第3話


 僕はまっすぐ教室に戻った。5限目は古典だった。昼食を食べた後の古典ほど優れた睡眠導入剤は他にないだろうと思う。僕は教科書を用意しながら、同時に居眠りを隠すための城を築き上げる。


 授業開始5分前。


 クラスメイトが何やら騒がしい。


 原因は一ノ瀬さんの顔が赤い事らしかった。


 一ノいちのせまどか。それは男女問わず仲の良い完璧と言っていいほどのラブコメヒロインだった。裏表の無い笑顔。思わず見とれてしまう美しい所作。言葉遣いは朗らかで、品の良いテノールの声が聞く者の鼓膜を包み込む。顔立ちはアイドルさながらの器量良し。


 毛先まで整った長い黒髪が育ちの良さを伺わせ、154センチの体躯とスラッと伸びた手足がお人形のようである。それでいて太ももはムチムチとしており、発育途中の胸が若葉のような膨らみを作っているのだから、男はその艶めかしさに目を奪われる。


 そんな彼女の衣服が乱れて目に涙を浮かべていたのだから良からぬ話題が飛び交うのは当然だろう。


 クラスメイトがわっと彼女を取り囲み「大丈夫?」だの「何があったの」だのの言葉を浴びせかける。


 しかし一ノ瀬さんは気が動転しているように辺りを見回すばかりで意味のある言葉を返さない。


「大丈夫だよ……なにもされてない、される前だったから……」


「本当に?」


「される前って……」


「何かあったらすぐにいいなよ?」


「うん、ありがとう……みんな優しいね」


「でも、本当に大丈夫なら、大丈夫って言わないからさ」


「そうだよ! 私たち友達なんだからいつでも頼ってよね!」


「そう……? じゃ、何かあったらみんなに甘えちゃおうかな」


 一ノ瀬さんがニッコリ笑う。


 大した事ないと言っているのだからほっといてあげればいいのに。そう思いながら教科書の城壁を築き上げていると、ふと大勢の視線を感じた。


 どうやら彼女の周りに行かなかったのは僕だけだったらしい。心ここに在らずといった様子の一ノ瀬さんがとぼとぼと席に戻るのを見送る途中で僕の存在に気づいたのだろう。何だアイツはと言いたげな多くの視線が僕にぶつかった。


 一ノ瀬さんの席は僕の前の席である。


 どう見たって大丈夫ではないクラスメイトを見て心が痛まないのかと責められているようだが、お前たちのうち何割が本当に心配しているのかと僕は問いたい。


 大丈夫だよと言う人が本当は大丈夫ではないとよく言われるが、そういうネットで見かけた事を我がもの顔で言いふらす人間があの中に潜んでいる事を僕は知っている。


 彼らのうち何割かはそういうきれいごとを素敵と信じてやまないようだけど、大丈夫だと返されて満足している方がよっぽど軽薄なのではないのか。


 人を心配する事を義務のようにとらえ、心配したらそれで終わり。「本当に大丈夫なら大丈夫と言わない」などと言って一歩踏み込んだつもりになってハイ終わり。一ノ瀬さんの心がどうなろうが自分は心配したのだという免罪符を得ればそれで良い。


 彼らのうち何割が免罪符を得るために心配をしているのだろうと考えると、一ノ瀬さんはいじめられているようにも見えた。彼女の味方はいないように見えた。


 それなら最初から無関心を貫いた方がいさぎよいと思う。


 形ばかりの優しさこそが人を傷つけるもっともひどい行為だ。それは崩れかけの橋のようなもので、いつでも渡っていいよと言いながらいざ渡ろうとしたらあっけなく崩れ落ちる。いざ助けを求めたら助けてくれない。


 最初から手を差し伸べないほうがよっぽど優しいと思う。


「一ノ瀬さん。ご愁傷様」


「えっ?」


 僕は仕方なしにそう言った。


 同調圧力に屈したわけでは無いが、敵を作るつもりもないので「ご愁傷様」とだけ言っておいた。深い意味は無い。口ぐせなのだ。心配しているけど優しくはないドライな言葉。使い勝手が良いので気に入っているのだ。それに、一ノ瀬さんはクラスのアイドルだから、やっぱり僕も恋をしていた(……のだと思う)。


 一ノ瀬さんは驚いたように目を見開いて僕を見つめた。


「……まさか」


「ん?」


「まさか、あんたみたいなのがね………」


「よく分からんけど、失礼なヤツだな。授業が始まるぞ」


「言われなくても分かってますぅ」


 一ノ瀬さんは前を向いた。


 禿頭とくとうの肥満型の男性教師(40代後半)が教壇に立ち授業開始の合図を出す。


 日直が号令を出して、不揃いな礼をする。


 さて寝るぞと教科書を開いた時、一ノ瀬さんの背中に目が留まった。


 夏服の良い所は生地が薄く、女子の下着が透ける所だと思う。彼女たちはそれを理解していて体操服だのキャミソールだのを中に着ているのが常だったが、その時の一ノ瀬さんは中に何も着ていなかった。


 どこかで見たことのあるピンクのブラジャーが薄っすら透けていた。


「……まさかね」


 僕は呟いて、うつ伏せに寝た。

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