第一話 恋する事故物件③

    ◆


 夕方六時頃。事務所のパソコンを借りてレポートと格闘していると、事務所に来客があった。

「おっ邪魔しまーす!」

 元気に入ってきたのは、空橋だ。水色のボーダーシャツに七分丈のパンツというで立ちは、ただでさえ童顔の彼をより若々しく見せている。

「こんにちは空橋さん。ヒゲ丸は?」

「今日はお留守番。夕方でも暑いからねー」

 空橋の愛猫・ヒゲ丸がいないことを少し残念に思いつつも、織家は空橋を招き入れた。デスクで仕事をしていた天木が、手を止めて振り返る。

「こんな時間に珍しいな、空橋。事故物件調査の依頼でも持ってきたのか?」

 事故物件調査という言葉を聞き、織家は反射的に嫌な顔をしてしまう。だが、天木に協力すると決めたのは自分なのだ。こんなことではいけないと、自身の顔をむにむにとほぐした。

生憎あいにく、今日はきちんとした不動産屋の仕事で来たんだよ。ほら、織家ちゃん」

 空橋がかばんから取り出した紙の束を、織家は首を傾げながら受け取る。目を通すと、それはありとあらゆる賃貸物件の資料だった。

「織家ちゃん、お父さんと和解して色々援助してもらえるようになったから、もうここに住む必要なくなったじゃん? コーポまつかぜの時は俺もひどいことしちゃったから、物件選びを手伝おうと思ってさ」

 思い返せば、織家が天木建築設計で住み込みのバイトを始めたのは、新たなアパートに入居するための費用を稼ぐためだった。空橋の言う通り、金銭面に余裕のできた織家が事務所に住み続ける理由はもうない。

 最初は嫌々だったが、住めば都とはよく言ったもので、今や織家はここでの生活がすっかり気に入ってしまっていた。応接スペースには大きなテレビもあるし、給湯室は広々としている。おも比較的新しくれいで、二階の自室の隅に固めてあるオカルトグッズも慣れてしまえばどうということはない。

「どれ、僕も手伝おう」

 天木は織家の手から資料を半分ほど取ると、応接スペースの赤い三人掛けのソファーに腰掛けた。その隣に空橋が座り、織家は対面の一人掛けソファーに腰を下ろす。

 どうしよう。家賃が無料で住み心地もいいから出ていきたくない……とは、口が裂けても言えない。頭をフル回転させて言い訳を考えていると、織家の目に一枚の資料が飛び込んできた。

「あっ……これって」

 そこには『塩畑ビル』と書かれていた。載っている外観写真は五階建てで、間口が狭く奥行きが長い造り。ビルの正面は、上から下まで一面ガラス張りになっていた。

 織家の脳裏に、七瀬の笑顔がよみがえる。そうなのだ。帰宅直後に白い家の話題になり忘れていたが、織家はとんでもない相談を引き受けてしまっていたのだ。

「あー、ごめん織家ちゃん。別の資料が混ざってたみたい。そこはテナントビルだから、人は住めないよ」

「空橋さん、このビル知ってるんですか?」

「ああ。オーナーさんからテナント募集業務の委託を受けていてね。立地は悪くないんだけど、事故物件だから借りたがる人がなかなかいないみたいで」

「事故物件?」

 天木が即座に食いつくが、空橋は制するように彼へ手のひらを突き出した。

「ここは調査対象じゃないぞ。依頼がなければ調査はできないし、俺だって誰彼構わず事故物件調査を勧めるわけにはいかないんだ」

 あくまでも、そういった相談を受けた時だけ天木に話を持ってくるというのが、空橋のスタンスであるようだ。事故物件とわかるや否や調査を勧めていては、空橋の本来の仕事に影響が出てしまうだろう。

 突っねられた天木は「わかっている」とバツが悪そうに足を組んだ。

「あの……すみません。実は、お二人に聞いてほしいことがあるんです」

 ここぞとばかりに、織家は七瀬の相談について話した。このビルの五階にある喫茶店『金魚草』で、飛び降り自殺した男の霊が出ること。そして、その霊に七瀬がれてしまっていること。

