第13話 サチ 5
オノが差してくれた傘は大きくはなかった。傘の下にふたりは入れない。
指で露先を押して、オノの方へと寄せる。するとすぐに、またわたしの方へと傘の軸が傾く。
半袖のワイシャツの肩も金髪も、半分以上が雨に濡れていた。
「……オノ、濡れちゃうよ?」
「大丈夫」
こちらを見ずに言う。
駅までの道は舗装が悪い。あちこちへこんだアスファルトにはすでに水が溜まっていた。
二人でふらふらと、水たまりを
同じ傘の下にいるわたしたちは、
落ちてくる雨からも、歩くたびに靴底から跳ね上がる水からも、脚、腕、襟元に、ぺったりとまとわりつく湿気を感じていた。
雨の匂いがつよくする。
いろいろなものにぶつかった雨粒は、中にそのいろいろな匂いを閉じ込める。それが空気中に巻き上げられたものが雨の匂いだ、とかなんとか。カシワギがそう言っていたのを思い出す。
側を通る国道からは車のクラクションの音がした。
「……あのさ、引っ越すこと、誰にも言わないでくれてありがとう」
「……約束したからな」
オノに『好きだ』と告白されたあとに『引っ越すんだろ?』と訊かれた。
母親同士が商店街で顔を合わせたときに話をしたらしい。わたしは肯いてから、『誰にも言わないで欲しい』とお願いをした。
「先生たちにも内緒にして欲しいって話してあったから。助かった」
「……なんで? さっきの……ナチには?」
疑問にも、薄情なヤツだと責めているようにもとれるニュアンス。
「言わないよ」
「……」
「オノしか知らない」
あの日、夕方の商店街を歩きながら。
わたしはオノの好意に『ありがとう』と返事をした。
わたしたちはそれだけだった。それ以下でも、それ以上でもない。でも、あえていうのならば、秘密を分かち合う「共犯者」という言葉が似合うのかもしれない。
「それで、いいのか?」
「……」
ナチだけには言えない。ナチに言えないのなら、誰にも言えない。
オノの問いには答えなかった。
「……今日で、最後の帰り道だった」
「ごめん。でも、顔を見たら……どうしてもコミネと話がしたかった」
「……うん」
オノのことはキライじゃない。そういう意味では『好き』なのかもしれない。話がしたいと思ってくれたことは、単純に嬉しかった。
だけど、ナチをカシワギと残したくもなかった。
もし……断っていたのなら、オノを傷つけていたのだろうか。
「ナチ……あいつ、俺のこと、睨んでた」
「ああ……」
思わずくすりとしてしまう。
「ナチはね、不器用な子が苦手なんだよ。……でも、いい子だよ」
オノは口の中で「不器用……」と、小さく繰り返した。
「……いつか、帰ってくるのか?」
「んー、わからない」
「……遠いな」
「うん」
オノはゆっくりと歩く。わたしの歩幅に合わせようとしたのか、時間がほしかったのか、雨で歩きにくかったのかはわからなかった。
いつもよりも時間をかけて、駅までの道を歩いた。
上りのホームの屋根の下。待合室のベンチにオノと座った。
反対側の下りのホームにも、人はほとんどいなかった。
落ちてくる雨を眺めながら、多くも少なくもない共有の思い出を話した。
電車がきても乗らなかった。ふたりで何本か見送った。
空が白くなると雨が小降りになりはじめ、やがて止んだ。ホームにアナウンスが入る。線路の向こうに黄色い車両の先頭が見え始めた。
電車はホームに滑るようにして停車する。
オノはベンチから立ち上がった。
それを座ったまま見上げる。
「コミネ」
「うん?」
オノは真っ直ぐにわたしを見た。
ナチよりも薄い茶色の瞳。
視線の雰囲気が……ふたりは似ているのかもしれない。ふと、そんなことを思った。
「元気でな」
「……オノもね」
ありがとうは言葉にしない。
電車の扉が開く。
くるりと背を向けたオノは片手を上げた。
そして、振り返らなかった。
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