第16話


 とおる先輩という人が最悪な人間である事が分かった。仮病とはいえ早退した彼女に下着の写真を送れなどと、まともな人間なら口が裂けても言えないであろう。まずは心配するのが普通ではないのか? 吐き気がするほど低俗な人だ。


 一ノ瀬さんはこの恐怖にずっと耐えてきたのだ。言われるがままに恥辱に耐え、年上の男にいいようにはずかしめられるその屈辱。その恥ずかしさ、苦しさ、辛さ、たまらなさ………


 僕には想像することしかできないけれど、僕よりも辛い立場にいる事は考えなくても分かる。誰にも知られたくないと思っていた事が、この人にだけは知られたくないと思っていた事が、よりにもよってその人に露見したのである。取り乱すのは当然だろう。


 一ノ瀬さんはボロボロと涙をこぼして「違うの!」と繰り返した。


「りつ君、あたしはこんな事したくなかった……イヤだったんだよ……信じて。こんな人とは別れたかった……ずっとやめたいって思ってたんだよ!」


 一ノ瀬さんは僕の肩を掴んでガクガクと揺さぶった。ちぎれるように響く声。聞いているだけで心が痛くなるような悲痛な声だった。


「……………」


「信じてりつ君! りつく――――」


「……………」


「……りつ……君?」


 僕は震える手で一ノ瀬さんの肩に触れた。そうして、口を開いた。


「一ノ瀬さん………」


 一ノ瀬さんは驚きに目を見開いた。


「りつ君……泣いてる……? なんで……?」


「一ノ瀬さん……辛かったね」


 僕は泣いていた。


「イヤだったよね……誰にも言えずに、よく、頑張ったね」


「えっと、え、なんで?」


 一ノ瀬さんは予想外の反応に困惑しているようだ。なんでと思われるのも無理はない。


 イメージを裏切るような一面が発覚したときの反応として想像されるのは怒るとか突き放すとか、信じられずに狼狽うろたえるとかだろう。いずれにしても裏切られたという思いに起因する反応が予想されるが、僕の場合は違った。


 小海さんが僕を女嫌いだと言っていた事を読者諸賢は覚えているだろうか。僕も一ノ瀬さんのような経験をしたことがある。だから女性は苦手なのだ。女性なんて、恋愛なんて憧れるだけで良かった。


「……僕もさ、年上の女性に襲われかけた事があるんだ」


「……へ?」


「怖かった。体が大きい人に押さえつけられてさ、いきなり服の中に手を突っ込まれて脱がされるんだよ? 声も出せなくて、ひどい目に遭わされるって思ったら涙も出なくて……本当に怖かった」


 あの時の事は思い出したくも無い。まあ、後々語る事にはなるだろうけれど、今は詳しく語る事はしない。


 一ノ瀬さんは落ち着いたのか肩を掴む力が緩んでいた。


「……………」


「一ノ瀬さんも怖かったよね、辛かったよね。助けてほしいのに誰にも言えなくて苦しかったと思う。気づいてあげられなくて……ごめん」


「もう……あたしより泣かないでよ……泣きたいのはこっちなのに………」


「ごめん……ごめん…………」


「りつ君………好き……」


 優しく抱き留められた。小さくて震える体がその体温を伝えるように優しく。あたたかく……本当は僕がこうしてあげなければいけないのに。


 僕が一ノ瀬さんを幸せにしてあげたいのに。


「一ノ瀬さん………ごめんね………」


 僕は自分の生活を守るだけで精一杯なのだ。


「……謝りたいのも泣きたいのもあたしの方だよ? いま甘えたいのだって、あたしの方なのに……」


 僕達はお互いに抱き合って泣き崩れた。


     ☆☆☆


 どれくらいそうしていただろうか。窓の外はまだ明るい。けれど時計を見たらもう5時だった。


「先輩が怖い……」と一ノ瀬さんがぽつりともらした。


 ヒグラシの鳴く声がシャワーみたいに降りそそぐ。その中で一ノ瀬さんの小さな声がぽとぽとと鼓膜を叩く。やけに鮮明に聞き取る事ができた。


「あたし、あの人から逃げられない気がする。あの人に縛られて、監視されて、ずっと言いなりになって生きていく気がする。いつか体も好きに使われて……先輩が怖いの……」


「…………えっと、先輩って?」


 僕は知らないふりをした。


「嘘つき。あのとき見てたでしょ」


 キスをされた時の事。たしかに見ていた……。


「…………」


「あたしすぐに追いかけたよ。追いかけて、違うんだって言いたくて、りつ君を探した。そしたら教室にいて、ずっと暗い顔してたから言えなくって……」


 一ノ瀬さんが僕を上目遣いに見た。責めるような目だった。


「でも言いたくて、だから放課後もずっと探してて………」その先は声になっていなかった。


「一ノ瀬さん……………」


 僕は慰めるべきなのだろうか。彼女を幸せにしてやれないのに?


「昨日も、見せろって言われて…………見せたくなくて………頭の中がりつ君でいっぱいで………」


 僕は助けてあげたいのだ。自分の生活で手一杯なのに。


「でも、やっと言えたよ! あたし、言えた……もう大丈夫だよね。りつ君が助けてくれるよね! あのときみたいに!」


 僕は差し出された手を取りたいのだ。


 自分の事をしなければいけないのに。


 親戚から出された一人暮らしの条件。


 テストで90点以下を取らない事。


 学費、家賃、電気代、水道代、ガス代、食費、その他生活にかかる費用はすべて自分でやりくりする事。


 どれか一つでもこなせなければすぐに帰ってくる事。


 この3つ。


 だから僕はバイトをたくさん入れた。お金が無ければ何もできないから。


 だから授業は睡眠時間にてた。高校1年生のテストなんて教科書に書いてある事くらいしかでないのだから。


 自分の事をしなければここにいることすらできないのに。


 あそこにいると思い出してしまうからここへ来たのに。


 一ノ瀬さんを幸せにする事は出来ないのに。


 一ノ瀬さんとの時間を大切にすることもできないのに。


 一ノ瀬さんを幸せにしてあげたいのに。


 一ノ瀬さんともっと一緒にいたいのに。


 僕は……………


「一ノ瀬さん」


「はいっ!」


 一ノ瀬さんははちきれんばかりの笑顔で僕の答えを待った。満面という言葉じゃまだ足りないほどかげりなく、太陽という言葉じゃ暗すぎるほど明るい。助けてくれると信じて疑わない純粋で儚げな笑顔。待つとは言っても僕の答えは一つしかないと信じる、力強くもあり消えてしまいそうでもある弱々しい笑顔。


 僕は自分の事で精一杯なのに。


 僕は独りで良いと思っていたのに。


 なぜだろう……………


「一ノ瀬さん。僕と一緒に逃げよう!」


 この笑顔のために、すべてを捨てても良いと思ったのだ。

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