第11話


 小海さんのものすごい勘違いによって保健室が沈黙に包まれた。たしかに一ノ瀬さんは特別な人に向けるがごときの優しさを見せることがあるが、それは一ノ瀬まどかという人がいかに素晴らしい人かを知らないから勘違いしてしまうのである。


 僕のような端役にまで優しい所が一ノ瀬さんの人気の所以なのだ。小海さんは抜けている所があるから……。僕は申し訳ないやら恥ずかしいやらで顔向けできなかった。


「なんだかとんでもない誤解をされたみたいだ……一ノ瀬さん、ごめんね」


「……あはは、そうだね」


 一ノ瀬さんも不服なのだろう。顔を赤らめて目を背けていた。


 ああ最悪だ。一ノ瀬さんには素敵な彼氏(平均すると中の上という意味である)がいるのだから恋仲にあると勘違いされるのは屈辱に他ならないはずだ。いや、屈辱とまでは思っていないかもしれないけれど、月とスッポンほどの差がある僕だから、恥ずかしいとは思っているかもしれない。


 僕は悔しさをかみ殺しながら「ごめん」と言った。


 こういうふうに無事を泣いて喜んでくれる彼女がいたら幸せだろうなぁと思うが、僕には過ぎたる願いである。


 僕は自分の人生を生きるので精一杯なのだ。


 彼女のようなとびきりの幸福よりも、平凡な幸せがあれば良いと思っている。


「でも、無事でよかった」一ノ瀬さんが取り繕うように言う。本当に優しい人だ。


 僕は一ノ瀬さんの気遣いに感謝した。「うん……心配してくれてありがとう」


「うん。その……ボールをぶつけてごめんね」


「……一ノ瀬さんが悪いわけじゃないよ。僕が避けられなかったから……」


「ううん、あたしが打ったボールだもの……」


「そう、なんだ……」


 とても気まずい。どうして言葉が出ないのだろう。どうして胸が苦しいのだろう。僕は急激に喉が渇くほど緊張していた。


 どうしてドキドキしているのだろう。


 答えは明白だった。小海さんが変な事を言ったからだ。


 場違いな、劣等感にも似た恋心だった。勘違い甚だしくも僕は喜んでいた。ああ認めよう。なんと言葉を取り繕っても隠せないこの心は恋だ。僕は一ノ瀬さんに恋をしていた。度重なる彼女との逢瀬に僕は舞い上がっている。その結果がこの羞恥しゅうち。何と恥ずかしい男だろうか。自分というものがまるで見えていない。


「ごめん、嫌だよね。僕が彼氏なんて……」


 自己保身とは名ばかりの不名誉で自分を塗りたくるこの恥ずかしさ。やるせなさ。


 ……彼氏とのキスを見ているからなおさら苦しかった。


「そんなことないよ。りつ君はとってもかっこいいよ?」


「……いや、そうでもないよ。僕がかっこいいわけがない。一ノ瀬さんの彼氏になんてなれるわけがな――――」


「そんなことない!」


 突然、一ノ瀬さんが怒った。


「い、一ノ瀬さん……?」


「りつ君はかっこいいよ! だってあたしを救ってくれたんだよ!? 普通あんなことできないし、できたとしても名乗らずに隠そうとするなんて普通しない! あんたは自分で思ってる以上にかっこいいんだから自信を持て!」


 一ノ瀬さんはキッと顔をあげるとベッドの端に手をついて僕の顔を覗き込んだ。


 なぜ怒られるのだろう? 一ノ瀬さんはクラスメイトを啓発するためにこんな事までするのだろうか? いささか行き過ぎているようにも見えるが……


「あたしは、顔が良いだけの人は嫌いだけど……自分に自信が無い人はもっと嫌い! もっと自信を持ってよ! なんでそんなにうじうじしているの!?」


「……だって」


「だってじゃないよ! あたしがどれだけりつ君の事を………!」


「……泣いてる?」


「あたしが、あたしがどれだけりつ君の事が好きかなんて…………あんたに分かるわけないよ………」


 一ノ瀬さんが泣いた。僕には何が何だか理解できなかった。


「えっと、涙を拭いてよ」


「………ばか」


「え?」


「りつ君のばか!」


 一ノ瀬さんは体を起こそうとした僕を突き飛ばして逃げ出した。僕は後を追いかけようとしたけれど、上履きのかかとを踏んづけてしまってつんのめった。まだ少し頭がくらくらしていた。


 一ノ瀬さんと入れ違いに小海さんが戻ってきた。


 一ノ瀬さんが走り去っていった方を見つめて「青春だねぇ」などと楽観的な事を言う。


「ちょっと待ってなよ。ちゃんと連れ戻してくるから。もう6限始まったし、先生には出られないって伝えちゃったからね」


「………僕は、どうしたらいいんでしょう?」


「自分で考えな~」


 小海さんはヒラヒラと手を振って保健室を出た。


 僕は、どうするべきだったのだろうか。

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