第6話 葦原の戦い

 パヴァーヌ王オーギュスト・ファン・ラ・セラテーヌから会談の要望が届いたのは、療養生活も7日目を迎えた日だった。この頃になると騎士たちの面会も許され、日々パヴァーヌ軍接近の知らせがアマーリエの元に届いていた。この日は、王が使いに託した書簡の文面を、主だった騎士たちが集まり、検討することになる。

「延期するべきだ。王が痺れを切らせて、この国に兵を向けるまで待つんだ。そうすれば、ギスカールも静観してはいられなくなる。なんとかして、共同戦線に持ち込まなければ…僕らだけでは太刀打ちできない」

 ミュラーは寝台に両手をついて、団長に力説する。

「ロベールがすんなりと、私たちを捕らえて差し出すかも知れないわ」

 ミュラーは反論する。

「無傷の軍勢ならば、パヴァーヌ王はこの国に宣戦布告する可能性はより高まる。ギスカールだって、それに気づいているから、騎士団に戦わせたいんだ。それに、この国はフラムの町とも交易がある。パヴァーヌ王が攻め込む姿勢を見せれば、ギスカールを味方につけさせるだけの提案が、どうにかできるはずだ」

 しかし、アマーリエは静かに返答した。

「決闘の結果は、神聖なものよ」

「双方が納得して挑んだ決闘じゃない!」

 アマーリエはミュラーの手に、自分の手を載せて告げる。

「ロベールの配下が外で聞いているのよ?あまり無礼なことを言うのは、あなたの構想に逆効果だわ。それに…パヴァーヌ王とはもう一度、腹を割って話してみたいと思っていたのよ。今は、彼の盤面に3国の趨勢が託されている。この状況にある今なら、彼の口もきっと軽くなるはずだわ」

 オラースが唸った。

「こんな辺境の片隅では、騙し討ちに合ってもおかしくないぞ」

「ロベールの前で?彼が聡明な君主ならば、その瞬間に、この国は先手を打つかも知れない。もし愚鈍な君主であったとしても、辺境騎士団が騙し討ちで壊滅させられた後に、お友達になりましょう、なんて王の誘いには、決して乗らないでしょうね。貴族の慣習は破らない…騎士国の王はそういう男よ」

 スタンリーが諌める。

「しかし、ミュラーの言う通り、一度くらいは引き延ばすべきだ。怪我もまだ、完治していないではないか」

「ロベールも、私の対応を注視しているわ。今は、どちらが味方として頼れる者なのか、彼に行動で知らしめるべきよ。傷は白鯨の神殿のおかげで、すっかり癒えた。すぐに支度します。みんなも儀礼用の甲冑に着替えて頂戴」

「アマーリエ、まだ完全に癒えたわけじゃ…」

 ミュラーの鼻先に指を当てて、アマーリエはさらりとした口調で言い返す。

「うるさい、しつこい、言うことを聞きなさい」

 ミュラーは一度、シーツを拳で握るが…ため息と共にその力を弱めた。


 葦原の境目で、両軍の代表者たちは対峙した。

 ピカピカに磨き上げられた全身甲冑と、家紋を刺繍した色とりどりの軍旗は、両軍の騎士たちの威風堂々たる姿をなお一層に飾り立てる。

 モルテ=ポッツの重鎮にあたる豪族たちや、好奇心旺盛な民たちが、遠巻きにその様子を見ていた。

 両軍の騎士たちのその威光たるや、見るものを慄然とさせ、同時に憧憬の念をも惹きつけた。

 双方に違いがあるとすれば、辺境騎士団の騎士たちの具足は泥で汚れていることだ。

 ここに来るまでに、どうしても泥濘の道を踏破せねばならなかった。

「これじゃ、台無しだ…また従者の愚痴を聞かねばならん」

 オラースの愚痴を投げかけられたワルフリードは、その言葉は聞き流し、鞍の上で背筋をピンと伸ばした。

「真面目な奴め…」

 双方の代表者は、従者を一人ずつ伴い、常足で馬を進めた。

「負傷した聞いたが、残念ながら壮健のようだな」

 王が先に口を開いた。まるで道すがら通りがかった知人に声をかけたかのような、気負いのない態度。

「王こそ、これまでさぞや多くの蛮族たちを討伐してきたのであろうに、まるでお疲れでもなく、甲冑には傷ひとつないご様子。君主会議の同盟軍として、敬服の念に耐えません」

