大久保屋敷の客人

 新六郎がその女に会ったのは、霧雨が着物をゆっくりとらしていく秋の夜のことだった。

 その夜の大久保屋敷おおくぼやしきには、いつにも増して武人の鋭気がみなぎっていた。

 ──まるでいくさの前夜のような。

 空気が張り詰めている。

 そして、奉公人ほうこうにんの数の多さが尋常ではない。眼につく場所だけではなく、廊下の向こうのかげ、小部屋を閉ざすふすまの奥にも、人の気配がある。

 〈天下の御意見番〉大久保彦左衛門おおくぼひこざえもんの屋敷である。この古豪ふるつわものの邸宅は、もとより警備に抜かりのない場所ではあったが、それにしても今夜は度を越えている。

 新六郎と小平次を門前から座敷まで案内した最古参の用人ようにん──笹尾喜内ささおきないの顔つきも、普段のものではなかった。緊張をさらに通り越し、もはや疲れきっているように見える。


 そして通された二十一じょうの座敷では、これもまた普段とは様子の違う彦左衛門と対面することになった。しわと古傷だらけの彼の顔にも確かに疲労はうかがえるが、それ以上に眼はき活きとしており、十歳ほど若返ったようにも見える。

「ようこそお越しくだされた。采女正うねめのかみ殿。豊後守ぶんごのかみ殿」

 彦左衛門は、やけにあらたまった様子で二人に声をかけてきた。

「新六郎で良うござる」

「小平次で願いまする」

 相手は、ただの旗本はたもとではない。例外中の例外と言ってもいい古老ころうである。将軍家光へじかに物申すことも許されている〈天下の御意見番〉だ。新六郎も幼いころから、彦左衛門にはよくしかられてきた。今さら作法さほう通りの付き合いなど、御城おしろの中だけにしておきたい。

 それに、

 ──もしも必死の戦ともなれば。

 この老人は、作法など振り捨てて怒鳴り回るに違いないのである。

 新六郎の初陣ういじんは、十五歳の時だった。そして最後の戦は、その翌年のことである。総兵力では明らかにまさっていたが、局地的には苦しい戦いになった。血飛沫ちしぶきと煙の中、周囲の大人たちは何守なにのかみ殿何少輔なにのしょう殿などと呼び合ってはいなかった。斬り込むぞ平三へいざ弥太やたはどこにいる、と大声で叫んでいたのである。

 慶長の世に生まれ、戦の経験は少ない新六郎だが、今でも戦場あちらこそが〈本当〉だったような気がしてならない。


松平長四郎いずのかみ殿にも──」

 戦乱の世の残り火のような老人が口を開いた。

「もちろん申し上げておくつもりではありましたが」

 やはり、重要な話があるらしい。

 今夜は長四郎も非番だったが、彼は招待を辞退した。彦左衛門に対して何か思うところはありそうな男だが、今夜は本当に多忙だったのだろう。ここ数日、参覲さんきん登城とじょうの際の編制と行進の作法について、調べ物をしているようだ。これもおそらく、〈武威〉のためであろう。

「明日にでも、それがしが伝えまする」と新六郎はこたえた。

阿部作十郎やましろ殿には拙者が」と小平次も続けた。

 彦左衛門はうなずき、「三浦左兵衛しまのかみ殿と堀田三四郎でわのかみ殿にも必ず。そして、他言たごんは御無用に」と付け加えた。

 将軍の側近六人のみに伝えておくべき話だということか。

 いや、

酒井雅楽頭うたのかみ様には」

「先日、言上ごんじょうつかまつった」と彦左衛門は答えた。「すでに土井大炊頭おおいのかみ様たちも御存知ごぞんじのこと」

 只事ただごとではない。

 〈本丸筆頭ほんまるひっとう酒井雅楽頭さかいうたのかみ

 〈西丸筆頭にしのまるひっとう土井大炊頭どいおおいのかみ

 最上位の重鎮じゅうちんたちへ真っ先に伝えられた話であるらしい。そして、そこから新六郎たちに、これまで話が降りてこなかったのも不気味である。

「雅楽頭様におかれましては、家光うえ様へ如何いかに申し上げるかについて、あまりのことに難儀なんぎされておられるとのよし。それも無理のないこと。まずは新六郎殿と小平次殿に、その、まずは見ていただきたい」

「見て、とは何を」

「当家の御客人おきゃくじん。それから夢を」

 よくわからないことを言いながら、彦左衛門は次のに控えている喜内のほうへ顔を向けた。

 立ち上がった喜内は屋敷の奥へと去り、すぐに一人の女を連れて戻ってきた。


「お初にお目にかかりますわ! パレオとお呼びくださいまし!」


 新六郎も小平次も、とっさには挨拶あいさつを返すことができなかった。

 なんとも、奇態きたい格好なりをした女である。

 空色のころももすそ。いたるところに、白い襞飾ひだかざりが付いている。

 半端はんぱわれた髪の色は、黄金色こがねいろだった。

 数十年前の南蛮趣味なんばんしゅみ、といった程度のものではない。堂々たる気品と調和がある。そもそも、男ならいざ知らず、奥南蛮ヨーロッパの服を着た女など、新六郎は絵図の中でしか見たことがなかった。

 ──これは只人ただびとあらず。

「太田、新六郎にござる」

「阿部小平次と申すっ」

 新六郎は頭を下げたが、どのていど下げてよいものかわからず、見苦しく上下に波打たせることになってしまった。小平次は、胸が膝についてしまうほど深く頭を下げている。

 ──いったい何者か。

 服と髪に気をとられ、中身を見ていなかった。

 新六郎は顔を上げ、もういちど女の姿を眼に焼きつけた。


 女にしては背が高い。五尺二寸ごしゃくにすんを超えている。腕がやや長い体型だ。

 服のせいでわかりにくいが、体重めかたは十五かんもあるまい。

 力がありそうには見えない指だが、小さな手で大猿のような力を出す者もいる。油断はできない。

 利発りはつそうな眼をしている。顔に古傷は一つも見当たらない。鼻や耳がつぶれた形跡けいせきもない。

 とはいえ、武芸の心得こころえはありそうだ。立ち姿に、崩れたところがない。表情には商家の女特有のにこやかさがある一方で、武家の娘であるようにも見える。

 髪の色と衣服の異常を脇に置いても、やはり不可思議ふかしぎな女だった。

「パレオ様、こちらへ」

 彦左衛門が己の右斜め前を示した。パレオはそこに着座ちゃくざし、新六郎たちと向かい合う形になった。

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