第一話 恋する事故物件⑤

「落下の音は、建築的な欠陥などでは決してありません。わざわざ来ていただいたのに恐縮ですが、天木さんにしていただけることは特にないかと思います」

 芳美の言う通り、起こっている現象が確実に人ならざる者の仕業だと確信している場合、建築士である天木は場違いと思われても仕方がない。だが、ここで黙って引き下がる天木ではなかった。

「おはらいなどはおこなったんですか? よく地鎮祭をお願いしている神主さんでしたら紹介することもできますが」

 天木の提案に、夫妻は再び互いの顔を見合わせた。そして、耕作がやや間を置いてから口を開く。

「……率直に申しますと、我々は怪現象の霊を祓いたいとは思っていないのです」

 その考えに、織家は首をひねった。事故物件に苦しむ人たちをこれまでに何人か見てきたが、皆一様に頭を悩ませていた。塩畑夫妻も、自殺者のせいでテナントの撤退など多大なる迷惑をこうむっているはずである。

 にもかかわらず心理的を取り除こうと思わない理由は、芳美の口から消え入りそうな声で告げられた。

「五年前、屋上から飛び降りたのは……私たちのなんです」

 予想外の事実に、織家は思わず口元を両手で覆った。

 よく考えてみれば、無関係の人間が簡単にビルの屋上に上がることができるわけがない。耕作は、ざんでもするかのように語り始めた。

「息子は……ゆうは、サッカー部に所属する活発な男の子でした。それが高校三年生になると、受験のプレッシャーにまれてしまい、最終的には自ら命を……。私たちが悪いのです。悠樹の気持ちも考えず、学力に見合わない大学を受けるよう強制してしまった。我が子の将来の幸福のためにと思ってのことだったのですが……今にして思えば、何と愚かなことをしたのでしょう。悔やんでも、悔やみきれません」

 うつむき震える声で語る夫の隣で、芳美は目元をハンカチでぬぐっていた。

 ここまで話を聞けば、お祓いを拒む理由はもうくまでもない。実の息子の霊が、この世から強制的に消されてしまう。親として、そんなことを望むはずもない。

 夫妻が事故物件であることを七瀬や織家たちに隠さないのも、懺悔の気持ちが一端を担っているのかもしれない。

 物件の所有者が心理的瑕疵の取り除きを拒む以上、話はここまでだ。「最後に一つ」と、天木は神妙な面持ちで問う。

「お二人は、悠樹さんの霊を目撃したことがありますか?」

「我々はないのですが、バイトの七瀬さんは見たことがあるようです。何でも、停電時に窓の外に立っていたとか。私と妻も停電直後にすり際に立ったことがあるのですが……悠樹は、姿を見せてはくれませんでした」

 今でこそ落ち着いている七瀬だが、最初に見た時は悲鳴を上げたに違いない。塩畑夫妻が確認するのも当然のことだ。

「たとえ幽霊でも会えるのなら会いたいですが……あの子は、私たちを嫌っているのでしょうね」

 涙声でそう言って、芳美は軽く鼻をすすった。

「わかりました。つらいお話をさせてしまい、申し訳ございませんでした」

 天木は謝罪すると、立ち上がりレジにて会計を済ませた。織家は七瀬に帰ることを伝えたかったが、どうにもそういう雰囲気ではないのであきらめる。夫妻に見送られながら、三人でエレベーターに乗り込んだ。

 しばらく無言が続いたが、織家の方から静寂を破った。

「……七瀬は知っているんでしょうか? 自分の恋する幽霊が、塩畑夫妻の息子さんだって」

 その疑問に、天木は短く「さあな」とだけ答えた。そのタイミングでエレベーターが一階につき、扉が開いた。

 夫妻の辛い過去を聞いたせいもあり、織家はすっかり気分が沈んでしまっている。それが顔に出ていたのか、天木が声をかけてきた。

「しっかりしろ、織家くん。本番はこれからだ」

 天木が突き出した自身の腕時計は、八時半辺りを指していた。落下音が聞こえるのは、午後九時過ぎだと聞いている。

 確かに、本番はここからのようだった。


    ◆


 塩畑ビルの手前を通る歩道のガードレール際に立ち、織家たち三人は屋上を見上げていた。日中に比べれば、夜は幾分涼しい。スマホでこまめに確認しているせいもあってか、時間の進みは異様に遅く感じた。

