第13話


 ほどなくして一ノ瀬さんが戻ってきた。足取りはしっかりとしており、表情はいつもよりも輝いているように見える。


 小海さんが上手くやってくれたのだろう。僕はホッと息を吐いた。ところが戻ってきたのは一ノ瀬さん一人だった。


「小海さんは?」と訊ねると「分かんない。どっか行った!」と言う。そんなことあるかと思ったけど、あの人ならありうる事だろう。


「そっか。……どっか行ったのか」


「うん。だから、2人っきりだよ」


「…………」


 僕はベッドに腰かけていた。体調はだいぶ良くなったけれど、小海さんが6限も休めるように手配してくれたので遠慮なく休んでいた。


 一ノ瀬さんは僕の隣に座るとそっと手を重ねた。果物のように冷たくて瑞々しい肌が蝸牛かたつむりのように小さな弾力を指に残す。耳元で囁くように「あたしたち悪い子だね」


「いま、みんなは教室で授業中なのにあたしたちだけサボっちゃってる。いけないことなのに、ドキドキするね」


「……一ノ瀬さんでもそう思うんだ?」


 意外だった。もっとまじめな人だと思っていた。


「あたし悪い子だよ? サボりたいなーとか、授業眠いなーっていっつも思ってるもん。でも思ってるだけ。行動に移せない」


「まるで僕がサボってるみたいな言い方」


「へへっ、いつもあたしを目覚ましにしやがってこのっ」


 一ノ瀬さんが軽く肩を当ててくる。ぶつけるでも寄り添うでもない微妙な力加減。猫の甘噛みのような歯がゆさを僕は感じた。


 僕は「ごめんね」と言った。


「僕はついつい自惚うぬぼれてしまうくせがあるみたいだ。一ノ瀬さんの特別になれなくたって力になることはできるのにさ。それが特別な関係じゃないとダメだって思い込んでいた。ごめん。かっこ悪いとこ見せたね」


「そんなこと思ってないよ」


「あるさ。一ノ瀬さんにはもっと素敵な人がいるし、僕には平凡な幸せがお似合いだ。視野が狭くなっていたのかもしれないな。僕はつい妄想してしまうんだよ。もしかしたらボールをわざとぶつけたんじゃないのかって。一ノ瀬さんが僕に好意を寄せていて嫉妬したとか……ははっ、そんなことあるわけないのに」


「……本当にそうなのに」一ノ瀬さんが何かを呟いたが、僕の耳には届かなかった。


 僕はなんで自白してしまったのだろう。こんな事を言ったって笑われるだけなのに。どうしてか正直に告白しなければならないと思ってしまった。


 一ノ瀬さんが少し離れた。女子は人の好意によく気づくと言うから、僕の気持ちを知って気味悪がったのかもしれない。仕方のない事だけれどこれが正しい反応だと思った。


「……ごめん、急にこんなこと言われても困るよね。忘れてくれよ」


「………りつ君」


 こんな事を言おうと思っていたわけじゃないのに不名誉を塗り重ねることを止められない。汚泥に沈み込んでいく恥ずかしさが心地よいと思った。生暖かいヘドロがこびりつくような感じが一言一言にあった。言葉を吐き出すたびに肌がヘドロで覆われていくような恥ずかしさ……


 ……そのクダらなさに一ノ瀬さんも「……はぁ、もういいよ」と言い放つ。


 僕は安心感のような諦念ていねんを抱いた。……そのはずだったのに、ふいに心臓がドキンと飛び跳ねる。


「もういいよ。それ以上言うなら、そのうるさい口をふさいじゃうよ?」


「一ノ瀬さん!?」


「言って伝わらないなら、考えて分からないなら、もう無理やりにでも分からせるしかないじゃない?」


 一ノ瀬さんが僕の唇に人差し指を押し付ける。怒っているように見えるが、なんで……?