 アマーリエの応酬を、王は鼻を鳴らしていなす。

「せっかくの機会だ。少しばかり話そうじゃないか」

「一晩でも、一年でも、お付き合いしますよ」

「それは上好。其方が許せば、儂は生涯寝床を一緒にしたいと考えておる」

「それは、嬉しいご冗談を…」

「否、本気だ…だが、今日のところは、兵たちが飢え死にする前に切り上げるつもりだ」

 二人は、互いに槍を伸ばせば届くほどまでに近づき、そこで馬を静止させた。

 王は、アマーリエの顔を厳しい表情でしっかりと注視し、対するアマーリエは冷めた表情でそれを受け止める。

「ここに至るまで、貴軍の墓は一つも無かった。よもやとは思うが、損害は皆無か?」

 アマーリエは事も無げに頷いてから、尋ね返す。

「弱き兵は先の連戦により、すでに土の中におります故…して、貴軍も?」

 王は困った表情を大げさに作り、渋々と応じる。

「当然…と言いたいところだが、そうもいかぬで。お前たちの軍勢が羨ましいばかりだ」

「最前線に騎士を立てれば、民兵の損害は減らせましょうに」

「なら、民兵をどこで使えと言うのだ?略奪か?それとも、戦勝の宴の給仕役か?」

 王は笑ったが、アマーリエは無表情のままだった。

「騎士を失うのは悲しいことだろう?一人失うごとに、税を納める者が少なくなるのだ」

「騎士は、税を徴収するだけです。納めているのは、民なのでは?」

「徴収する者がいなくなれば、誰も税を納めなくなるではないか」

 王は、さもありなんと答えた。

「ところで、お前の元に、儂の倅がおるのではないか?後ろには並んでおらぬようだが…」

 アマーリエは首を捻った。

「パヴァーヌ王家の血筋の者が、なぜ鹿も少ない辺境の地で、馬を走らせましょう」

「ハルトマンだ。あれは庶子で、放蕩者だが、誠の騎士である。潔癖すぎるほどの騎士だ。それが、問題なのだが…それはさておき、お前の軍勢に合流したと言う者がおる」

「妙な吹き込みをする者には、些か心当たりがございます…それは、もしかするとエルフの女性ですか?」

「尋ねているのは、こちらの方だ。おるのだろう?ぜひ、会っておきたい」

「その者から聞いてはおりませぬか…ハルトマンは、辺境の地で死にました。しかし、パヴァーヌ王家の血を持つなどという戯言は、本人の口からは、一切…」

「嘘を申しても判るぞ。儂には、魔剣の力なぞ必要ないのだ」

 アマーリエは肩をすくめた。

「確か…シュナイダー候マンフリード・フォン・シュタインフォルト…そう名乗る僭主との戦さにおいて。あれは、攻城戦の最中でのことでした…もし、本当にご縁のある方なのでしたら、心より、お悔やみを…彼の猛勇ぶりを讃えて、ハルトニアと名付けた村がございます。小さな墓所ですが、そちらにございます。ご所望ならば、機会をみてご案内をお引き受けいたします」

 王は2月の守護神、騎士神アルノルドのトリスケルを取り出し、印を切った。

「どうやら、嘘ではないようだ…。特に愛していた訳ではないが、弔ってくれたのであれば、それには礼を述べる。いずれ、天の軍勢において、あやつとは合間見えることになろう」

「この機会です。私からも質問を?」

「無論だ。君主会議の軍勢においては、互いの立場は対等だと、以前も申したはず。好きにするが良い」

「キングメーカーを名乗るエルフは、貴方の軍勢に?」

「それほど気になるのか…会ったことはある。この遠征の前に、ひょっこり現れよった。しかし、紋章官として従軍するようにとの誘いを断り、何処へと消えよったわ。実は後を着けさせておったが、街から出る前に巻かれてしまった」

 アマーリエは頷いてから、質問を続けた。

「どのような事を吹き込まれました?」

「質問は許したが、何もかも白状するとは申しておらぬぞ?」

「あの者は、この世が荒れ、混沌の坩堝と化すのを楽しんでいるのです。もたらす情報は、聞いた者を青図通りに動かすための布石。関わる者たちは感情を揺さぶられ、利益に踊らされ、やがて抜け出す事のできぬ激流に呑まれて破滅させられるのです。王には、あの者の奸計に嵌まらぬよう、ご注意を願いたい。疑う気持ちさえ芽生えておれば、ご聡明な王の事、それを見破ることも容易いでしょう。これは、質問でも、お願いでもなく、個人的な実体験から得た教訓と、どうぞご理解いただきたい所存」

