それは霊か、幻覚か――



「おい」

 特別棟のトイレのドアを叩き、由佳は言う。


「……ちょっと訊きたいことがあるんだが」


 だが、中は、しんとしている。


「居留守か!?」


 中に閉じ込めているのに、勝手に何処かへ行けるはずがない。


 しばらくすると、溜息らしきものが中から聞こえた。


『都合のいいときだけ頼るな。

 私の話など聞かぬくせに』


「変なジジイが入ってきたぞ。

 お前、何かしたか?」


 ふーん、と子供は扉の向こうで少し考え、言う


『所詮、お前ごときが作った結界だ。

 幾らも綻びはあるだろう』


「明路に力が戻ってるし!」


『お前……ほんっとーに人の話を聞かないな』


 いっそ清々しいな、と言われてしまう。


『今、結界は開いてないぞ。

 一瞬開いただけだろう』


 どうやら気配を探ってくれたようだ。

 いや、逃げ出そうとしたのか。


『これからもこういうことはあるさ』


「うるさい、黙れ」

と言ったあとで、気がついた。


 今、『こういうことはあるさ』と言った言葉のあとに、自分の名前が続いていたことに。


 黙り込む自分に、扉の向こうのモノは嗤う。


『莫迦め。

 術をかけるとき、己れの存在を明らかにするだろうが。


 そうでなくとも、私は、此処の子供たちのことは、みな知っているがな』 


 だから、返せ、と子供は言った。


『これが本当に明路のためになると思ってるのか?


 こら、待て。

 お前、居なくなったな?


 だから、なんで人の話を聞かんのだっ!』


 由佳は廊下で足を止め、振り返る。


 トイレの中で、『あれ』が盛大に自分の名前を呼んでいたが、どのみち、誰にも聞こえはしない。


 明路にはわからないが……。

 

 ひとつ、溜息をついて、人気のない授業中の廊下を見る。


 誰も居ない。


 何もないそこを見ていると、恐ろしくなる。


 それがこれから続く未来のような気がして。


 誰も助けてはくれない。


 誰にも頼れない。


 すべては自分一人ではじめてしまったことだから――。

 


 あと すこしで


  みんな……

 

 

 えーと。

 おじいさん、おじいさん。


 明路は慌てて、あの老人を頭に思い浮かべようとした。


 左手首を握り締める。

 力を調節するように。


 頭の中に幾つもの光景がよぎった。


 霊が見えそうになるとき、視界を走るものだ。


 その中のひとつが気になった。


 誰かが傘を差している。


 傘の柄を握る繊細だが、大きな手は男のもののようだ。


 妙にその手が頭に残る。


「嬢ちゃん、嬢ちゃん、大丈夫かね」


 その言葉に、明路はそちらに意識を向けた。


 老人が心配そうに自分を見ている。


「ああ……すみません」


 ほっとしながら、明路はそう答えた。


「ちょっと、霊を見まいとし過ぎちゃって。


 ……おじいさんには見えませんでしたか? さっきの人たち」

と微かに薬品の匂いのする室内を見る。


「いや、なんかおったかの?」


 幻覚?

 あんなにはっきりと見えたのに?


 霊でさえないというのか。


 明路は左手首を強く握り締めて言った。


「私、普段は霊は見えないと言いましたよね。

 お祖父様の腕時計をはめていないときには見えないと」


 でも、それは暗示なんです、と明路は言った。


 細い自分の手首を目の高さまで上げて見つめる。


「『この時計をはめているときだけ、霊が見える』

 そう言われて、時計を渡されました。


 でも、それは一種の暗示だったんです」


 はめているときは見える。

 だから、はめていないときは見えない。


「でも、そんな、はめたら霊が見えるなんて言われるものをはめるわけありませんよね。


 でも、私には霊が見えた記憶がある。


 だから、ほんとうは、最初から破綻している暗示なんですよ」


 そう言いながらも、笑って明路は己れの手を見つめた。


 この時計をはめているとき以外は霊を見てはいけない。


 そういうことだろう。


「ま、そういう暗示は逆にも使えると思うがのう」

「逆に?」


「人の想いは何よりも強いもんじゃ。


 わしは強く念じたんじゃ、何度この学校の周りを回っても、塀の向こうへは行けんかった」


 だから念じた、と老人は言う。


「そしたら道が見えたじゃ。

 すうっと、こう、塀の中に続く道がのう」


「おじいさん」

と明路は呼びかける。


 先程まで恐ろしかった誰も居ない廊下を見つめて言った。


「探しに行きましょう? そのお堂。

 由佳が戻って来る前に」





 


 



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