腐ってない所教えるから付いてきて」
「見えない迷路だ……」
僕が歩く後ろをぴょんぴょんと付いてくる一ノ瀬さん。
埃ですべらないよう慎重になっているのか、飛び石を渡るようなつま先立ちが可愛かった。
☆☆☆
小海宵歌は退屈していた。店番など引き受けるものではない。仕事のお手伝いとはいえ来る客はみんな品行方正で面白みがない。格式ある旅館の受付を実の娘にやらせる親もどうかと思うが、やっぱりつまらない。
まったく空っぽなのだ。由緒正しい旅館に来る奴なんて一応の礼節をわきまえた人ばかりで、しかも能面のごとく張り付いたマナーを振りかざす人ばかり。
「はーぁ、早く終わらないかなぁ……着物って窮屈だし、動きづらくて嫌だなぁ」
栗色のボブカットの髪。目元はクリクリっとして子犬のように輝き、背丈は一ノ瀬さんと同じくらいかちょっと大きいくらい。しかし腕や足回りの女の子的丸みは一ノ瀬さんよりも豊かで発育がよろしい。胸も大きい。その柔らかさと発育の良さは着物で隠しきれるものではなく、はちきれんばかりの肢体が窮屈そうに縛り付けられているのがはためからでも分かった。イタズラっぽい表情の中にお母さん的優しさを漂わせる彼女こそ僕の幼馴染兼従妹の小海宵歌である。
「もう8時かぁ……明日のテストの勉強したいんだけどな………ん?」
カウンターに色っぽく頬杖をついてため息を漏らしていると、ふいにスマホがラインの通知を告げる。
「姉さんからだ。なになに………四方山立が帰ってきてるかもしれない……って? なにそれ!?」
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