第20話


 それからは眠くなるまで世間話をして過ごした。とんでもなく普通の話であった。趣味の話。好きなものの話。僕の実家の話。はたから聞いていて何が面白いのか分からない話を僕らは夢中でした。しかし他人には面白くなくても僕達にとっては特別だった。


 付き合いたてのカップルが何でも無い話を楽しそうにし、名前を呼び合うだけでデレデレしているのを見たことがあるだろうか。あの時間をどぶに捨てるがごとき愚行を見て唾棄する諸君。残念だが僕もあちら側に行ってしまったようだ。


 女性が苦手だとのたまい敢えて一人を選んだ僕はもういない。僕は生まれ変わったのだ。一ノ瀬さんの見せる表情の一つ一つが宝石みたいに色とりどりに輝き、話しの合間に一息つく仕草さえ可愛らしい。顔を正面に戻して胸の前に手を置く仕草が特に。


 僕の話を一ノ瀬さんは真剣に聞いた。どんなにつまらない事でも聞き漏らすまいと真正面から僕を見据え、言葉の一つ一つを噛み締めるように「うん……うん……」と小さく頷いた。


 僕もまた一ノ瀬さんの話を真剣に聞いた。いや、真剣にならざるを得なかった。一ノ瀬さんは自分の事を話すのが苦手なのか、よく口ごもった。「あっと……えっと……りつ君は……その、背が小さい女の子ってどう思う?」というような事を口にするのにたっぷり10秒かけたり、話しているうちに自信がなくなるのか声量も小さくなっていった。ただでさえ心臓が早鐘を打って、血の巡るゴォォという音が耳元で鳴っていてうるさいのに、こんなかぼそい声をどうやって聞けというのだ。


 女の子と話しているという感じはなかった。ただ、一ノ瀬まどかという人間が目の前にいた。男とか女とかいう一般的なくくりに当てはまらない特別な人間。僕は脳内に新しいフォルダを作成して一ノ瀬まどかと名前を付けた。


「そういえば、両親には何と言って出てきたの?」


 僕はふと気になって訊いた。嘘の内容によってはすぐにバレてしまうが……


「えっと、友達の家に泊るって言ったよ。明日が終業式だからそのままお世話になるって」


「……だいぶ無理したね」


 終業式は来週。明日にでもバレてしまうかもしれない。


 一ノ瀬さんは申し訳なさそうに「嘘をつくの……苦手なんだ」


「大丈夫。逃げてしまえばこっちのもんだ」


「……パパ、ママ、ごめんなさい」


「……………」


 僕は一ノ瀬さんの手を握った。「ずっとってわけじゃない。いつか帰る日が来るから。もう会えないわけじゃないよ」


 心苦しそうに俯く様子が痛々しくて、元気づけようと手を握ったのだけど、一ノ瀬さんは頭を振って「帰っちゃだめだよ。あたしたちはもう帰れないの」と突っぱねるように言った。


「もう帰れないって思わないと……帰りたくなる…………」


「………………」


「あたしのためなんだって分かってるんだけどね。ごめん……」


 さっきまで何でもできそうだと言って笑っていた人とは思えないくらいの落ち込みっぷりである。


「いや、一ノ瀬さんは悪くないよ。僕がもっと強かったら……先輩から君を守れるくらい強かったら逃げる必要も無かったのに」


「そんなこと言わないの。あたしはこれで良いと思ってる。後悔はないよ」


「………………」


 一ノ瀬さんのスマホがラインを受信した。


「先輩だ」


 こんなときにまで何を送ってきたのだろう。気になったけれど、僕が見る前に一ノ瀬さんはスマホを見せてきた。


「見て。ブロックしてやった!」


「…………」


「これで良いんだ。これで」


 一ノ瀬さんは清々しい笑顔を見せた。とてもとても清らかで、寂しそうで、満ち足りた笑顔だった。一ノ瀬さんにどんな心情の変化があったのかは分からないが、それが先輩を想っての昼ドラ的笑顔ではないということだけは断言できる。


 なんだか、覚悟をした人の笑顔に見えた。


 ………事態は何も好転していないけれど。確実に良くない方へと向かって行っているけれど、僕達の前にはむやみやたらと希望が広がっていた。


 僕は何も答えなかった。


 ただ手を握った。


「………りつ君」


「どうしたの」


「ごめん。やっぱり寂しい」


 一ノ瀬さんはそっと抱き着いてきた。


「そっか」


 一連の彼女の心情の変化を表現する言葉を僕は持たない。しかし、ここに一ノ瀬まどかという人の強さと弱さが現れているように思う。


 複雑で繊細で強くて脆い彼女。


 一ノ瀬さんは僕が守らなければならないのだ。


 そっと抱きしめ返す。小さくて柔らかい体が僕の腕の中にある。


 この中にどれほどの荒波が巻き起こっているのか僕には知るよしもない。


 泣きたいほど辛いはずなのに。叫びたいほど悲しいはずなのに。一ノ瀬さんは……


「りつ君。あたしを守って……」


 そう呟いた。


 僕達の前にはむやみやたらと希望が広がっている。その全部が絶望に繋がっていたとしても構わない。その時、隣に一ノ瀬さんがいれば怖くない。


「きっと。守るから」


「うん。きっと」


 僕達は眠りについた。


 起きた時はもうS県に着いていた。


「……もう後戻りはできないぞ」


 窓の外に広がる景色を見て僕は呟いた。


 ここまで来たらもう後戻りはできない。いまさら嘘でしたなんて言えない。


 先の事を考えると絶望しかないのに、なぜか僕の胸には希望が広がっていた。


 ここでこの人を幸せにするのだ。


「……ん、おはよう。りつくん」


「おはよう、一ノ瀬さん」

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