第一話 恋する事故物件②

    ◆


 七瀬が語る相談内容は、要約するとバイト先に霊が出るというものだった。

 横浜市街地に立つ五階建てのテナントビル『しおはたビル』の最上階である五階で営まれているのが、七瀬がバイトをしている『きんぎよそう』という喫茶店らしい。

 金魚草を経営している塩畑夫妻は、同時にビルのオーナーでもある。生活のためというよりは趣味でやっているような店であり、仕事内容は楽で時給も悪くないとのこと。

 そんなビルで、五年前に若い男性が屋上から身を投げたそうだ。

「これって、織家の言ってた事故物件ってやつだよね?」

「そうなるね。……その情報って、七瀬が自分で調べたの?」

「いや、バイトの面接の時、いてもないのにマスターが話してくれたの。普通は隠しそうなもんだけど、どうにも人が良すぎるんだよね」

 織家も七瀬と同じ感想を抱いた。事故物件を借りる人には貸主に説明の義務が発生するが、事故物件でバイトをする人にまで説明する義務はない。そんなことを口にすれば、辞退されてしまう可能性も十分ある。七瀬の雇い主は、ずいぶんと正直な人のようだ。

「毎晩九時過ぎくらいになると、ドンッてすごい音が外から聞こえてくるって説明されたんだ。でも私、霊とか全然信じない派だったから採用してもらったの。そしたら、本当に毎晩同じ時刻に音が聞こえるんだよね」

「その時刻が、五年前に男性が飛び降りた時間ってこと?」

「そうそう。よくわかったね。本当は織家、オカルト好きなんじゃないの?」

 悪戯いたずら顔の七瀬に、織家は苦い顔を返すことしかできなかった。怪現象を考察するなんて、間違いなく天木の影響を受けてしまっている。気をつけないと。

 七瀬は、話を続ける。

「それでね、音だけならまぁ別にいいかなって思って続けてたの。バイトを始めて、一週間くらい経った頃だったかな? 私、ついに見ちゃったの」

 前置きすると、七瀬は両手を正面でだらんと垂らして幽霊を表した。おまけに舌までべろんと出して見せる。

 話を始めた時から思っていたのだが、七瀬の語りはどうにも緊張感に欠け、怖い話をしているとはとても思えない。もしかすると、オカルトは嫌いだと言った織家に気を遣ってそんなふうに話してくれているのだろうか。

