第17話


 僕はすべてを捨てる覚悟で逃げようと言った。


 これが一ノ瀬さんの求める言葉じゃない事は分かっていたし、驚かれることも分かっていた。


 どう考えたっておかしいのに。ありえないのに。子供っぽいのに。


 どうしてこんな事を言ってしまったのだろうか?


「一ノ瀬さん、僕と一緒に逃げよう! どこか遠い所……誰も来られないような遠い所に2人で行こう! あの先輩だって来られない場所なら一ノ瀬さんを苦しませる人はいないはずだし、きっと、僕が守るから。だから遠くへ逃げよう!」


 ああ、笑うなら笑え。僕は本気だった。本気でどうにかなると思っていた。


 お金の事も生活する場所の事もそもそもどこへ逃げるかさえも考えていなかった。一ノ瀬さんがいればそれで良いと思っていた。なんて子供みたいな甘い考え。僕だったら馬鹿らしくて鼻で笑うし、思慮も分別もあるのだから逃げた所でどうにもならない事は分かっている。


 一ノ瀬さんだってその場の勢いで逃げ出そうなんて言うヤツを信じて付いてくるほど馬鹿じゃないのだ。


 この将来性の無さ、頭の悪さ、発想の子供っぽさ、現実味も皆無で、すべてを勢いに任せるトーヘンボク……。


 僕はなんて事を言ってしまったのだろう? いまに一ノ瀬さんにたしなめられて「逃げなくても、2人で協力すれば大丈夫だよ。先輩の事は証拠があるし警察に相談しよう。りつ君のバイトなんて気にもしないよ。あたしが料理も家事もすればいいんでしょう? 勉強だって教えてあげる。だから、一緒に学校に行こう? 一緒に帰ろう? 大人になるまで、どんなに少ない時間でも大切にしよう?」とか言われるに決まってるのだ。ていうかそれでいいじゃん。と思う。


 どう考えたって僕は冷静ではなかった。自分たちの置かれた立場はどうする事もできないと思考をロックしてしまっていて、解決するすべは無いとばかり思っていた。それなのに…………


「……素敵。逃げよう! 2人で逃げよう!」


 まさかの二つ返事でOK。一ノ瀬さんも馬鹿だった。


「……いいの?」


 僕は呆気にとられたけれど、一ノ瀬さんはいとも簡単に頷いた。


「だってりつ君が守ってくれるんでしょう? だったら何も怖くないよ。りつ君がいれば、あたしなんだってできる。どこへだって付いて行くよ。ずっとずっと一緒だよ!」


「一ノ瀬さん………」


 僕は思った。僕達2人ともお互いの事になると周りが見えなくなるあんぽんたんだから、僕がしっかりしなければいけないと。


「そうだね。僕が君を守る。だから一ノ瀬さん」


「はい」


 僕は一ノ瀬さんの肩を掴む。と、顔をそらして言った。


「とりあえず離れてくれるか……そろそろ恥ずかしくなってきた」


「――――――あっ!」


 一ノ瀬さんが気づいてパッと離れた。僕達は一時間以上もずっと抱き合ったままだった。気が動転していたとはいえ、かなり恥ずかしい。


 僕は顔を真っ赤にして「じゅ、準備するから、待っててよ」と言って逃げるようにその場を離れた。


 僕が自室に物を取りに行ったのを確認してから、一ノ瀬さんは顔を両手で覆って頬を真っ赤にした。


「お、おっきくしてた……あたしで……おっきくしてた……!」としばらくその場に立ち尽くしてきゃあきゃあ騒いだ。


     ☆☆☆


 僕があれやこれやらを準備していると玄関の方から音がした。


 部屋からひょいと顔を出して「一ノ瀬さん、どうしたの?」と訊ねる。


「あたしも着替えとか準備してくるね。またここに来るから待ってて!」


「……ん? 部屋の鍵を忘れたのでは?」


 一ノ瀬さんは部屋の鍵を持って行き忘れたから僕の部屋に来たのである。だとしたらいま帰れるのはおかしな話だと思うのだけど……もしかして親が帰ってきたのか。だとしたら今帰られると非常にまずいのだけど、一ノ瀬さんは「まだ帰ってこないよ」と言う。


「じゃあ、鍵を忘れたっていうのは嘘……?」


「えっとぉ…………」


 一ノ瀬さんは困ったように視線をそらして「……てへっ」


「おい! 僕を騙したな!」


「ばいばーい!」


「まてっ!」


 僕は慌てて追いかけたけれど一ノ瀬さんの方が早かった。ぴゅーんと部屋に飛び込むとバタンガチャンと鍵をかけて立てこもった。


「なんなんだあの人は……まぁ、いいけど」


 それから2時間後。僕達は必要な物を持って駅に向かった。


「本当に、逃げちゃうんだね」一ノ瀬さんが言う。


「うん。これからは僕達だけで生きていかなければいけない。親にも言っちゃだめだよ」


「……ドキドキする。あたしたち、ワルだね。いけない子だねっ!」


 マンションを2人で見上げて別れを告げる。ここへ戻ってくることも無いだろう。


 辺りは急激に暗くなり、マンションの灯りが僕たちを照らした。


 鍵は袋に入れてドアノブにかけてきた。一ノ瀬さんは親と話しているうちに泣きそうになって、こっそり抜け出すのに苦労したという。


 けれど、思い残すことはもうない。


 僕達は知らず知らずのうちに頭を下げていた。「短い間だったけどお世話になりました」


 これからは2人で生きていかなければならない。どんなに辛い事があっても、どんなに苦しい事があっても、僕達は手を携えて乗り越えていくのである。


 僕は一ノ瀬さんの手を取って「行こう」と言った。


 一ノ瀬さんは笑って、「はい!」と答えた。


 僕達ならきっと大丈夫だ。2人ならどんな困難もきっと乗り越えられる。


 そう思っていた。


 ところが、困難は意外と早く訪れた。

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