第一話 恋する事故物件④

 三人で揃って塩畑ビルに足を踏み入れると、まず目に飛び込んできたのは最上階まで続いている大きな吹き抜けだった。下から見上げると、各階のフロアと吹き抜けを仕切る縦格子のすりが見える。

 織家と同じように吹き抜けを見上げていた空橋が、ぽつりと疑問を吐露した。

「前に来た時は気づかなかったけど、四階だけ手摺がないね」

 確かに、四階だけは他のフロアと異なり、吹き抜けとフロアの間にあるべき落下防止の手摺格子がついていなかった。もし自分があの場所に立ったらと考えただけで、織家は心臓がドキドキしてくる。

「飛び降り自殺というのは、もしや四階から落ちたのか?」

 誰にともなく天木が口にした疑問に、空橋が答える。

「いんや。俺は屋上からって聞いてるけど。織家ちゃんは?」

「私も屋上からと聞いています。なので、四階の手摺がないことと自殺とは関係ないと思うんですけど……」

 空橋と織家の発言を飲み込むと、天木は「そうか」とだけ答えた。

 次に目に飛び込んできたのは、このビルのフロアマップだ。五階に『金魚草』と書かれている以外は、元々貼ってあったのだろう店名の書かれたシールを剝がしたような跡だけが寂しく残されている。

「なるほど……これは芳しくない状態だな」

「いい立地なのに、もったいない話だよなー」

 織家も、空橋の言う通りだと感じた。せっかくの立派なビルが空室だらけなんて、オーナーとしてはかなりの痛手のはずだ。

 エレベーターに乗り込み、五階に到着する。降りて右手の方向に、目的の喫茶店『金魚草』はあった。扉を開けて中に入ると、白と茶色、そして朱色をテーマカラーに添えた昭和レトロなイメージの店内が広がっている。

 内壁は部分的にレンガ調のタイルが貼られており、モノクロの金魚が泳いでいるようなデザインの壁紙が採用されている。各テーブルに下がるペンダントライトは金魚鉢を模したもので、店内の至る所に見られる観葉植物は水槽の中の水草をほうふつとさせた。

「いらっしゃいませー。三名様ですか?」

 インテリアにれている織家に声をかけたのは、バイト中の七瀬だった。白いカッターシャツと黒のスラックスに、コーヒー豆のような色をしたエプロンを合わせている。

 可愛いというよりはかっこいい制服で、スタイルのいい七瀬によく似合っていた。彼女は、織家に気づくとおおなほどに驚いた。

「うっそー! 織家じゃん! 来てくれたの?」

「うん。たまたま近くにいたから」

「ありがとね! ええと、そちらの二人は?」

「私のバイト先の上司と、そのお友達」

 織家が無難に紹介すると、天木は軽く会釈をして、空橋は「よろしくー」と片手をひらひら振った。七瀬も簡単に自己紹介をして、接客業のお手本のようなお辞儀をする。

 七瀬は織家をひじで軽く小突きながら「織家も隅に置けないね」と耳元で茶化してきた。むずがゆい顔をしているだろうこちらの返しを待つことなく、彼女はテーブル席へと案内を始める。

 クッションの部分が革張りになっているアンティーク調の椅子に座り、店名が彫り込んである朱色の装丁のメニューブックを開く。七瀬いわくオムライスがお勧めということなので、それを三つ注文した。

 オーダーを書き記すと、七瀬は「少々お待ちください」とちゆうぼうの方へ去っていった。

「元気そうで、いい友達だね」

 空橋が、七瀬の背中を見ながら率直な感想を口にする。

「はい。友達って言っても、今日出会ったばかりなんですが」

「友達に年数とか関係ないって。気が合えばその瞬間友達だ。なぁ天木?」

「さあ、どうだかな」

 天木に突き放されている空橋を見て笑みをこぼしつつ、織家は改めて店内を見渡す。客は織家たちを含めても十人程度だ。七瀬が『オーナーが趣味でやっているようなもの』と言っていたので、事故物件の悪評は関係なく元よりこんなものなのかもしれない。

 落下防止の手摺格子を挟んだ吹き抜けの向こう側は、一面ガラスで覆われている。外は暗くなり始めており、ガラスが鏡のように反射して客席全体を映し出していた。

 程なくして、エプロン姿の男性がオムライスを織家たちのテーブルに運んできた。

「お待たせいたしました」

 初老とおぼしき男性は、三つ一度に運んできたオムライスを手際よく置いていく。体形はスマートだが、それでいてき出しの前腕の筋肉は引き締まっていた。しわの刻まれた顔も、老けているというよりは年季が入っているという印象を受ける。

「こんばんは、塩畑さん」

 空橋が声をかけると、男性は驚きの後に笑顔を見せた。織家も薄々わかってはいたが、彼がこのビルのオーナー兼喫茶店のマスターである塩畑で間違いないようだ。

「ああ、空橋さん! いらっしゃいませ。うちのビルに入ってくれそうな方は見つかりましたか?」

「すみません。それはまだなんです。代わりと言っては何ですが、こういった物件の相談事を受けてくれる建築士の友人とその助手を連れてきました。事情を話していただければ、何か力になれるかもしれません」

