ゴブリン

「御無礼」

 草鞋のひもを固く結びおえた新六郎は、岩の上を走った。

 パレオから充分に距離をとり、刀を抜いた。中段に構え、何度も振ってみた。

 ──夢ではない。

 新六郎が夢の中でまともに走れるようになったのは、武士の子にしては遅いほうだった。十六歳の時に、ひどい戦──二代将軍秀忠ひでただの本陣まで崩されそうになるほどの苦戦を乗り越えてから、ようやく神気しんきの量が増し、睡眠時にも手足の先まで気が回るようになった。

 しかし、夢の中でこれほど違和感なく刀を振れたことはない。刀の重み。先端までの距離。何度振っても変わらない。まぎれもなく、本物の刀である。

支度したくは、およろしくて?」

 とパレオが言った。

 新六郎は刀をさやに納めてから振り向き、無言で頭を下げた。

「ダンジョンには、魔物が出ますわよ」と、さらにパレオが言った。「この拠点きょてんを出たら、すぐにおそいかかってきますわ。熱い攻略にしていきましょう」


 そうだ。大久保屋敷でパレオは、ダンジョンを攻略すると言っていた。なぜそんなことをしたいのかは知らないが、パレオから話を引き出すためには、このまま乗っておくべきだろう。

 刀を帯にさした小平次が、パレオに言った。

「パレオ様。もしも槍がございましたら、拝借はいしゃくつかまつりたく」

「ありますわ~」

「あ、いや、拙者が取りもうす」

 ふたたび唐櫃のほうへ向かおうとしたパレオをさえぎって、小平次は唐櫃へ駆けよった。そして中から、一本の大身槍おおみやりを取り出し、こちらを向いた。

「新六郎殿。貴殿は、どうされる?」

「それがしは、脇差わきざしを」

 槍持ちを連れて来ているわけでもない。新六郎は身軽さを優先した。

「脇差──」

 と呟いた小平次は、それで何かを思いだしたのか、新六郎に脇差を手渡してから、自分が入っていたのであろう桶のほうへと向かった。

「あらまあ」パレオが口元に手をよせて笑った。「脇差を握って寝ましたの? 武士ですわね~~」

 小平次が桶の中から取り出したのは、愛用の脇差だった。どういう仕組みになっているのかわからないが、小平次ごとダンジョンに送られたらしい。

 ──そういえば。

 新六郎が入っていた桶の中の様子は、眼に焼きついている。盥の中に入れた二両の小判は、そこにはなかった。

「お高そうな刀装こしらえですわね~~」

 小平次の脇差を見ながらパレオが言った。

鎧兜よろいかぶとは、ござりませなんだな」

 そう言う小平次は、寝間着ねまきの着流しである。新六郎も同様だ。

「それもまた需要ですわ~~」とパレオは言った。「少々のお怪我けがなら、わたくしの魔法で治しますわ。それでは、参りましょう」



 【D級ダンジョン ゴブリン迷宮】



 ──は?

 パレオが「拠点」と言った場所を離れ、岩で囲まれた細い道を抜けた直後、眼の前に楷書かいしょで書かれた文字らしきものが見え、そして薄れて消えた。

 思わず足を止め、小平次のほうに顔を向けると、彼も足を止めて虚空を見つめている。

「新六郎殿……いま、くうにダンジョンと……」

「いかにも。それがしにも見えました」

 もう、どこにも文字は見えない。

 これも魔法であろうか。

「来ますわよ」

 とパレオが言った。

 広い道の先、十五けんほど離れたところに、緑色の何かがあった。その緑は、こちらへ近づいてくる。そして走りだした。

 何らかの生き物であるようだ。身のたけ三尺ほどの猿のようにも見えるが、体に毛はなく、肌の色は緑。手には木の棒のごときものを握り、二本の脚で走っているが、どう見ても人ではない。

「パレオ様、お退がりを!」

 小平次がパレオの前に出て、槍をしごいた。その槍につらぬかれた緑の何かは、胸から赤い血をいて、すぐに動かなくなった。

 ──これが〈魔物〉か!

 生き物のように死んだ、ように見える。

「ゴブリンですわ」

 と死体をしてパレオが言った。

 ゴブリン。

 さきほど見えた片仮名は、魔物の名前だったのか。

「このダンジョンではあちこちに出てくる、弱い魔物ですわ。囲まれなければ、どうということはありません。参りましょう」

 それだけ言ってパレオは、かかとの高い履物はきものの音を響かせ、ふたたび歩きだした。

 ──囲まれたら、どうする。

 新六郎は、二荒山ふたらさんの山中で猿に囲まれた時のことを思い出した。

 ──あれがもし、武器を持つ猿であったら。

 たやすい相手とは言えない。


 とはいえ、ここは人間にとって、山の中よりは有利な場所である。

 樹上の見えないところから猿が飛びかかってくるようなことはない。岩の天井は三間槍さんげんやりくらいの高さであるし、何よりも、

 ──ここは明るい。

 の光が届くような場所とは思えない。篝火かがりびかれているわけでもない。それなのに、岩肌の細部まで見てとれるような明るさが、ここまでずっと続いている。

「パレオ様。この光はどこから」

「光があるのではなく、闇が薄いのですわ」

 とパレオは答えた。

「わたくしたちがダンジョンにいる間、世界はまばたきをいたしませんわ。御身おんみらその生命いのちの終わるのち、幾百年にもけるが如く伝えらるる長き時間のあるを知るか、ですわ」

「わかりませぬ」

 夢の中で寝言を聞かされているような気になってきた。

「結局、わたくしたちには何もわかりませんわってことですわ~~」

 そう言ってからパレオは、新六郎の肩を叩いた。そして、左前方を指差した。

 新六郎はそちらを見た。

 岩肌に大きな穴があいている。横道か。

「匂い立ちますわね~~。きっと宝箱がありますわ!」

 いきなりパレオが走りだした。速い。横道に入っていく。新六郎と小平次は、急いで後を追った。

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