第7話


 さて、学校を後にした僕はスーパーへ寄って食材を買い、マンションに帰って夕食の準備に取り掛かった。


 僕の部屋は郊外にあるマンションの3階にある。そこで一人暮らしをしていた。なんてラブコメ主人公っぽい設定なんだ! とか言うやつはグーで殴ってやる。僕だって望んで一人暮らしをしているわけではない。


 僕の両親は昨年亡くなった。詳しい経緯は語れない。自分の中で踏ん切りがついていないから。


 来月が2人の命日で、吹奏楽コンクールの全国大会が夏休み中にあったと言えばなんとなく察していただけるだろうか。


 四月。入学式はなんとか出たものの、やっぱり気は晴れなかった。それどころか、にわかに忽然こつぜんと高まった希望が玄関を開けたとたんに打ち砕かれた。


 最近ようやく覚えた料理。カレー。肉じゃが。オムライス。そうめん。あとカップ麺。


 一ノ瀬さんのことにかかりきりになっている暇など僕にはない。明日を生きるので精一杯なのだ。


 家族に守られてぬくぬくと暮らしてきた子供がいかに脆弱な存在であるか。僕はこの1年で嫌と言うほど思い知らされた。調味料の場所とかタオルがどこにしまってあるかとか、洗濯の仕方。掃除の仕方。料理の仕方。それらを学業と同時にこなそうと思えば1日が24時間では足りないこと。お風呂は意外とワンボタンで沸くこと。僕は自分の人生で手一杯なのだ。


 あの人のことは気になるけれど、というか、今日のことはちゃんと謝らないといけないのだけれど、それはそれとして、僕にはやらなければいけないことが山ほどある。


 今日は豚肉が安かったから生姜しょうが焼きに挑戦してみようと思う。


 もうそろそろ1周忌なのだから、いつまでも落ち込んではいられない。実家の管理は親戚に任せて僕は一人暮らしを始めた。


 誰も知らない土地で、心機一転やり直すつもりだった。両親の遺産はあまり多くないけれど、近くに手頃なバイトも見つかった。


 遺産にはなるたけ手をつけないようにバイトをたくさん入れた。


「……味が濃すぎる。まぁ、眠気は覚めるけど……」


 今日はコンビニでバイト。夜9時から早朝までの深夜帯のシフトだった。


 僕はフライパンをそのまま皿にして、炊き上がった白米も一緒にぶちこむ。無駄に明るいメロディがお風呂が沸いたことを告げた。


     ☆☆☆


 同時刻。一ノ瀬さんの私室。


 学校から帰った一ノ瀬さんはご飯を食べてお風呂を済ませ、ふわふわのパジャマに着替えたあとで課題&予習&復習に取り組んでいた。高校生のかがみのような人だと思う。こんな有意義な夜を僕は過ごしたことが無い。


 ピンクのしましまのパジャマを着て勉強机に座る一ノ瀬さんはそれだけで絵になると思う。夏だからホットパンツだし、なんて色情的で可愛らしいのだろうか。ぷっくりとふくよかな太ももがLEDの光を浴びて白く輝くのである。僕がここにいたら思わず見つめていただろう。しかし、僕は語り手として存在しているのみである。悲しいかな、その絶景を見る事は叶わないのであった。


「……ふぅ、こんな所で良いかな」


 一ノ瀬さんは頬杖をついて時計に目をやる。もう午後10時を回っていた。彼女の日課ではそろそろ勉強を切り上げて寝る時間である。教科書類を手に持ってとんとんと揃えると、「えいっ」とカバンにぶち込んだ。


「今日はいろいろあったなぁ。とおる先輩に呼び出されたと思ったらB棟には変な人が待ってたし、とおる先輩が助けてくれたと思ったら全然違う人だし……りつ君には嫌われちゃったし……」


 散々な1日だったなぁ……とため息をつく。


「行かなければ良かった、あんなとこ……。りつ君が来なかったらどうなっていたことか……いや、とおる先輩が助けに来たのかな。あたしをわざと怖がらせて、助けて体の関係を迫るつもりだった……なんて、考えすぎかなぁ」


 一ノ瀬さんはのろのろと立ち上がると机に目をやる。そこには僕が残した書き置きと、僕の古典のプリントがあった。何度も見返したのか、書き置きの方はしわしわになっていた。


「筆跡が一緒。ミルクティーと一緒に書き置きを残すのも一致。ご愁傷様っていう口ぐせ。これだけ証拠を残しておいて名乗り出ないなんてひどいよ……りつ君」


 なんと、彼女にはとっくにバレていたのである。今日やけに僕に接触してきたのはすべて昼休みの事を問いただすためであった。僕のダンディズムはすべて無駄だったわけだけれど、一ノ瀬さんの心には深く印象に残ったようで、「かっこいいけど……あたしは甘えたいよ」と、恋する女の子のように上ずった声であった。


 彼女はスマホを立ち上げる。ロック画面は僕の寝顔だった。バイトに疲れて居眠りをしているところを盗撮したのであろう。学校の机につっぷして横を向いているところを真正面から捉えていた。それがロック画面の背景に設定されているのである。恥ずかしいから消して欲しいのだけど、見つめる一ノ瀬さんの顔は気が抜けたように緩んでいた。


 一ノ瀬さんは写真の僕の頬を人差し指で撫でて「かわいい……」と呟く。


 と、そこへラインが一件。


『君に会いたい』という、とおる先輩からのラインだった。


 一ノ瀬さんはとたんに空気がまずくなったように感じた。


『ごめんなさい。夜は外出できないんです。また明日お話しましょう』


『でも、俺はいますぐ可愛いまどかに会いたいんだ』


『怒られてしまうからダメです。それにいまはパジャマなので恥ずかしい』


 いつもいつも夜になって送ってくるなよ、と一ノ瀬さんはため息をついた。


(一時の性欲でラインしてこないで欲しいなぁ……彼氏ならあたしの生活リズムを尊重してくれたって良いんじゃないの? 嫌な人だなぁ)


 付き合った事を後悔していた。告白されたから付き合ってみたけれど、顔が良いだけで中身がまるで無いことに一ノ瀬さんは辟易していた。


『じゃ、せめていつもの見せてよ』


 いつもの。


 その言葉がどれほど屈辱だったか、僕には計り知れない。


 一ノ瀬さんは叫びだしたい衝動を堪えてパジャマのボタンに手をかける。


「もうイヤだ……助けて、りつ君」


 スマホのカメラを起動して、写真を撮る手が震えていた。

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