「はぁ、建築士の方ですか」

 塩畑の視線を受けて、織家は天木と共にぺこりと頭を下げる。向こうもにこやかに会釈を返してくれた。まだ出会って間もないが、とても印象のいいマスターだ。

「まあ、まずは召し上がってください。お話は、他のお客様が帰られた後でもよろしければぜひお願いします」

 厨房へ戻る塩畑を見送った後、いただきますと手を合わせてから、織家はスプーンですくったオムライスを口へ運んだ。

「……美味おいしい!」

 半熟とろとろの卵に、チキンがごろごろ入ったケチャップライスが絶妙にマッチしている。付け合わせのブロッコリーとトマトの彩りも鮮やかで、目で見ても楽しい。食べる前に写真を撮るべきだったと、織家は今更後悔した。

 夢中で食べていると、店内を行き来している七瀬と目が合った。彼女は、自身の口の端をちょんちょんと指さして笑っている。織家がはっとして自身の口の端に触れると、そこにはたっぷりとケチャップがついていた。


    ◆


 オムライスを完食して、食後のコーヒーを飲みながら天木たちと談笑しているうちに、壁掛け時計の示す時刻は夜の八時を過ぎていた。

 店内の客は、いつしか織家たちを除けば誰もいなくなっている。

「いやぁ、すっかりお待たせしてしまいましたね」

 申し訳なさそうな顔で厨房から現れた塩畑が、エプロンを外しながら歩み寄ってきた。その傍らには、塩畑と同い年くらいの女性の姿もあった。白髪交じりのミディアムグレイヘアを七三のバランスで分けており、とても穏やかな表情をしている。

 空橋が立ち上がった。

「天木。織家ちゃん。改めて紹介するよ。このビルのオーナーで金魚草のマスターの塩畑こうさくさんと、奥さんのよしさん」

 紹介されると、夫妻は揃って頭を下げた。立ち上がった天木はポケットからさっと名刺を取り出し「初めまして。天木建築設計の天木悟と申します」と両手で差し出した。織家もわずかに遅れて立ち上がり「助手の織家です」と自己紹介する。

 名刺を受け取った耕作は、芳美と共に天木と織家の対面の椅子に腰を下ろす。四人掛けのテーブルだったので、足りなくなった席の一つは、空橋が空いている隣のテーブルから拝借してきた。

 七瀬はというと、フロアの掃除にいそしんでいる。だが、話の内容が気になるのだろう。聞き耳を立てていることは、何となくわかった。

「七瀬さん。悪いが、厨房の方の掃除に回ってくれるかい?」

 耕作もまた七瀬の様子に気づいたのか、そんな指示を出す。わざわざ声の届かないところへ追いやるということは、これからする話を七瀬には聞かれたくないのだろう。

 七瀬はやや不服そうな顔を見せていたが、雇い主に逆らえるはずもなく「わかりました」と厨房の奥に消えていった。

 さて、と耕作が織家たちの方に向き直る。

「こういった物件の相談を受けていると空橋さんからお伺いしましたが、つまりは事故物件の相談という意味で間違いないでしょうか?」

 問う耕作に、天木は表の顔の営業スマイルで「はい」と答える。

「無論、私は単なる建築士です。あくまで建築の観点から怪現象の正体を考えてみるということですので、悪しからず。何せ、オカルトは専門外なものでして」

 この手の噓も、天木には手慣れたものだ。

 天木は売れっ子のスター建築士という表の顔を守るために、事故物件調査依頼を受ける時は『あくまで友人の空橋に頼まれて、建築士としての見解を示すために来た』という設定を忠実に守っている。もっとも、その設定も調査に夢中になり過ぎて忘れてしまうことはしばしばだが。

 夫妻は顔を見合わせると、まゆの垂れた困り顔を揃って天木へ向けた。

「このビルが事故物件であることも、怪現象が起こることも事実です。五年前に飛び降りがあって以降、その時刻である夜九時過ぎに、肉体がアスファルトに直撃するようなドンという鈍い音が毎晩聞こえてくるのです」

 耕作の話す内容は、七瀬から聞いたものと同じだった。唯一の救いは、落下音が聞こえる時刻が閉店後の午後九時過ぎであることだろう。開店中に怪現象が起きていたのなら、金魚草に来る客は今よりずっと少なくなっていたはずだ。

「あのバイトの子は、閉店作業があるから夜九時以降も残りますよね? 怖くなって辞めたりしないのですか?」

「それが、なかなか肝の座った子でして。面接の時点でここが事故物件であることも、怪現象が起きることも伝えたのですが、それでも構わないと言ってくれて……本当に、ありがたい限りです」

 耕作は心底感謝している様子だった。辞めない理由の一端は飛び降りの霊に対する恋愛感情だということを織家は知っていたが、その事実を塩畑夫妻が知っているかどうかは定かでないため、口には出さなかった。

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