第6話


 教室まで戻ると一ノ瀬さんが申し訳なさそうに頭を下げて、「ごめんなさい、りつ君。割って入るつもりは無かったのだけど、顔色が悪そうに見えたから……」


「それはいいんだけど……その、りつ君って呼び方……」


 苗字の方すらあんまり呼ばれた事がないのに、いきなり下の名前を呼ばれても困る。


 一ノ瀬さんはハッと気づいたのか顔を赤らめて「ご、ごめんなさい……その、嘘をつくのに仲良しアピールしなきゃって思って」と俯いたままさらに頭を下げた。


「ちょっとちょっと……そんなに頭を下げられても困るよ」


「ごめんなさい、ごめんなさい……」


 いったいどうしたというのだろう、この人は。


 僕は胸の不味い物を飲み込んで「助けてくれたのは嬉しいけど、仲良しだなんて、そんな嘘をつかなくても良いよ」と苦笑いを浮かべた。


 しかし、どれだけ言っても一ノ瀬さんは顔をあげなかった。


「私なんかが友達だなんて、迷惑だよね……」


「そういう意味でも無いから!」


「でも、じゃあ……」一ノ瀬さんはチラッと顔をあげて、「どうして怒っているの?」と上目遣いに言った。


「……………」


 顔に出ていたらしい。


「怒ってる……よね。私なんかが間に入ったから」


 一ノ瀬さんは機嫌を伺うような声で一歩近づいた。


 僕は一歩下がって「感謝は、してる」


「なら……………」


「…………ごめん、言えない」


 彼氏とキスしているところを見て怒っているなんて、言えない。


 帰り支度を始めた。


 あんな現場を見て、どうして動揺しているのか自分でも分からない。一ノ瀬さんはもともと雲の上の存在じゃないか。


 僕は何を思いあがっていたのだろう。


 こうやって話しかけてもらえるだけありがたい、道端の石ころなのだ。


 これがラブコメなら、これから一ノ瀬さんとの淡い恋が始まるはずである。


 しかし、困った事に僕はただのモブキャラなのだから、一ノ瀬さんの優しさを際立たせるためのモブキャラクターに過ぎないのだから、明日以降、僕達が関わる事はないのである。


 そして現実なら、なおさら嫌われたはずである。


「一ノ瀬さんは、素敵な人だと思うよ」


「……え?」


「僕なんかに話しかけてくれて本当にありがとう。でも、B棟まで、わざわざ何をしに行ったの?」


「それは……言えない。恥ずかしいから……」


 一ノ瀬さんは小声で「あなたを追いかけてなんて言えるわけないでしょ!」と早口に言った。が、僕には聞き取れなかった。


「そっか………それって」


 昼休みの続きをしに行ったの? とは、言えなかった。さすがに。


「…………ごめん、帰るね」


 僕はカバンを手に取ると教室を後にした。


 我慢した僕は偉いと思う。


 教室を出てしばらく歩いた。


 振り返ると、一ノ瀬さんはまだ教室にいて、小刻みに震えながらスカートの裾を握りしめていた。何がそんなのショックなのか、しばらく動かなかった。


「………………」


 僕は敢えて孤独を選んだが、人を拒絶したいわけではない。


     ☆☆☆


 ところが、ミルクティーを買って戻ってみれば一ノ瀬さんは教室にいなかった。


「帰った……わけではないよな。カバンがあるし」


 僕は帰らなかった。帰っても良かったのだけど、あんなにへこんだ一ノ瀬さんを放っておくほど鬼ではないし、僕は彼女の人生に舞い降りた1つの石ころなのである。僕のために感情を突き動かされるのは間違っていると思った。


 そうそうに仲直りして、さっさと彼女の歩む人生からサヨナラしよう。それが正しいと思った。


 僕が手に持った2杯のミルクティーをどうしようかと悩んでいると、ふいに誰かが泣きながら教室に入ってくるのが見えた。


「ふぇぇぇぇぇん………りつくんどこぉ? ………怒って帰っちゃったのかな………嫌われちゃったのかな………イヤだよぅ……りつくん………りつくん………」


 それは、涙で顔をぐしゃぐしゃにした一ノ瀬さんだった。


 シャツの裾をスカートからはみださせて、胸元のリボンもほどけている。よほど走り回ったのだろう。そんなに悲しい事があったのだろうか?


 一ノ瀬さんが僕の名前を口にしている理由が分からず、


「……は?」


 僕は呆気にとられた。


 そうする間にも一ノ瀬さんは僕の前を通り過ぎて自分のカバンを手に取る。


「りつくんにしか言えないことなのに、明日になったら話聞いてくれるかな……仲直りしたいな……できるかな………」


「……いやいや、目の前にいるんですけど」


 ほとんど話したことのない人と険悪になっただけでどうしてここまで感情的になれるのだろう? あるいはそれが一ノ瀬さんの良さなのか。この人はしかるべき人に幸せにしてもらう権利があるように思った。その相手は僕ではなく、もちろんとおる先輩とやらでもない。


 僕が「おぅいおぅい」と手を振るとようやく気付いたらしい。


「りつくん、りつくん…………りっ――――――――」


 と、目を丸々と見開いてフリーズした。


「僕を探していたんなら、ごめんね。一ノ瀬さんに謝ろうと思って、その、さ。ミルクティーを買いに行ってたんだ。あげる」


「……え、あ、え………………あ?」


 一ノ瀬さんは壊れたロボットのように僕を振り返り、呼び求めた相手に全部聞かれていた事を悟ると、給湯器のように顔を真っ赤にした。


「一ノ瀬さんは本当に素敵な人だね。わざわざ仲直りしようと探してくれてたんだ? ありがとう。僕も怒って悪かったよ。ちょっと余裕が無くてね。だから、これで仲直りしよ――――――」


「きゃーーーーーーーー!」


「………………」


 バッとスカートをひるがえして、レースのパンツが丸見えになるのも構わずに一ノ瀬さんは逃げ出した。


 本当に何なんだろう、あの人は。


 僕は呆れ果てたけど、あれが一ノ瀬さんがみんなに好かれる理由だろうと思った。クラスメイト一人一人の事を真剣に考えて、みんなと対等な付き合いをしようとする。その姿勢にみなが感化されていくのだろう。


 勉強が出来て、人間が出来ていて、そのうえ容姿まで整っているのだから、みなに好かれるのは当然だ。


 僕のような端役にまで気を遣うのだから、誰か、良い人を見つけてくれると良いと思った。


 僕にしか言えない事があると言っていたけれど、そんなことは決してないと思う。一ノ瀬さんなら色んな人が力になってくれるはずだ。


 僕は自分の分をからにすると、もう一つの紙コップを一ノ瀬さんの机に置いて書き置きを残す事にした。


『これを飲んでいつもの一ノ瀬さんに戻って。君には笑顔が良く似合う』


 彼女の行方は気になるけれど、探しに行くのはお門違いなように思ったので、僕は帰った。


 その後戻ってきた一ノ瀬さんが書き置きを見つけて、


 涙をこぼして、


「…………そんなこと言うなら、あんたが、笑顔にしてよ」


 と、メモがぐしゃぐしゃになるまで抱きしめて泣いた事は、さておく。

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