 織家が語り終えると、天木はあごの辺りに手を添えながら興味深そうにつぶやいた。

「まるで、たんどうろうのようだな」

「何だそれ?」

 空橋が問う。織家も聞いたことのない言葉だったので、耳をそばだてた。

よつ怪談やさらしきと並び、日本三大怪談とも呼ばれるほど有名な怪異たんだ。主人公のしんざぶろうは、おつゆという女性と恋仲になる。だが、会えない日が続いた結果、恋焦がれるあまりにお露は亡くなってしまった」

 天木の語り口調は、次第に怪談の雰囲気を醸し出していく。

「その後、新三郎はお露の霊とおうを重ねるようになる。しかし、このままでは取り殺されるとしようから言われた彼は、魔除けの札を貼りお露を遠ざけるようになった」

「……新三郎は助かったんですか?」

「いいや。知人の裏切りで札をがされ、お露に殺されてしまう……というのが、一般的な流れだな」

 天木の話の途中から、織家は胸騒ぎを抑えることができなくなっていた。

「それじゃあ、七瀬もこのままじゃまずいってことですか?」

「それは何とも言えないな。物件を調査できれば何かわかるかもしれないが、空橋が駄目と言っているし」

「おいおい、俺が悪者かよ」

 困り顔の空橋は、織家の方をちらりと見る。余程不安な顔をしていたのか、空橋は頭をむしると一つの妥協案を提示した。

「なら、ちょうど夕飯時だから金魚草へご飯を食べに行こう。あくまで客としてお邪魔して、話が聞けそうだったら訊いてみる。織家ちゃんも、それでいい?」

 その提案に、織家は笑顔で頷いた。


    ◆


 夏真っ盛りの午後六時半は、まだ日が出ており外も明るい。沈む夕日は、ビル群に邪魔されて拝むことがかなわなかった。こういう些細なところに、織家は都会っぽさを感じる。

 塩畑ビルは、事務所から徒歩十分以内のところに立っていた。五階建ての長方形で、ガラス張りになっている道路側の一面が夕焼けのオレンジ色に染まっている。

 ここの屋上から、人が飛び降りたのだ。そう考えると、背筋に寒いものを感じた。

「どうだ、織家くん。何か見えたり感じたりするか?」

 天木に問われ、織家は少し間を置いてから首を横に振る。

「いいえ。今のところ特には」

「んじゃ、とりあえず入ってみるか」

 提案して歩き出した空橋は、すぐに足を止める。その理由は、ビルの入り口付近に若い男性が立っていたからだ。派手な赤いシャツに加えて、髪までお揃いの赤色に染めている。彼は先端にスマホを装着した自撮り棒を持っており、どうやら動画を撮影しているようだった。

「あんなところで、邪魔だなぁ」と、空橋がぼやく。

「後ろをさっと通らせてもらいましょう」

 織家が近づくと、赤い髪の男はようやくこちらに気づいたようだった。

「あ、ごめんごめん。邪魔してたね」

 彼は自撮り棒を下ろすと、いそいそと道を空けてくれた。織家が会釈をしながら塩畑ビルに入ろうとした、その時。

「ねぇ君、知ってる? ここって事故物件らしいんだけど」

 赤い髪の彼が、そう話しかけてきた。返答に困っていると、後ろからやって来た天木が間に割って入る。

「悪いが、ナンパなら余所よそでやってもらおうか」

「やだなぁナンパなんて。俺は別に──」

 赤い髪の男のひようひようとした口調が、天木の顔を見るなりぴたりと止まる。不思議に思っていると、彼は自撮り棒を畳み「失礼しましたー」とそそくさ逃げて行ってしまった。

「何だったんでしょうか、あの人?」

「さあな。だが、どこかで見たことがあるような……」

 天木はしばらく考え込んでいたが、思い出すには至らなかったようだった。

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