第9話
一ノ瀬さんはそのまま席に居座って僕と昼食を食べている。
「ミルクティーってさ、美味しいの?」
どうしたというのだろう。僕には興味が無くなったのではなかったのか?
「美味しいよ。ただこのここのミルクティーはロイヤルミルクティーといって、いささか甘すぎるけれど」
「え、ミルクティーってぜんぶ甘い物じゃないの?」
一瀬さんが驚く。「甘過ぎて苦手だったんだけど」
「違う違う。本場のミルクティーは甘くないのだ。僕はそっちの方が好きなんだけど、そもそも日本のミルクティーは作り方が独特なんだ。本場のミルククティーは紅茶を作ってから牛乳を入れるのに対してロイヤルミルクティーと呼ばれる日本のミルクティーはお湯と牛乳で茶葉を煮たてて」
「じゃあ甘いほうが好き!」
一瀬さんが言葉を遮った。それで正解なのだけど、少し悲しい。
「…………」
「あたしは甘々な方がいいなぁ」
「さっきは甘過ぎて無理とか言ってたのに……僕は少し苦い方が好きだね」
「嘘だぁ、四方山くんも甘々がいいんでしょ?」
「何を根拠に言うのだ」
僕が学校のミルクティーを常時飲んでいる事は事実だが。それと好みは別だ。
一ノ瀬さんは「嘘だね」と言ってそっぽを向く。「だって、とおる先輩と付き合ってるからあたしが嫌いなんでしょ。ビターな恋は嫌いなんだよね」と、何か呟いたようだが、例によって僕は聞き逃した。
「なんか言った?」
「別に!」
それからしばらく沈黙が流れた。もくもくと生姜焼き弁当を消費していると、先に食べおえたらしい一瀬さんがまた口を開いて、
「ね、四方山くんは料理上手なの?」と訊いてくる。
「さぁ……食べるために作ってるから、上手い下手は考えたことがなかったな」
「変な言い方。まるで作ってくれる人がいないみたい」
「……………………」
「もしかして、聞いちゃいけないこと?」
僕が黙り込んだことを察して一ノ瀬さんが上目遣いに顔を伏せる。
聞いちゃいけないわけではないけど、今は上手く話せる自信が無い。
僕ははぐらかそうとして「昨日怒ってたいくつかの理由のうち大部分を占める事だけど、聞きたい?」と返した。
一ノ瀬さんは神妙な顔をして呟いた。「大部分………」
「そう。話せないわけじゃないけど、いまは、整理する時間が欲しいかな」
「そっか、怒ってたのって、あの先輩たちが原因なの?」
「……おおよそは、そうだね」
一ノ瀬さんのキスの現場を見て気が動転していたのもあるけど、嫌な思い出のある吹奏楽部に絡まれた事も確かに原因だった。
混乱しているところに嫌な記憶のフラッシュバックというダブルパンチであったのだが、思い返してみると一ノ瀬さんの事はきっかけに過ぎなかったのだと思う。
この人の事は嫌いになれない。しかし柏田さんや桜坂さんも悪くない。僕の心の問題だ。
「昨日も言ったでしょ。あそこから連れ出してくれて感謝してるって」
「たしかに言ってた」
「でしょ? それなのに怒ってしまって本当に申し訳ないと思ってるよ。置いて帰ってしまってごめんなさい」
僕は頭を下げた。
……というか、言えた。あれだけ言えずに
一ノ瀬さんは人の心を開く天才なのか? こういうところも人に好かれる
いまだってほら、あんなに安心したような顔で「良かった……嫌われてなかった」と胸を撫でおろしている。
僕は一ノ瀬さんにとって石ころなのだろうけれど、それは子供のように純粋な、すべてが素敵に見える心で見た石ころなのだろうと思う。この世のすべてが素敵な物で溢れていると信じてやまないような純粋な心。それが一ノ瀬さんにあるのだろう。だから僕のようなヤツにさえ気を遣ってくれるのだろう。
「君は、本当に素敵な人だな」
「ふぇっ!? なに!? なんで!?」
「だって、僕みたいな奴にも優しくしてくれるだろう? こんなトーヘンボクにさ。そんなこと一ノ瀬さんにしかできないよ。ありがとう。久しぶりにこんな爽快な気持ちになったよ」
「……あぅ、褒めすぎ」
一ノ瀬さんは頬を赤らめて俯いた。この人はなんて謙虚なのだろう?
「ああ、いまなら何でも言えそうだな。たとえば……君に幸せになって欲しいとか」
「えぇっ!?」一ノ瀬さんが驚いてお尻を浮かせた。
「驚くことはないだろう? 一ノ瀬さんのような人は良い人に恵まれるべきだ。精神的にね。精神的にかっこいい人に幸せにしてもらってくれ。そうすれば僕も嬉しい」
「……それって四方山くん。いや、りつ君。りつ君みたいに?」
「うん?」……りつ君?
「りつ君みたいにかっこいい人と付き合うべきだってこと?」
驚いた。一ノ瀬さんはこんな冗談を言う人だったのか。表情は真剣だったけれど、そういう種類の冗談もあるのだろう。
僕はいささか面喰ったけれど、いまならそんな冗談も素直に受け取る事ができた。
「ありがとう」
僕は一ノ瀬さんの彼氏になれるような男ではない。自分の事で精一杯で、生きる事に忙しい。でも……
「僕も、一ノ瀬さんみたいな可愛い彼女が欲しいと思うよ」
そう願うのは贅沢な事だろうか。でもこれは冗談。現実はそうならないから言えたのであって、もし本当に付き合うとなったら、一ノ瀬さんは僕に幻滅するだろう。だから絶対に言えない。口が裂けても言えないことだ。
「……みたいなじゃ、嫌だよ」
「え……?」
「みたいなじゃなくて、あたしは、りつ君が―――――!」
一ノ瀬さんが何かを言おうとしたときに、5限の予鈴が鳴った。
「おっと、次は体育だったか。早く行かないと男子が着替え始めるぞ」
「……うん」
物足りなさそうな顔をした一ノ瀬さんが教室を出ていく。
僕はその背中を見送って、手まで振った。
まったく清々しい気分だった。
ただ去り際に「……ばか」と呟かれたことだけは不思議だった。
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