第5話


 腹に溜まった不快な物がうねるような気持ち悪さがある。吐き出そうとえずいても胃の中からは何も出ず、頭痛の日に長距離走をさせられたような気持ち悪さが絶えず僕を襲った。


 一ノ瀬さんのキスを見てしまったことが原因であることはすぐに分かった。


 好きでもないのに。ただ言葉を交わしたことがるというだけなのに。


 それなのに、この劣等感はどうしたことだろう。


 今すぐ心臓を掻き出して投げ捨てたいほどの屈辱はなんなのだろう。


 彼女をピンチから救ったことで優越感を抱いていたのだろうか? 我ながら思い上がったものだ。僕はただのクラスメイトでしかないというのに。


 そして現実が明らかになったやるせなさがこの気持ちの正体なのだろうか。


 僕は放課後の校舎をあてどなく歩いた。どこをどう歩いたのか分からない。どこへ行こうというつもりもなかったけれど、一ノ瀬さんには会いたくなかった。


 無意識のうちに彼女の行きそうなところを避けているうちに、僕はB棟まで来ていた。


 やけに耳障りな音がすると思ったら、吹奏楽部の巣窟に足を踏み入れてしまっていたのだ。


 下手くそではないけど上手いとは言えないBのロングトーンが頭の中でグワングワンと反響した。もうコンクールまで時間が無いというのに、なんだこの腑抜ふぬけた音は。楽器の腕は基礎練をどうやるかで決まると僕は思っている。この学校の吹奏楽部の成績は思わしくなかったと記憶しているが、こんな音じゃあ全国を狙えるわけがない。


「……嫌な事を思い出した。帰ろう」


 くるりと振り向いた時だった。ゴチンと硬い物にぶつかって、僕は面食らった。背後に誰かいたのに気づかなかった。


「あいててて……なんだ?」


「あなたは……」


 その人は僕とぶつかったのに微動だにしていなかった。驚きに我を忘れているように見える。


「ん?」


「も、もしかして四方山くん!?」


「えっと……?」誰だろうか?


「四方山くん、四方山くんですよね! ほら、去年全国に出てたひや中の!」


 ひや中。日山ひのやま中学校の略称だ。全国大会初出場で惜しくも2位だった。僕が在籍していた吹奏楽部がある学校の名前である。そして僕が初の全国大会出場のメンバーだった学校の名前でもある。


 それを知っているということは、この人は吹奏楽関係者、ということだろうか。なんだか、どこかで見たことあるような……? でも、会った事は無いはずだ。


 不審な目で見つめているとその人物はわたわたと頭を下げて、


「あ、えっと、柏田です。柏田ゆき。2年生、で、今度、部長になるそうです……」


 目の前の女子がそう言った。身長は僕と同じくらいの165センチ。僕の方が5センチほど高い。体型はかなりほそく、頭から爪先までがつまようじのようだった。そのくせ随所ずいしょに女の子の丸みがあり、無駄な肉がついていないせいか、その女の子的膨らみが強調されているようだった。


 あまり自信が無いのか消えそうな声で、伝聞のように次期部長を明かしたその人こそクラリネット奏者の柏田ゆき。ソロコンテストで全国優勝したことがある実力者だった。


「柏田……? ああ、雑誌で見たことあります。先輩もここだったんですね」


「ううぅえぇ? 私の事をご存じなので?」


「え、まぁ、同じ号に僕達の取材が載ってたので」


「うう……吐きそう………」


 柏田さんは口元を押さえてうずくまった。


「え、ええ!? 大丈夫ですか?」


「大丈夫じゃないです……緊張で死にそうです……」


 どうしようどうしようどうしよう。蒼い顔をした柏田さんが壁に手をついて小刻みに震えている。本当に吐きそうなくらい苦しそうだ。


「え、ど、どうしたら………」


「わ、私の目の前から消えていただけたら治ると思います……」


「ひどい事言いますね!?」


 僕がおたおたしていると、ふいに柏田さんの腰元から「ほっとけほっとけ」と声がした。誰だろうと声のした方を見ると、そこには小さな女の子がいた。


「………中学生?」


「違わい! 部長の桜坂さくらざかだ! 誰ががきんちょじゃ!」


 身長140センチくらいの女の子が腰に手を当ててそう言った。現部長ということは……3年生!? とてもそうは見えないのだけど、僕はとりあえず謝っておいた。


「そこまで言ってないんですけど……すいません」


「ふん、まあいい。柏田は緊張するとすぐ体調を崩すんだ。全国大会じゃ余裕そうだったのに、対人はからっきしなんだよ」


「はあ、難儀なんぎなものですね。木管はなおさらきついでしょうに……って、大会は平気だったんですか!?」


 僕などは全国大会前日のホテルで死にかけていたというのに。


 部長さんもそこが不思議なのか「こいつの緊張のツボがよくわからんのだ」と肩をすくめた。


「しかし柏田がここまで緊張するということは、君は相当な実力者とお見受けする。君、名前は?」


 部長さんがジロリとめ上げてくる。小さいのになんだこの圧力は。


 僕は巨人と相対しているような気分になって、「はぁ、四方山です。四方山、立です」と心持ち丁寧に自己紹介をした。


「よもやまりつ……ね。なんだか立方体みたいな名前だな。響きは丸いのに」


「ほっといてください。じゃ、僕は帰りますので」


 僕はきびすを返した。もとより長居するつもりもなかった。柏田さんに捕まったからここにいただけで、本当はとっくに帰るつもりだったのだ。


 吹奏楽が嫌いなのではない。ただ、吹奏楽部の活動のせいで起こった不幸が、相関的に嫌いにさせているのだ。


 ここにいるとどうしてもあの事を思い出してしまう。


 と、今度は消えてくれと言っていた柏田さんが僕を捕まえた。蒼い顔で。


「か、帰っちゃダメです……」


「どっちなんですか!?」


「あの、私の事は認識せずに部長と話していただきたいのです………本当に、ほっといてもらって大丈夫なので………」


 どうしよう? 振り払いたいけど、でも、こんなに体調の悪そうな人を振り払うわけには……と僕が困っていると、ふいに後ろから誰かに引っ張られた。


「帰るよ、りつ君」


「い、一ノ瀬さん……?」


「初めまして先輩方。あたしの友達を困らせないでください。りつ君とは一緒に帰る約束がありますので失礼します」


 一ノ瀬さんはそんな事をさっさと言うと僕の手を引いてB棟を出た。


 その横顔が怒っているように見えたのは、なぜだろうか。

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