「そろそろ、霊が落ちてくる時間だな。毎日落下する音が聞こえるってことは、息子さんは毎晩自殺を繰り返してるってことか?」

「実際、同じ行動を繰り返す霊の目撃談は数多く報告されている」

 空橋の考えを、天木が肯定した。ここで、織家は妙なことに気づく。

「ちょっと待ってください……自殺を繰り返してるなら、悠樹さんの霊はぐちゃぐちゃのひどい姿で現れるってことですよね?」

「どうだろうな。だが、仮にそうなら七瀬くんがれるとは思えないな」

 天木の言う通りだ。肉体を高所からアスファルトに打ちつけたズタボロの霊がガラス越しに現れたとしても、恋心など芽生えるはずがない。そうなると、悠樹の霊は落下前のれいな状態で出現していることになる。

 コーポ松風に出た霊は、外階段を転げ落ちた直後の酷い状態で現れていた。その印象が強いせいか、霊とは亡くなった当時の肉体の状態で現れる印象がある。

 そもそも、魂だけとなった霊体が決まった形しかかたどれないという考え自体が間違っているのだろうか。こればかりは、長年霊という存在を見てきた織家でもわからない。

 疑問が脳内で渦巻いている間に──その時は来た。

 ビルの屋上から、黒い影のようなものが落下するのが一瞬見えたような気がした。次の瞬間には、ドンという交通事故でも起きたかのような激しい衝突音が織家の鼓膜を震わせる。それが肉体のつぶれる音であると自覚するなり、今更とは思いつつも両耳をふさがずにはいられなかった。

「織家くん、大丈夫か?」

 耳を塞いだ手の隙間を縫って、天木の心配の声が届く。おそるおそる耳から手を離し、織家は青白くなっているだろう顔を天木と空橋に向けた。

「……き、聞こえました。お二人には聞こえなかったんですか?」

 霊感ゼロの天木は聞こえなくて当然として、空橋も首を横に振っていた。

「その音に関しては塩畑夫妻と七瀬くんにも聞こえているという話だったが、この三人に霊感があるからなのだろうか。それとも『塩畑ビルの中』もしくは『金魚草の中』にいるというのが、霊感の強い織家くんのような人以外でも音を聞くことができる条件なのだろうか」

 先ほどの音の衝撃のせいで、一人冷静に考察している天木の言葉は右から左へと抜けていく。織家がおびえながらも目を向けた黒い影の落下地点には、何のこんせきも残されていなかった。

「二人共! 上!」

 空橋の焦ったような言葉に、織家と天木は揃ってビルを見上げた。すると、先ほどまでついていた五階の明かりが消えている。単純に閉店作業を終えたから消灯したと考えられなくもないが、七瀬は窓の外に悠樹の霊が立つ際、ブレーカーが落ちて真っ暗になると言っていた。

 視線を下ろすと、一階エントランスの照明はついている。少なくとも、ビル全体の電源が一斉に落ちたというわけではなさそうだ。

 そして、視線を上に戻した織家は見てしまう。

「──ひっ」

 一体、いつからそこにたたずんでいたのだろうか。五階の窓の外には、右足と左腕があらぬ方向へとじ曲がっている霊が宙に浮かんでいた。地上から距離があるので正確な損傷具合はわからないが、間近で見れば、きっと目も当てられないような状態だろう。

 悠樹の霊と思われるそれは、窓にへばりつくようにして金魚草の中をのぞいている。その様子は、中にいる人に何かを訴えているように思えた。

 その姿は、五階の電気が復旧するのに合わせて煙のように消えてしまう。時間にして、わずか十秒ほどの出来事だった。

「織家くん」

 どうやら息をするのも忘れていたらしく、織家は天木に肩をたたかれることで呼吸を再開できた。取り込んだ酸素が脳へ行き渡り、先ほど見た光景を嫌でも繰り返し思い出させる。

「天木さん……私、見ました。飛び降りて酷い状態になった悠樹さんの霊が、五階の窓の外に浮いていたんです! そ、それで……!」

「落ち着け、織家くん。ゆっくりでいい」

 ここで、織家のスマホがメッセージの受信を知らせる。取り出して確認すると、送り主は七瀬だった。

『さっき、彼に会えた! やっぱり素敵!』

 そのメッセージ内容に、織家は混乱せずにはいられなかった。

 悠樹は確かに窓の外に現れていたが、目を背けたくなるような状態だった。あの姿となっては、元がいくらいい男だったとしても恋愛感情など生まれるはずがない。

 一体、七瀬には何が見えているのだろうか。

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