「本当に好きな人と分かりあうのってこんなに難しいんだね。何度も伝えようとしたのにいつも上手くいかなくてすれ違ってばっかり。ねぇりつ君? あたし、りつ君が思ってるほど清楚じゃないよ? 優しくもないし良い子でもない。だけど、受け入れてくれなきゃヤダよ?」


 ジッと見つめる瞳が怖くて僕は後ろ手にのけぞるが、一ノ瀬さんは乗り出して僕の太ももの上に左手をつく。近い。距離がとても近い。


「……………」


「あたしが本当に好きなのはあの人じゃなくて、りつ君。あなたなんだよ?」


 吐息が鼻にかかる距離で一ノ瀬さんは「ねぇ、好き……」と呟いた。思いもよらない事態に面喰っている僕はどうしたらいいか分からなくなって固まってしまって、


(口を塞ぐというのは、まさか、キスを――――?)


 一ノ瀬さんの目を、ただ見つめ返す事しかできなかった。


 目が離せなかったと言った方が良いかもしれない。


 徐々に近づく一ノ瀬さんの唇。さくらんぼのようにぷっくりとした唇がすぼめられ、「いいよね?」と目を閉じた。


 ああ、これはもう逃げられない。僕がそう観念したときだ。


「一ノ瀬さーん、上手くいったー?」


 保健室のドアが開いて小海さんが現れた。その手にはカバンが2つ提げられている。僕と一ノ瀬さんのカバンだった。


「きゃーーーーーーー!」


「うわあ!?」


 ガチャリという音に驚いた一ノ瀬さんがビクッと上体をそらしたせいで、体重を支えていた左手が太ももの上からずれた。そのために僕と一ノ瀬さんは抱き合う形になってベッドに倒れ込む。「ぎゃーーーー!」


「……あ、あぅ……あぅあぅ……」


「あ、えっと、大丈夫、一ノ瀬さん?」


「大丈夫なわけないでしょ! こ、ここここここんなエッチな恰好!」


 顔を真っ赤にした一ノ瀬さんが体を起こそうとするもベッドのシーツに手を滑らせて枕に頭を突っ込む二次災害。「ぎゃあ!」と、僕の頭のすぐ隣に顔面から突っ込んだ。


「うう……最悪、最悪だぁ………死にたい………」


 枕に顔をうずめたまま一ノ瀬さんがよわよわしく呟いた。


「あらあら、もう一線超えちゃったの? さっきまで告白できるかなぁなんて言ってたのに」


「おうみせんせーーーーーーーー!」一ノ瀬さんが寝転がったまま子供みたいに暴れる。腕がぺちぺち当たって痛い。


「小海さん……狙ってましたね?」僕が顔をしかめると小海さんは肩をすくめて「ここは学校ですから」


「続きがしたいなら帰ってからにしなさい」


「うぅ~~~~せっかくいい雰囲気だったのに!」


「そんだけ元気なら7限も受ける? せっかく早退する許可貰ってきたのに?」


「へっ!?」


 一ノ瀬さんがガバッと体を起こして「帰る! 帰ります!」と小海さんにすがりついた。渡りに船といった感じだが、何がそんなに嬉しいのだろうか?


「今度こそ。邪魔の入らない場所で」と一ノ瀬さんが呟く。


 邪魔の入らない場所で何をするつもりなのだろう。僕は悪寒を覚えた。


「一ノ瀬さんは高熱。四方山くんは頭部強打による意識の混乱って事になってるから大人しく帰ってね」


「はい! 大人しくします!」


「大人しくの意味……分かってる?」


「はい!」


 一ノ瀬さんはカバンをひったくると僕の手を取って昇降口に走った。去り際に小海さんが「あの子を守ってあげて」と呟いたように思うが、上手く聞き取れなかった。


「へへっ、あたしたち、とんでもないワルだね!」


 今日一番の元気な声で一ノ瀬さんが笑う。


「一ノ瀬さんさぁ……」


「なに?」


「……なんでもない。帰ろうか」


「うん、帰ろ!」


 僕は君を幸せにすることはできない。そう言いかけてやめた。


 下駄箱からクツを取り出して履いている僕の手を、じれったそうに一ノ瀬さんが引っ張った。


 こんな彼女がいたら素敵だろうなぁと思うけれど、この現実だけは、僕にはどうする事も出来ないのだ。


 僕が幸せにできる人なんていない。僕は生きるのに忙しいのだ。


 気持ちだけじゃあどうにもならない事がある。一ノ瀬さん。本当に、ごめん。

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