「ふむ…忠告は受け取らせてもらおう。もとより…エルフの言葉には魔力が宿るという。それも古の種族ともなれば、それこそ吐き出す息にさえにもな…人族と思われてはおるが、その実はどうであろう。自然界に半ば溶け込んでいるような、不可思議な種族よ。そのような者が、人間たちが闊歩する街に出てくる…いずれにせよ、同族と折が合わぬ変わり者なのであろう。ところで、そのキングメーカーが持つ魔剣の名を、お前は知っておるか?」

「確か…冬の青空のように美しく輝く刀身でした。名は存じません」

「ならば、忠告のお礼に教えてやろう。パヴァーヌの言葉では、こう発音する」

 王は指を立てて、ゆっくりと発音した。

「シェルシェール=アジュール。意味は、青き探究者だ」

「探究が…呪い…」

「そう思えば、奴も哀れな男よ」

「女です。王よ…ロロ=ノアは女性です」

「ふむ…そうか。道理で…ブラボーと褒めた際に、眉を顰められた。こんな風に…なるほど、それでか」

 パヴァーヌの言葉には男性形、女性形、複数形と変化があり、ブラボーは男性に対する賞賛の意。女性に対してはブラーバ、複数に対してはブラーヴィと変化する。

「そうであった、これも聞いておかねばならん…」

 王は思い出しかのように、手を打った。

「馬鹿な話に聞こえるやも知れぬ。だが、こんな話を聞いたのだ…お前は、死人の兵を使うのか?」

 …。

「死霊の兵と言い換えても良い」

 アマーリエは笑って答えた。

「気苦労、お察し申し上げます。周囲には、些か楽しげな忠告者がおられるご様子にて」

 王は両手を腰に当てて続けた。

「ところが、世迷言と決めつけるわけには行かぬのだ。アドルフィーナの司祭を問いただしたところによれば、そういった奇跡を起こした者がいるという口伝が存在する…お前の守護神もあの戦神であろう」

「なるほど…先ほどの失礼をお許しください。そのようなモノを見かけましたら、改めてご報告させていただきます」

 和やかになった空気のまま、次はアマーリエが質問を投げかけた。

「時につかぬことを伺いますが…正直なところ、陛下の狙いは辺境の制覇にあるのでは?あ…つまりは、モルテ=ポッツもそれに含まれると言う意味ですが」

「クラーレンシュロス伯よ、兵を挙げるという事は、膨大な金と人手を要する。それは、身に染みておろう。一つの行動で、多くの目標を同時に達成するよう努力するのが、それを統べる者の責務であり、手腕を活かすべき事柄でもある。お前の言う通り、儂は貴国を負かし、辺境を掠め取り、可能ならばアマーリエ地方も手中にしたい。そう考えるのは自然な流れだろう。だが、完全な統治までは望んでおらぬ。それには、時間も掛かるし、民の信用を得るためには、治安の安定化と法の徹底、それにインフラも整備してやらねばならぬ。つまりは、さらなる投資が必要だ。駐屯させる兵たちも、反乱を諦めさせるほどには数を要する。もちろん、蛮族も討伐するぞ。グランフューメの大橋も奪還せねばならん事は理解しておる。そうせねば、せっかく手にしたものも、蛮族どもに奪われかねんからだ。良いか?誤解せずに聞いて欲しい。儂の願いは、穏やかな支配だ。大幅な自治を認めても良いし、税を取ることも許そう。ただし、その一部を…わずかな税だけを、我が国に納めてもらえば、それで良いのだ」

 アマーリエは、王の言葉に微笑みで返した。

 王は、ジェスチャーを交えて、懇切丁寧に語りかける。

「儂の傘下に治れば、エルフの女が何を目論もうが、蛮族たちが大挙して侵攻して来ようが、もう何も恐れる必要はない。お前は、辺境の開拓を続け、国を豊かにし、民を安んじれば良い。他国からの防衛も儂に委ねることで、その人的資源と物的資源の両方を自らが望む事業へと、全力投入することが出来るようになるのだ。此度のような戦のために、国力を削がれるような苦悩をせずに済むようになる。どうだ?互いに手を結び、西方諸国に抜きん出た広大な土地と、豊かな民が溢れる平和な大国を打ち立てようぞ!」

