母との軋轢

佐々井 サイジ

母との軋轢

 黒くて分厚い額縁の中に収まる母は口元を歪ませて笑っていた。小一から中三にかけて「あんたはブスやねんから学歴しか強みをつくれへん」という呪詛で私をがんじがらめに縛り付けて勉強させていた頃と同じ口元だった。マスクを着用していることを良いことに、私も遺影に向かって同じ笑みを浮かべてやった。


 遺影に入る母と目が合い、持ち上げた口の端を戻すや否や食道を焼きながら胃酸がせり上がってき、口内が不快な酸味に襲われた。マスクの外側から片手で口を覆いながらトイレに駆け込んだが、周囲から見れば母を失った哀しみに耐えられない様子と映ったはずだった。それはそれで癪だった。


 母はルッキズム原理主義というべき人だった。もちろんその時代はこの言葉自体浸透していなかったが、私の容姿については五歳の頃にすでに諦めていたらしい。ちなみに母にもお世辞にも美しい、綺麗という言葉を当てはめることはできない。それは母の高校時代の卒業アルバムを盗み見たときも同様だった。だからこそ「ブスは学歴で化粧せよ」という狂気じみた考えが根付いたのだろう。


 母は、顔のパーツが中央に寄っていた。その分、頬やえらが実際以上に大きく見えて、幼い頃にしていた福笑いの顔を彷彿とさせた。母は祖父に反対されて大学進学できなかったらしく、高卒で中小企業の事務員であり、どうやって父と出会ったのか不明なままだった。大人になっておおよそ娘に言えないで会い方だったのだろうと推測した。


 甲子園に行けなかった男が息子に夢を背負わすように、母は私に学歴を要求した。でもかつて忍者の郷だった滋賀県甲賀市付近に受験できる学校はない。遠くの学校に電車で通わせるほど裕福でもない。母は小学校の入学式の帰りに私を本屋に連れ、市販のテキストを買い込んだ。


 学校から帰った直後からたっぷり三時間、母は、私が椅子から離れないようにずっと隣で市販のテキストを教えた。わからないところやできないところは「なんでこんな簡単な問題わからへんねん」と怒鳴り散らかした。母が怒りに任せて投げた鉛筆は押し入れの襖に突き刺さったままになった。


 テストではほぼ毎回百点を取った一方、勉強は母と同じくらい嫌いだった。九十点や九十五点だと母に怒鳴られるので高学年になると机に隠したり、テストはなかったと嘘をつくようになった。毎回百点だと怪しまれるので、母の機嫌がまだ良いときに九十五点のテストを見せる知恵も手に入れた。


 高学年になり、塾に通い始めた途端、どういうわけか成績が下がり始めた。塾の先生の授業もわかりやすいし、塾のない日は相変わらず母に激昂され、唾の欠片を飛ばされながら勉強していた。一度母が電話で塾に怒鳴り散らしているのを聞いたことがある。


「高い塾代ドブに捨ててるのと一緒やないか」


 理由は明らかで私の実力が足りなかったからに尽きる。高学年になってから、算数の応用問題に対応しきれず、理科の物理や化学系に全く興味を持てず頭に入ってこなかった。文系分野のみに強みがあったが、それ以上に理系分野の足の引っ張りが強かったので、母が受けさせた中学にはあっさり落ちた。


 合否発表のため、中高一貫校の体育館に受験した子と親が集まった場で、母は私をなじった。


「あんたには学歴しかないっていうのに、こんなとこでつまずいてどないすんねん」


 同じ小学校の友達を二人見かけながら、体の奥からこみあげて来る怒りが涙となっていつまでもこぼれ続けた。母には謝り続けた。


 でも母は切り替えが早く、滋賀県でトップの公立高校に私を入れるように、塾に半ば強引に返金をさせ、違うところに転塾した。集団塾で学力ごとに四つのクラスに分けられる制度で私は一番下だった。公立の中学校では中の上くらいの学力だが、偏差値六十の生徒が集まる塾では雑魚of雑魚でしかなかった。


 周囲よりできない劣等感、母からの恫喝めいたプレッシャー、大勢の前で親になじられてできた見えない一生傷。中二の一学期期末テストで国語が88点だったとき、母は私の頬を思い切り打った。「高い塾代払ってなんで90点も取れへんねん」かろうじて保っていた細い糸のような理性はパツンとちぎれた。


 気づいたときには台所の包丁を抜き取って両手に持ち、母に突きつけていた。


「マジで刺す。刺す刺す刺す刺す刺す刺す刺す刺す」


 私を落ち着かそうとしたのか、母はいやらしく口元を吊り上げて「わかったから」と言った。こんなヤツ刺して人生棒に振るのはもったいないという思考が働いたのは幸運だった。


 以来、私は母になじられることが一切なくなった。塾も辞めた。勉強も辞めた。学校にも行かなくなった。自分の部屋を見渡すと母に押し付けられた市販のテキストが本棚にサイズごとの塊で収まっていた。すべて束にしてひもで縛り、雑誌ゴミの日にわざわざ母に玄関まで運ぶ様子を見せつけて捨てた。


 不思議なもので中三になるとおのずから受験への意識が芽生えてきた。あんなに押し付けられて嫌いになった勉強をしないといけない切迫感に襲われた。母の洗脳だと思った。結局洗脳が溶けなかった。せめてもの反抗として、お金のかかる私立専願で入学してやった。母は何も言ってこなかった。


 高校も平均的に勉強し、奨学金を得て大学に進学した。母に学費を出させているのは借金していることと同じと気づき、絶縁するためにお金の件をチャラにしたかった。バイトを掛け持ちし、貯金して高校の学費はチャラにした。今までの教育費や食費は母が勝手に望んだこととして返金対象に入れなかった。


 就職してからは両親との縁を完全に切った。付き合った彼氏にも両親を聞かれたときに交通事故で亡くなったことにした。結婚間近の彼氏と小さい言い争いから関係がギクシャクし別れたときに、本当に母が亡くなった。入浴中の心臓発作だったらしい。発見がかなり遅れて体が数倍膨らんでいた。


 喜びも無ければ悲しみも無かった。私を苦しめたバチが当たったと思った。中国に出張していた父はパフォーマンスか何か知らないが、棺に抱きついておんおんとむせび泣いていた。中学生のときに父の携帯電話を盗み見たときに恵子なる人から「明日エッチしたい」というメールを見て以来、父は嫌いだ。


 父は単身赴任だったが私が母に虐げられてきたことも気付いていたはずなのに、ことなかれ主義の旗手たる責任からか、一向に関わろうとしなかった。関わりたくないから単身赴任している推測はわりと的を射ているはずだった。そんな父がぶよぶよになった母の入る棺に抱きついても涙腺は刺激されない。

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