海辺の女

十戸

海辺の女

 刻は夜半。

 三日月の照るなかを、憑かれたように足は進んだ。

 やわっこい砂を踏む、ぐにゃりとした感触を覚えては忘れる。

 吹けば消し飛ぶような紙の月。紺青の空。象牙の砂浜。

 それぞれに鮮やかで、けれど調和に満ちている。

 これほど完璧な風景を前に、形容する言葉は無力だ。世界は精密に美しかった。

 何にもまして、いま目にしているものたちは完璧以上の完璧さをもって自分と対峙しているように思われた。

 ひとつとして誤ったところがない。自然というものには。

 はじめから存在していることの過不足ない美。


 青黒の、ざわめく波にも似て拡がった松林。

 彼はそのなかで、泳ぐように溺れるように、空を掻きわけるような身振りをしながら歩いている。

 夜を往く足取りは忙しなく、それでいて奇妙な穏やかさを持ってもいた。


 あかい木の干からびたうろこが、それぞれ好き勝手に、めちゃくちゃな恰好で生えている。

 鬼の角にも似た、そのさま。

 けれどもそれらは、一方では朱塗りの鳥居を思わせもするのだった。

 夜気に震える息。

 外気は吸うたびのどの内側に爪を立てて傷つけた。

 吸いこんだ冷たさはそのまま、彼の身体の内側を痛みとともにめぐって苦しめる。


 ときおり砂に沈みながらも、二本の脚は動くことをためらわず淡々と進んだ。

 のどは渇き、腹は空っぽのまま、口のなかにはただ苦い味だけが押しあがってくる。

 もう何日も食べ物らしいものを食べていない。その気にもならなかった。

 口にしても、たいがい身体が嫌がって、吐き出してしまう。

 それならまだ飢えるほうが楽だった。

 雨水をすすり、川の水を、池の水をすすって、それがいまの彼にとっての食事だった。

 こんなところへ来てしまったのは浅ましい未練からだろうか。

 素足の裏に、波打つ木の根がざらりと当たる。


 彼は海へ行こうとしていた。



(考えた。同じことをもうずっと考えている。

 思っている、念じている、堂々めぐりをしている。

 いまこのとき、果たして俺の手には何があるだろう。

 今日まで生きてきて、俺がこの手にしたものとは何だろう?

 答えるように、身体が口の端を折り曲げて彼自身を笑う。

 何もありはしない、何もないさ、俺が手に入れたものなど!

 彼は認める、自分にはもう何も残っていないことを。

 かつて自分の傍らにあり、どんなものより大事に懐へ抱いていたものは、この身を捨てて去っていった。

 いまとなってはその喪失を嘆く気も失せてしまった。

 果たしてあんなものが――あんなものが、自分の手足の延長とすら思えたものが突然なくなってしまうなんてことが、あり得るのだろうか。

 この手。

 この指。

 この何より忌々しい頭を使って、俺はようやくこの世とのささやかな折り合いをつけていた。

 それなのに――それが、あんな一瞬の出来事で、俺自身に牙をむくようになってしまった。

 消えてなくなるのならまだしも、恨むように苦しめるだなんて、誰が思うだろう?

 この世ではときおり、現実でない天地がひっくり返るときがある。

 人の身のなかにばかりある天と地が。

 ただ当人以外は誰もそのことに気づかない。

 誰もが自分という窓を通してだけ世界を見ている)


 彼は、かすかによろめきながら吠え、右腕を闇雲に振り回しては、したたか木に打ちつけた。

 これまで何より頼みに生きてきた利き腕を。

 振り回す。

 当たる。

 痩せた肌は薄く水じみた血をこぼし、腕は見る間に赤く腫れあがった。


(画。

 画だ。

 自分にうまいものを描く能がないことは知っている。

 端からわかっている。

 俺の技量なんてものは高が知れている。

 紙も顔料も、いいものはひとつも買えやしなかった。

 うまくなろう、うまくなりたいと努めることはあっても、うまくなってやろうとは、ついに思わなかった。

 ただ描くだけでよかった。

 俺は心底幸福だった。

 俺は画工じゃない。

 それで飯が喰えなかろうと、人から莫迦にされようと構いやしない。

 ただ描きたかった。

 描くために働き、描くために喰い、描くために眠った。

 いつだってそれは俺の生きることの真ん中に居座っていた。

 しあわせだった。

 そのために生きることは)


 彼は海へと向かっている。

 でたらめに腕を苛めながらも。

 前方に拡がる波の音が、もうずいぶんはっきりと聞こえるようになっていた。

 それは青く、そこも見えないほど深い色を湛えて、彼の行く手に佇んでいるはずだった。


 松林はふいに途切れた。

 それだけで視界が明るくなった気がした。

 拡がっているのは空の蒼、海の藍。

 そのさなかに浮き上がる星々の無数の白さ。

 