 王の振り翳した拳は震えていた。

「どうせ、負けるのであれば…それが賢い選択に思えて来る。そして次の陛下のお望みは、私との結婚…」

「はははっ。それも良いだろう!お前は、儂の好みだ。しかし、別居を望むのであれば、束縛はすまい。お前がアマーリエの地で暮らすのが望みであるのならば、それも許そう」

「そして…二人の子がパヴァーヌとアマーリエ、そして辺境を統べるのね」

「そうだ、だが…それはあくまで先の話だ。儂らが死んだ後に訪れる、新たな王国の物語だ」

 アマーリエは一度目を瞑り、微笑みを湛えたまま言葉を紡いだ。

「ヴァールハイトさえ無ければ、心が揺らいだ情熱的なお言葉でした」

 瞬時にて、王は表情を一変させ、途端に不機嫌な面構えとなった。

「ふん…想像以上に厄介な魔剣よ。どこに嘘が含まれた」

「おおよそ本心のようだけれど、それは今は…と言う条件付きで自分に努めて、言い聞かせながらのお話だったのでしょう。特に明確な嘘は、穏やかな支配、それは陛下自身、眉唾だと感じながらのお話でしたね。それ故に、思ったよりも、陛下は悪いお人柄ではないのかも知れない。一定の自由を約束するくだりには、真実を感じ取りました」

「ならば、ある程度の懸念は腹に収め、大人しく兵を引くのが、お前と、お前の民たちのためだと思うがな」

 落胆のためか、王の言葉にはすでに相手を圧倒するような熱意が失せていた。

「貴方の好みは、きっと冷徹で反抗心の強い女性なのでしょう?それとも、それを屈服させる過程が好きなのかしら?どちらにせよ、そんな貴方のお眼鏡に叶うためにも、貴方のご期待通りに、諦め悪く足掻いてみせますわ。でないと、折角の玉の輿を失いそうですから」

 王は口惜しそうに、手綱を叩いた。

「思い直せ、ここで兵を消耗するのは互いのためにならん」

「ごめんなさい…これが、あなたの愛する私の性分なの」

 王は突如として噴火した火山のように、激しい怒りを急に爆発させた。

「父殺しの反抗心を儂にもぶつけるのかっ!良かろう、明日の日の出と共に、葦原に侵攻する。儂を愚弄した罪を贖ってもらうぞ!今から生意気な小娘が、足元にひれ伏す姿を拝めると思うと楽しみでならぬわ!ポッツァンゲラの砦に籠るのならば、ロベールも同罪だと伝えておけ!病弱で武勇に乏しい貴族の倅など、相手ではない!二人まとめて蹴散らしてやろうぞ!」

「砦には籠らないわ!だって、必要ないもの!騎士の盾さえあれば、おふざけに興じるしかないヘタレどもの槍など、誰が恐れるものですか!せいぜい、命乞いの言葉を準備しておくのね!明日の夜にはきっと、役に立つ!」

 互いに馬を反転させて、自軍に戻る二人の君主を、両軍の騎士たちは困り顔で迎ることになった。

 しかし、アマーリエ軍勢の騎士、オラースだけはこれは痛快と大声をあげて笑った。

「だから言わんこっちゃない、これじゃ、会わない方が幾分かマシだった」

 彼の隣を素通りしながら、アマーリエは静かな、しかし強い口調で告げた。

「無駄口を叩く時間はないわよ。まずは、ロベールに砦の外は好き勝手出来るように交渉してくる。貴方たちは、明日の朝までに、やらないといけないことが山ほどあるのよ」

「…へいへい。何でもお命じあれ」


 翌朝、葦原を棲家とする小鳥たちが朝の到来を祝福しながら飛び交い、水鳥たちが綿毛の撥水力をメンテナンスする作業に夢中でいる時間、パヴァーヌ王オーギュストは選別した兵たちを引き連れて、葦原に侵入した。

