第15話
そうだ。一ノ瀬さんと付き合う上で問題になるのは僕の事情だけじゃない。現恋人のとおる先輩の事があるじゃないか。
彼氏がいる人と付き合う事は浮気になる。そんなビターな恋愛は一ノ瀬さんには似合わないと思うし、性欲の権化たるとおる先輩は本当に似合わないと思う。
僕は一人でも良いとして一ノ瀬さんはどうなのだろう。一ノ瀬さんは誰が幸せにするのだろう……?
「さて、りつ君。あなたは今からあたしにひれ伏すことになるわ」
「……はい?」
「あたしが今から何をするつもりか。あなたに分かるかしら?」
「何を作るつもり?」と訊くと「愛の手料理」と答えた。
両親が亡くなっていると知ってからやけに明るく振る舞う一ノ瀬さん。たぶん僕を元気づけるために明るく振る舞っているのだろう。オーバーなように見えるけれど、演技くさくなるくらいわざと明るく振る舞ってくれる方が僕も気が楽だ。
こんなに健気で気配りができる人を僕は幸せにできない。
ちなみにエプロンは
「あたしの手料理を食べたりつ君はきっとこう言う。な、なんて美味しいんだ……一ノ瀬さん、いますぐ僕のお嫁さんになってくれ! って!」
「……はぁ」
「言っても行動に移しても付き合う気が無いのならもう胃袋を掴むしかないわ。男の手料理ばかり食べてきたりつ君に女の子の料理を教えてあげる! あたしの料理の腕に感服するあまり平身低頭これまでの所業を謝り倒すがいいわ!」
この人を誰か貰ってやってくれ。僕には手に負えそうにない。
「料理を作ってくれるのはありがたいけれど、まだお昼だよ?」
僕は窓の外を見て言った。今は7限が終わったころだろうか。時刻にして4時前。これからご飯にするには少々早いように思えるのだが、一ノ瀬さんは肩をすくめて僕の隣に立つ。
「何言ってるのよ。いまから夜ご飯を作るんでしょ。今日もバイトなんだよね? うーんと手の込んだヤツを作ってあげるからりつ君は掃除を終わらせなさい。あなたに彼女がいる生活がどれほど幸せか教えてあげる」
「……………」
僕は思わず泣きそうになった。
「ふふん、あなたのために料理を作る女の子。素敵でしょ」
「お母さんみたいだ……」
「おい!」
しかし、本当に嬉しかった。
☆☆☆
キッチンから鼻歌が聞こえる。流行りのアニメの主題歌のようだが、音が膨らむような甘い響きが本家よりも可愛い。ずっと聞いていたいと思う。
こんな事は人生で初めてだ。何度もキッチンを見てしまう。そのたびにエプロンをつけた一ノ瀬さんの姿が目に入り、これが現実なのだと嬉しくなる。
麗しい女の子が僕の家にいて、僕のための料理を作ってくれている。これ以上の幸せがこの世にあるだろうか?
「一ノ瀬さん」
「なーにー?」
「……何でもない」
「なによー。言いたい事があるならハッキリ言いなさいよ!」
こんな問答を何度も繰り返した。なんて付き合ってるっぽいやり取りなんだろう。しかも付き合いたてのお互いの事しか見えていない甘々のやつである。
2人ともやり取りに意味なんてない事は知っていた。この時間を共有しているだけで幸せだった。
僕がこんなに幸せで良いのかと思う。幸せすぎて怖いくらいだ。
僕はリビングを掃除していた。テーブルを拭き、一ノ瀬さんが作る料理を置く場所をこれでもかと綺麗にする。その近くのソファには一ノ瀬さんのカバンが放り投げられており、僕を信用してなのかスマホが放り出されていた。
本当に幸せだった。幸せ過ぎたのだ。
人間万事塞翁が馬なんて言葉があるけれど、本当にその通りだと思う。
このまま何事もなく時が過ぎれば良かったのに。そう思い通りにいかないのが人生というもの。
ブーブーと一ノ瀬さんのスマホが鳴った。誰かのラインを受信したようである。
「一ノ瀬さん、スマホにメッセージが出てるけど」
「誰だろー? なんてきてるか教えてーりっくーん」
「りっくん……?」
「りっくんはりっくんだよー」
そんな気の抜けたやり取りに幸せを感じながら僕はスマホを見た。メッセージの内容を教えてくれなんて警戒心が無さ過ぎるのではないか?
そう思いながらスマホを手に取る。そこには……
『朝のいつものがなかったけど?』と、書いてあった。
僕は意味が分からず、「いつもの?」と声に出した。
そのとたん一ノ瀬さんの動きがピタッと止まる。
さらに追い打ちをかけるようにラインが届き『今日の下着を見せてくれてないけど?』
「えっと、どういうこと……?」
朝の『いつもの』。今日の……下着…………?
ラインの送り主は言わずもがな。とおる先輩であった。
「うそ……こんなのってひどい………違う、違うの……違うんだよりつ君!」
包丁を取り落とす一ノ瀬さん。キッチンを飛び出し蒼白な顔面で僕の肩を掴む。
そんな彼女に、僕は………
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