 彼はいくらか呆然とする。

 そこはあんまり美しい眺めだった。


 彼は知らずに泣いていた。

 凝った何かの塊が、いくつも胸からのどを這い上がってくる。


(あれはもうどれだけ前になるのか)


 勤め先の問屋で、彼は梯子の上から落ちた。

 古い梯子の、足場の木が腐っていたせいだった。

 天井近くにいた彼は、そうしてしたたか頭を打った。

 石畳の上へ真っ逆さまに。

 半日昏倒した。

 ごとっと重たく硬い音がして、けれど痛みは感じなかった――その前に意識が逃げたからだろうか。

 それでも痛みのやつはじき追いついた。

 波のように寄せては消え、浮かび上がっては沈んでいった。

 気にならないほど小さなときもあれば、叫ばずにはおれないほど強いときもある。


 彼はうめいた。

 目眩がする。

 思わず足を止め、唸りながら額をおさえる。

 よろめいて木に縋りつく。

 長く短く、刺すように襲う痛み。

(また戻ってきた、俺から奪っていくために)


 その日から彼は描けなくなった。

 紙の上に筆を置く。

 顔料をつけた指を載せる。

 とたんにすべては一変した。

 無地の平面に、何かを描くということが、彼にはまるでできなくなっていた。

 それがどんな色だろうと同じこと。

 どんな線だろうと形だろうと。

 脳髄はゆれ、まっさらな画面に化け物が、幻が踊り始める。

 彼が描こうとするたび同じことが起こった。

 それでも歯を喰いしばって描いた画は、あとで見もせず破り捨ててしまった。

 耐えられなかった。

 そのままただ放っておくことすら。

 じきにそれは現実までも脅かすようになっていった。

 頭痛とともに、一切のものがまともな姿をなくした。

 渦を巻く色彩。

 付きまとう無数の影、崩れていく輪郭。

 

《いえ、調べても何もないんです。

 まったく大丈夫なんですよ、……》


 医者は山のような痛み止めを出して、とにかくそう言うばかりだった。

 薬を飲むと、たしかに痛みはぼんやりとした。

 頭も。

 身体も半分眠ったようになる。


 辛くはなくなっても、惨めだった。

 仕事もじき首になった。


(ああ、もっと薬を飲むんだった。

 まだいくらかは残っていたのに)


 膝を突いた先の砂はやわらかかった。


 金のないときにはよく、土の上に描いていた。

 石で。

 枝で。

 指先で。

 描いては消し描いては消し……。


 荒い息に立ち上がる。

 海まではあともう少しだった。


 と。


 彼は危うく声を上げそうになった。

 なんとなれば、女が。

 女がひとり、海上へせり出た崖の上へ、頼りなげに立っていた。


 線の細い肩。

 甘やかな潮風に、その鮮やかな黒髪が泳ぐ。

 その下に光る白い肌と白い服。

 暗闇に慣れた彼の目に、女の姿はやけにはっきりと映っていた。

 あれはきっと。


(身投げだ)


 思った瞬間、血の気が引く。

 間の抜けたことに、彼はたまらず走り出していた。


「あんた!」


 彼は女の肩を掴もうとした。

 ここへ来た自分の目的も忘れて叫びながら。


 そうして、彼は落ちて行った。

 目の前にいたはずの女をすり抜けて。

 伸ばした腕はやすやすとその肌を通り過ぎた。

 どす黒い海面が、見る間に迫ってくる。


 懐かしい感覚だった。

 どこかで安堵すら感じていた。


 走り出したままの速さで視界が回転する。

 万華鏡のめまぐるしさで。

 空と海と星と。

 荒々しく鋭い岩肌と、なおも変わらずそこに立った女と。


 彼が海に着く一瞬に、女は、彼を見てにっこりと微笑んだ。

 ようやく見えた顔は美しかった。

 見覚えのある面貌。

 女は彼の顔をしていた。

 同時に、それはかつて自分の指先からあらわれてきた、すべてのものだった。

 それらのすべてを集めて微笑みかけるものだった。


 彼は思わずそのままの恰好で、いまや遠い微笑みへ手を伸ばし、すべてのものの女はただじっと、永遠に続くかと思える落下の時間に彼を見つめていた。

 見つめながら微笑み続けていた。

 いつまでも。


 一声笑う誰かの彼の声が、波の音に砕けながら漂った。

 あとにはただ、何事もなく美しい夜だけが残り――。

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海辺の女 十戸 @dixporte

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