 平原に駐屯させている騎兵2千のうち、5百だけを投入した。歩兵は3分の1の6千。騎兵の数は互角だが、装備、質の面では辺境騎士団を凌駕する。それは、辺境騎士団の騎兵は、騎士の他、裕福なものが提供する軍馬に提供者自身が騎乗したり、馬術に長けた者が代わりに騎乗する“一般階層“も含まれるのに対し、騎士国パヴァーヌでは騎乗しての戦闘参加は大変な名誉とされ、騎士階級、または男爵位以上を持つ者にしか許されていないからである。一般階級で軍馬に乗れるのは、斥候か伝令に限られる。戦闘訓練を受けていない常用馬や、荷馬はこれに含まれない。つまり、裕福が故に装備が豪華なのだ。今回の出兵にあたり同行した騎士たちは、とどのつまり実に2千名にも昇ることになる。ただし、領土を持つ正騎士はその中の一部に過ぎず、大多数は身分だけを得た放浪騎士や、領土を持たない市民出の高級官僚である男爵、または無視できない武力背景を持つ傭兵隊長であったり、豪族が拝命した成り上がり男爵たちが占めていた。ちなみに、パヴァーヌでは男爵と准男爵の地位は低く、騎士よりも劣り、土地に封じられた世襲貴族以上が、彼らを配下とする諸侯と呼ばれた。

 兎にも角にも、豊かな経済と広大な領土を誇る、それが騎士国と謳われるパヴァーヌの騎兵の数と強さとを支えていた。

 騎兵は、平地において無類の突破力を誇る。その反面、不足するのは制圧力となるが、王はそれを十二分に補える数の歩兵戦力も所持していた。例えるならば、騎兵は槍で、兵は金槌だ。切り刻み、小さく分断した敵を、金槌で叩いて粉砕する。パヴァーヌが用いる騎兵と歩兵による有機的な連携突撃は、局地戦において鉄則とも言える常套戦術だ。

 だが、この葦原においては、騎士の力は半減し、代わりに歩兵の槍が、その有効性を示すであろうと、王は予測していた。騎士ならば、誰しもが肝に銘じる事柄がある。それは、沼には踏み込むな、ということだ。細い足に多大な重量を支える馬は、泥濘に深々と足を埋めてしまう。そして、落馬した騎士は、容易に脱ぐことができない30kgを超える装備を抱えたまま、ともすれば立ち上がることさえ出来ずに溺死する危険がある。

 王には、それが判っていた。

 故に、騎兵は同等戦力さえあれば良しとし、槍を持たせた歩兵の数を充実させたのだ。

「焦ることはない。慎重に進め。葦の中に、伏兵がいる可能性を常に意識せよ。どのような罠が仕掛けられているやも解らぬ。安易に飛び込むな」

 王は歩兵を先頭に立たせ、騎士たちと共に軍列の半ばに位置した。殿にもまた、伏兵を警戒して歩兵を配置している。さらに王は慎重な策を郎じる。長槍の穂先に目立つ旗を付けさせ、軍列の左右の葦原の中を並進させた。左右の兵たちが、敵の伏兵に襲われたら、即座に察知できる。縦列でしか進む余地のない地勢において、最も警戒すべきは、左右からの伏兵だからだ。

 そこまでしても、見通しが悪く、足場もぬかるむ葦原の行軍は、兵たちの心を削り、進行速度は平地の5倍は時間を要した。

 朝の太陽がすっかりのぼり切った頃、単独で先行する小隊が、ついに敵の姿を捕捉した。

 王はその地への集結を、モルテ=ポッツ侵攻軍の全軍に命じる。

 たどり着いた先は、乾いた足場の開けた台地で、端の葦は根本まで刈られて広場の面積を拡張されていた。

「広いな…なんだ、ここは…」

 広場の奥には、木製だが頑強な造りの見晴台が設けられている。

「練兵場かと思われます。陛下」

 軍事、政に関わらず、王に対する意見具申を役目とする“賢人“が、見解を述べた。

「敵があそこに弓兵を配せぬのは、何故だ」

「明らかに、何らかの意図があるはず。周囲の警戒を厳と致しましょう」

 芦原を踏み倒しながら進む軍列は、至る所に出現する沼地を避け、まるで数十匹の大蛇の如く、うねり狂った行列を形作る。賢人は、両側面と後方に多数の小隊を差し向け、伏兵に備えた。

