第14話


 校門から徒歩20分。電車に乗って15分。そこからさらに25分ほど歩いてようやく僕の住むマンション『レジデンス・イルサ』が見えてくる。


「……あの、一ノ瀬さん」


「はい?」


「ついてきたわけじゃ、ないよね」


「それはこっちのセリフなんですけど」


 僕と一ノ瀬さんはそろって灰色のビルディングを見上げた。


 信じがたい事だけど、これはどうしようもない事実なのである。


「もしかして、ここに住んでる?」


「そうだけど……もしかして、りつ君も?」


 驚くべき事だけど、僕達はお互い普通に家に帰っているつもりだった。一ノ瀬さんに引っ張られるままに帰り、お話をして、何も考えずにコンビニに寄ったりした。おかしいぞと気づいたのはマンションの入り口に着いてからの事だった。


「あの、一応確認するけど……」と一ノ瀬さんがエレベーターのボタンに手を伸ばす。何を言いたいのか察した僕は3階のボタンに指を添えて「同じ階、だね……」


「…………うそ」


「………ほんとう」


 なぜ今まで顔を合わさずにいたのだろうか。僕と一ノ瀬さんは同じ階の、部屋を2つはさんだ所に住んでいたのである。


 もちろん僕はバイトでほとんど帰らなかったし一ノ瀬さんだって色々あったろう。しかし、この3か月間一度も顔を合わせていないなんて事があるものか?


「世間って意外と狭いんだねぇ……」一ノ瀬さんはしみじみと言った。


「そうだね。じゃ、僕はここだから」


 305号室が僕の部屋である。色々あったから早く休みたかった。今日もバイトがある。掃除洗濯料理に課題……僕は忙しいのだ。


 ……しかし、


「待って!」


 と、鍵を開ける僕の手を掴んで一ノ瀬さんがもじもじし始めたではないか。


「どうしたの? まさか、今日は親がいないからうちに来てとか言わないよね」


「そうじゃないんだけど……」


「じゃあどうしたの」


「……えっとぉ」


 歯切れが悪い。一ノ瀬さんらしくないけれどどうしたのだろう?


 人気のない所で何かをするつもりらしい一ノ瀬さんとは早く別れてしまいたいのだけど、何やら、それ以上の差し迫る危機があるらしい。


「あの、じゃあもう思い切って言うけど……あたし、今日、鍵を持って出るの忘れてさ……」


「は?」


「おうちに……帰れないんです………」


「…………は?」


 この人はバカなのだろうか。なんで早退したのと訊くと「だって、2人きりでいたい気分だったから……」と唇を突き出してふてくされた。


「ばか」


「あー! ひどーい!」


     ☆☆☆


 そんなわけで一ノ瀬さんをうちに上げることになった。正直、家の事情はあまり知られたくなかったのだけど、一ノ瀬さんに諦めてもらうにはこれしかないのだと思う。


 僕には平凡な幸せがあればいい。誰かと付き合い結婚するよりも、独りで平和に暮らせたらそれで良いのだ。


「ここがりつ君のおうちか~~~~」


 一ノ瀬さんが興味深げに部屋の中を見渡す。僕の家は安物の家具と必要最低限の備蓄によって構成されている。次第に一ノ瀬さんのテンションが下がり、ついには「なんか、倉庫みたい……」としょんぼりするのもむべなるかな。


「そりゃあ、寝に帰ってくるだけだからね」


「えっ?」


 僕は一ノ瀬さんの脇を通って仏間へ行く。2LDKの高校生が一人で住むには高い部屋。その一室は両親のために空けてあるのだ。


「ただいま。父さん、母さん」


 遺影の前で手を合わせる。線香の独特の香りが色になって立ち登る。この瞬間、僕は生きていると感じるのだ。あの独特な匂いが両親の匂いだった。僕はいつも家に帰ったら両親に報告する事にしている。


「今日は友達を連れて来たよ。ちょっと面倒だけど可愛らしくて優しい子なんだ。一ノ瀬まどかさんっていうんだけど、綺麗だろ?」


 僕は一ノ瀬さんを振り返って両親に紹介する。


「一ノ瀬さんも、挨拶してくれる?」


「あ、うん!」


 慌てた様子で僕の隣に正座し、一ノ瀬さんも手を合わせた。「えっと、一ノ瀬まどかです。りつ君とは清いお付き合いをさせていただいてます」


「…………」


 僕達は無言で手を合わせた。心の中で今日の事を両親に報告する。これが僕の日課だ。しかし一ノ瀬さんは何を想っているのだろう? 


 そう思って隣を見ると、


「…………りつ君とお付き合いする許可をください」


 ロクな事じゃなかった。


「だめです」


「りつ君が言ってんじゃん!?」


「違うよ。僕は両親の言葉を代弁したまでだよ」


「うぅ……お義母様きびしい……」


 がっくりとうなだれる一ノ瀬さん。しかし「でも、こんな事じゃへこたれないもん。りつ君はあたしが守ります。幸せにします。だから、お願いします」


「……………」


 深く頭を下げてそう言った。


 彼氏の事はどうするつもりなのだろう。と、僕は思った。

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