2章 クラスのアイドルと一緒に逃げる話

第18話


「い、急げーーーーーーー!」


 パラララララララと発車のベルが鳴る電車に飛び乗って、僕たちはそろって膝に手をついた。


「ま、間に合った………」


「りつ君がお弁当選びに時間かけるからいけないんだよ! いくらあたしの料理が未完成だったからってひどい!」


「夕食を取ってないんだから……許してくれよ……」


「この薄情者!」と腕を組んで一ノ瀬さんはカンカンに怒った。


 というのも、煮込んでいる途中で放置されたカレーはルウが焦げて食べられたものでは無かった。完成していたら美味しかったかもしれないが、とおる先輩からのラインがあったり逃亡の準備をしたりしているうちに、カレーの存在をすっかり忘れてしまっていて、僕は夕飯を食べずにここまで来た。


 一ノ瀬さんはそれを怒っていた。


「あたしの彼氏ならたとえまずくても全部食べてよね。焦げてたから食べないなんて信じられない。彼氏失格よ」


「無茶を言う……それに一緒に逃げようと言っただけで付き合おうとは言ってないんだけ―――痛い!」


 足を踏まれた。


「そんなこと言うなら一生お預けだからね」


「わーなんてすてきなかのじょなんだろううれしいなぁ」


「棒読み。……別にいいけど」


 僕はひとまず実家を目指そうと思っていた。というのも、僕の実家は親戚の小海家に任せているのだが、その管理というのはほとんど書類上での事であり、実際はほぼ手つかずだと小海星歌さんから聞いた。あそこは田舎だし、建てられている場所も人目につかない山の中。姿を隠すにはちょうどよいと思った。


「りつ君の実家かぁ。なんだか複雑な気分」


「どうして」


 電車のシートに並んで腰かける。一ノ瀬さんはリュックサックを膝の上に乗せるとその上にあごを乗せて僕を見上げた。「だって実家に行くって言ったらご両親への挨拶とかが普通でしょ?」


「たしかに」


「それなのにこんな形で、誰もいない家に行くことになるのかと思うと……悲しいなぁって」


 一ノ瀬さんはため息をついた。


「……………」


 それは一理あるかもしれない。将来を考える人の実家へ行くのは特別な意味を持つ行為だと思う。誘う側も誘われる側も「実家へ行こう」という言葉を使う時、知らず知らずのうちに緊張するものである。それは実家には両親がいるから。恋人の親と良好な関係を築き上げる事が幸せな生来への第一歩である。が、僕の両親はもういない。空想の空焚からだきとでも言えば良いのだろうか。一ノ瀬さんの女の子的空想は空想のまま終わってしまうのだ。


「その分、一ノ瀬さんの実家に行くときにしっかりやろう。……そうだ。両親の墓にも一緒に来て欲しい。あの仏壇には2人は眠っていないのだから」


 これじゃあ何の代わりにもならないけれど、一ノ瀬さんに寂しい思いをさせたくなかった。


「ふふ……しっかり彼氏面じゃん」


「悪い?」


「んーん、そんなことないよ」


 一ノ瀬さんはリュックサックを抱いたまま、肩に頭を乗せてきた。「嬉しいよ。嬉しいに決まってる」


「……………」なら、良かった。


 電気もガスも水道も通っていない山の中に女の子を連れていく。それはなかなかの鬼の所業に思えた。虫も出るし、お化けだって出るかもしれない。料理ができないならまだしもトイレやお風呂にも不自由するのだ。一ノ瀬さんのこれからを思うと、せめて都会に行きたいところだけれど、お金が無い。


 この逃避行をいつまで続けるか分からないからこそお金は大事にしたいところだ。


「ねえ、一ノ瀬さん」


「なに?」


「僕達は、お金の事を考えないといけないよ」


「お金かぁ……。そうだね。都会よりも田舎の方が安いもんねぇ」


 都会は色んな物の値段が高い。収入を断たれ、いまあるお金だけで生き延びる事になると思えば、できるだけ出費は抑えたいところだ。でも、そんな暮らしは嫌だと言われれば普通のアパートやマンションを借りるつもりだ。


「でも、りつ君のお家なんだからトイレくらいあるでしょ」


「ん………あるにはあるんだけど、こっちに来るまでは小海さん家に住んでたから、さすがに止まってると思うんだよね」


 僕は頭を掻いた。


 人が住んでいないのに光熱費を払うわけがない。


 いままで当たり前だと思っていた事が今日からは当たり前じゃなくなるのだ。色々買いそろえたり食事を作ったり、お金はたくさん必要になるだろう。


 それらの費用を工面くめんしようと思ったら僕の貯金では足りない。当然、両親の遺産でも。実家へ行くにしてもアパートを借りるにしても、どうせ足りない。だから一ノ瀬さんには嫌だと言って欲しかった。


「いいよ。あたしは大丈夫。ドラム缶風呂でもなんでも、どんとこいだ」


 これだもの。


「いやだから、ガスも電気も水道も止まってるんだから快適な生活なんて出来ないんだよ。きっとすぐに嫌になる。僕はバイトだってなんだってするから別の所にしてもいいよ。僕の実家でなくたっていいんだ」


「ならなんで言ったの?」至極しごく真っ当な反論。


「それは一番最初に思いついたからで……でも、不便だし不衛生だし、一ノ瀬さんに見せたくないというのも事実なんだよ」


 この提案が現実になると思うほどに、胸の中で湧き上がる嫌悪感。本当はもっといい場所があるんじゃないか。何もあんな場所でなくたっていいじゃないか。なんでもっと考えてから言わなかったのだろう。そんな思いが僕から自信を奪う。


 しかし一ノ瀬さんは力強く頷いてみせた。


「大丈夫。たとえどんな所でもりつ君がいるなら怖くないよ。どんなに汚くて不便な所でもあたしはりつ君についていくよ。文句は言うかもしれないけれど、でも、何があってもりつ君を支えるよ」


 そう言って彼女は笑うのだ。


 大きなリュックサックを抱えた小さな身体でよくもまあ涼しい顔をしていられるものだと思う。その中に何を詰め込んできたのだろう。何を想って詰め込んだのだろう。


 その屈託のない笑顔はどこから湧いて出るのかと不思議に思う。けれど、その笑顔を見ていると僕まで勇気が湧いてきて、覚悟に似た愚かしさが脳髄のうずいに浸透するのも事実。


「というかね、あたしは宝石では無いんだよ? 欠けたら価値が下がるの? 汚れたらもう可愛いって言ってくれないの? そんなら、とおる先輩の方がマシよ」


「…………………」


 どんな困難が待っていても一ノ瀬さんがいれば乗り越えられる。そんな気がしてくるのだ。


「だから、りつ君の実家に行きます。それでいいね?」


「分かった。いろんな虫が出るけど一ノ瀬さんが良いと言うなら―――」


「それはヤダなぁ……りつ君が全部どうにかして」


「……………」


 と、そこへ「あなたたち、入佐高校の生徒よね?」と話しかけられた。


 見ると、スーツを着た女性の姿があった。


「こんな時間に、何をしているの?」


 まずい事になった。



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