「広場に出るぞ…」

 意を決した王が、馬を進める。

「弓矢にお気をつけを」

 果たして、広場の奥側には、500を数える騎兵が、整列して待ち受けていた。

「さすがは騎士団だ。おあつらえ向きの戦場を用意して待っておるとは、天晴れな奴」

 王は歩兵たちを葦原の中へ下げ、戦場の華たるシュバリエ、バロンたちを敵の反対側に三列で並ばせた。

「兵を出し惜しみするなんて、器量のほどが知れるわね。オーギュスト陛下」

 最前列にて、白銀の甲冑に身を包む人馬が、あからさまな挑発を発した。

「王よ、ここは慎重に」

 賢人が諌める。

「言われずとも、知れておる…あれは虚勢だ」

 この賢人の官職は、パヴァーヌ王宮での伝統でもある。他薦によってのみ選出されるこの役職については、王は内心、常日頃より疎ましさを覚えていた。それは、この官職の名が自らの名と重複するから、という狭量な理由でなかった。自分の想定の範囲を超えて来ない意見になど、耳を傾けるほどの価値を感じないからだ。

「騎士たちよ、喜ぶが良い、相手に不足はないぞ!今こそ、日々研鑽した業を存分に披露するが良い!」

「陛下、敵の狙いは陛下の眼をここに釘付けにする事にあるやかも知れませぬ。周囲の旗印に注意を怠らぬよう、ご配慮くださいませ」

「解っておる。しかし、もしもだ…ここで騎士たちが全滅するようなことがあっても、こちらはまだ優勢だ。この地勢ではどの道、騎士たちは役には立たぬでな。逆にここで健闘し、敵を撃ち負かせたならば、士気が上がりより優勢に事を進められる。だから、此度の戦は痛手を負う可能性はあるが…決して負けはせぬと、すでに帰結は見えておる」

「ご慢心は禁物ですぞ。伏兵によって、御身を狙う…形勢逆転の機会は敵方にもまだ、残されております故」

「ぬしも、くどいの…」

 一面に生い茂るこの地の葦原は、他に類を見ないほど背が高く、馬の背からも先を見渡すことが困難だった。

「兵たちが剣で薙ぎ倒し、足で踏みつけた道は、視野が開ける。退路に迷うこともなくなる。数を頼みに、人海戦術にてゆっくりと踏破して行けば良い」

「御意に。兵たちには、葦原を薙いで進むように命じておきます」

 敵の騎士たちが、威勢の良い掛け声をあげ、覇気の充実ぶりを誇示した。

 王は剣を抜き、自軍の騎士たちの前を真一文字に馬を走らせた。王が伸ばした剣先に、最前列の騎士たちは槍の穂先を当てがう。金属がぶつかり合う音を背景に、王は騎士たちを鼓舞した。

「我が軍の優位は揺るがぬ!しかし、断じて油断はするな!敵は辺境制覇で戦い慣れた強者どもぞ!この葦原の地で、諸君らの力は試される!世界に知らしめよ!最も戦意に猛る騎士は!」

「パヴァーヌ騎士!」

 騎士たちが声を揃えて、答える。

「最も鋭い槍を持つ騎士は!」

「パヴァーヌ騎士!」

「最も忠義に厚い騎士は!」

「パヴァーヌ騎士!」

「さすれば、この戦の勝利者は誰か!」

「パヴァーヌ王なり!」

 王は騎士たちの列中央で馬を止めると、相手陣営に馬首を向け、天高く剣を掲げた。

 敵陣営の中央で、白銀の騎士が剣を上げて応じる。

 異変を悟ったのか、数十羽の水鳥たちが葦原から羽ばたいた。

 両陣営の大将が、同時に剣を振り落とした。

「突進せよっ!」

 号令一下、無数の蹄が大地を踏みしだく音と、人馬の甲冑が立てる音、そして朦々たる砂塵が瞬時にして練兵場を支配した。


 モルテ=ポッツの城砦の櫓から、その様子を監視する者たちがいた。

「始まったようですな…」

 豪族たちからなる会議体、アルシングの長官を務める男が、公王へ語りかける。

「誰が、あの練兵場の事を教えた」

「連中は、造船所より木材を勝手に持ち出し、物見櫓を建てておりまする。きっと、そこから見て知ったのでしょう…後できっちり、代金をいただかねば…」

「パヴァーヌ王が、我らの瑕疵と言い出さねば良いがな…奴隷兵たちの監視を怠るなよ。それと、平原に残るパヴァーヌ本隊の動きも、逐一報告せよ」

「仰せのままに…」

 ロベールは険しい面持ちで、葦原での戦闘を注視した。

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