チューバー
深夜。
自分の屋敷に戻った新六郎は、いつもとはまったく違う
──この盥の中でなら、たしかに眠れそうではある。
足を洗ったり、赤子に産湯をつかわせたりするような小さな盥ではない。馬の脚が四本いっぺんに
新六郎は、盥の中に横たわってみた。思った以上に、ここちよい。木の香りが鼻から胸へと流れこんでくる。
枕元には、二両の
──わたくしは
とパレオは言った。
──未来をつくるのは予算ですわ!
とも言っていた。
人はいつかダンジョンへ行くことになる、とパレオは言った。パレオの魔法とは、
パレオの使う言葉や細かい話については、何を言っているのかわからないことのほうが多かったが、大づかみな理屈としてはわからなくもない。江戸から京へ旅をする場合でも、着くのがいつになるのかは金次第である。
大坂へ大軍を送った時には、すさまじい量の金が江戸と
西へ向かって行進する兵たちの背中。無数の小判や
そんな絵が見えた時、新六郎はすでに眠気にとらわれていた。
遠くから声がきこえてくる。
誰かが歌っている。
なにわのむこうにじゃがたって
はちまんてんしゅのおにむすめ
よくもたったりたくんだり
あしわるぶたのくつをはき
うでわらんげのときをまき
パレオの声だった。
そのことに気づいて、新六郎は目を開けた。
左右を見ようとした新六郎の頭は、もう枕の上に乗ってはいなかった。新六郎はもう、盥の中にもいなかった。
いつのまにか、座っている。暗闇の中で
立ち上がろうとした新六郎は、何かに頭をぶつけた。それと同時に、やわらかい光が眼の中へ入ってきた。
──
新六郎は、大きな桶の中にいた。新六郎の頭に押しのけられて地に落ちたのは、その桶の
──これではまるで。
新六郎は、
左を見ると、そちらにも大きな桶があり、桶の脇には呆然とした顔の小平次が立っていた。
新六郎は桶から出て、裸足で地を踏んだ。岩の感触だ。上下左右、どちらを見ても周囲は岩だった。
広い
そして、二人からやや離れたところに、空色の衣を着たパレオもいる。パレオの
その櫃の中からパレオは、
小平次は片膝をついて、それを受けとった。
新六郎は、とまどいながら小平次の
貴人から草鞋を手渡されるのは生まれて初めてのことである。どう対応してよいものか、新六郎にはわからなかった。パレオの立ち居振る舞いを見る限り、それなりの礼法がある国から来た身分の高い者と思われるが、やはりあまりにも異様である。
そして、そのパレオの言うとおりに、夢のような異変は起きた。
──格別に奇怪な夢を見ているだけなのかもしれないが。
新六郎は、問わずにいられなかった。
「パレオ様。
「チューバーですわ」
と、パレオはまたわからぬことを言った。
「そう、わたくしはチューバーでしたわ。そしてダンジョンこそがチューバーの居場所。ああ。ダンジョンにいると、もっと大切な何かを思い出しそうになりますわ」
ぜひとも、思い出してもらいたいものである。
「チューバーとは」
「チューブを使う者ですわ」
「チューブ。チューブとは、いかなるものに」
「
「つなぐもの……」
「たとえば、
管を使う者。管を通す者。
「して、そもそもダンジョンとは」
「ヨーロッパの言葉ですわ。こちらの言葉でいうと、
「てんしゅ!」
小平次が大声をあげた。
「小平次殿。城の天守に」
新六郎は訂正した。パレオが指で宙空に書く文字を読みとるのは、新六郎のほうが得意であるようだ。
パレオがうなずく。
「ええ、お城で一番高い建物ですわ。それから、お城にある
天守と牢獄。まるで違うものである。それを一語でまとめてしまうような言葉は、日本にはあるまい。
だが、
──天守には、
そんな話が言い伝えられている城は少なくない。
そのような怪しげな話を除いても、やはり「天守」という言葉には、慶長以前の世の不吉さがまとわりついている。
家光の側近たちは、将軍へ献上する書物にあらかじめ目を通し選定をおこなう〈
――言葉は毒にも薬にもなりうる。
新六郎が調査を命じられた大量の軍記の中には、明らかな作り話も多かった。天守と呼べるような建物などなかったはずの城にも、なぜか天守があったことになっている。
しかし、根も葉もない作り話の中にも、それを書き残した人間の作意だけは確かに含まれている。軍記の作者とは、なぜか「天守」という言葉を使いたがり、滅びた一族の最期の場をその「天守」にしたがるものなのである。
天守──
もちろん牢獄ではないが、どこか通じている。天守に立てこもり腹を切る間際の城主が、
今夜の大久保屋敷を思い出す。屋敷にいた大勢の奉公人たちは、パレオという奥座敷の貴人を守るための
そして今、その兵たちはいない。
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