「喫茶店は夜九時に閉店で、その日は閉店作業をしてる時に急にブレーカーが落ちたの。その時、何気なく窓の外を見たら──若い男の人が、宙に浮いてた」

 七瀬の目は、その姿を思い返すように遠くを見ていた。

「年はたぶん私たちより少し下くらい。体は半透明で、高校の夏服っぽい服装だった。たたずむ彼は、マスターがブレーカーを上げて照明がつくのと同時に消えていったの」

「見たのはその一回きり?」

「最近はバイトの度に見るよ。いつも微笑んだり手を振ったりしてくれて、ブレーカーが上がると消えていくの。時間にして、十秒くらいかな」

 七瀬は体験談を語り終えると、ふうと小さく息をついた。

「ありがとね、織家。こんな話、相談できる相手がいなくてさ。聞いてもらえただけでも、ずいぶんすっきりしたよ」

 彼女は、力なく笑っていた。

 この件は、事故物件絡みの怪現象だ。心理的の取り除きを生業なりわいとする天木の専門分野だろう。彼自身も、おそらく喜んで調査に乗り出すはずだ。

 自ら事故物件の調査依頼を持ち込むのは抵抗があるが、それで七瀬が救われるというのなら助けになりたい。

「……私、力になれるかも」

 織家が控えめに言葉をこぼすと、七瀬は「ホント!?」とうれしさのあまりテーブルの向こうから身を乗り出してきた。

「ありがとう織家! 持つべきものは友達だね!」

 友達というその言葉に、学友のいなかった織家は高揚感を覚えてしまう。我ながらちょろいなと卑下しつつ、これで後には引けなくなったと腹をくくった。

「安心して。私の知り合いに、事故物件の霊をどうにかできる人がいるから」

 七瀬を安心させるように、織家は力強くそう伝えた。だが、織家の予想に反して七瀬はぽかんとした表情を浮かべている。

「どうにかするって……おはらい的なこと?」

「まあ、近からず遠からずかな」

「違うよ織家。むしろ祓うとか絶対駄目」

 それは──どういうことだろうか。話が読めない。

「へ? 私に相談したいことって、バイト先の霊を出なくする方法とかじゃないの?」

「違う違う。私が相談したかったのは、その……について」

 七瀬は、何とも可愛らしく照れている。話の展開についていけない織家のことなどお構いなしに、七瀬はきっぱりと宣言した。

「つまりね、私は

 ここで織家は、七瀬の語る怖い話に全く緊張感がなかったわけを理解した。彼女にとって、バイト先に出る霊の話は怪談ではない。意中の彼との運命的な出会いの話だったのだ。

「力になってくれるんだよね、織家?」

 とんでもない案件の協力を買って出てしまったことを理解し、織家は自身の顔色が悪くなっていくのを実感する。

 テーブルに置かれた食べかけのカツカレーは、もうすっかり冷めてしまっていた。


    ◆


「どうしよう……」

 無理難題への協力を約束してしまった織家は、重い足取りで事務所への帰路を歩いていた。片手に持つスマホには、連絡先を交換した七瀬から早速『よろしくね』というメッセージが入っていた。

「ただいま帰りました」

 織家が玄関引き戸を開けると、そこにはちょうど給湯室から出てきたらしき天木の姿があった。来客の予定がないからなのかラフなTシャツ姿で、片手に持つアイスコーヒーの入ったグラスから、溶けた氷がからんと清涼感のある高い音を鳴らす。

「お帰り、織家くん。ずいぶんとひどい顔をしているな」

 女性にかける言葉としてはいかがなものかと思ったが、そう言われても仕方のない表情をしていることは、織家も自覚していた。

「天木さんこそ、人のこと言えませんよ」

 天木の目の下には、くっきりとくまができていた。両親譲りの整った顔立ちも、これでは台無しだ。

 隈の原因はわかっていた。ずばり、夜更かしによる寝不足である。

 夏休みが始まる前のある日。織家は天木に『住宅完成見学会の日、玄関のクローゼットの奥で血走った目を目撃した』という情報を伝えていた。それは天木に言わせれば久方ぶりの白い家に関する新情報だったらしく、その日以来、天木は二階のオカルト部屋に夜な夜な引きこもっては調べものにいそしんでいる。

 織家は給湯室にある冷蔵庫から麦茶を取り出し、たっぷりコップ二杯分を飲み干してから仕事スペースへ向かった。オフィスチェアに深く腰掛けている天木は、上を向き目頭の辺りを押さえている。

「白い家について、何か進展はありましたか?」

「さっぱりだ。君のおかげで家の完成当初から何らかの霊がいたことは判明したが、正直言って余計に原因がわからなくなっている」

「白い家が建つ前に、あの土地で何か良くないことがあったとかではないんですか?」

「それはない。真っ先に思いついた可能性で、僕も散々調べたが目ぼしい情報は何も出てこなかった」

 デスク上のアイスコーヒーに口をつけると、天木は深いためいきを落とした。

 材料が揃わなければ、推測のしようもない。白い家の中に入れば何かしら発見があるかもしれないが、あの家はかつに人が立ち入っていい状態ではない。

 他に何かいい方法がないだろうか。腕組みして思案する織家の頭の中に、妙案が降りてきた。

「天木さん。私、霊感テストやってみましょうか?」

 ここでいう霊感テストとは、目を閉じて横になり、頭の中で想像した家の中を見て回るというもの。その家の中で人に会うと、その家には霊がいるということになるそうだ。

「君がご実家で行ったあれか?」

「はい。実はあの後、私無意識で白い家の中を見て回る霊感テストをしちゃったんですよ。それで完成見学会の時にクローゼットで何かを見たことを思い出せたんです」

 語り終えると、天木は目を大きく見開いていた。確かに妙案だと褒められるだろうかと口元が緩んだ途端──。

「何をやっているんだ、君は!」

 天木から、まさかの怒号が飛んできた。怒られるとは夢にも思っていなかった織家の肩が、びくりと跳ねる。その様子を見て、天木はすぐに「ああ、すまない」と謝罪した。

「元を言えば、ご実家で霊感テストをやらせた僕に責任がある。申し訳ない」

「ええと……私、何かまずかったですか?」

「あの霊感テストは、考え方によっては飛ばした生き霊に家の中を歩かせているようなものだ。とりわけ織家くんの場合、家系的に生き霊が飛びやすいと考えた方がいいだろう」

 織家の父は自身の生き霊を寝室に閉じ込めており、母は生き霊を娘である織家の元まで定期的に飛ばしていた。そのことを踏まえれば、織家もそういった体質を引き継いでいると考えた方が自然である。

「霊感テストを行うことで君の生き霊が白い家に入り、中にいる怪異に捕まりでもしたら……君の体がどうなるか、僕にもわからない」

 熱いくらいだった体温が、急激に下がるのを感じた。自分の生き霊が、あの家に巣くう天木ですら解決方法の欠片かけらつかめない怪異に捕まる。想像するだけで、身震いが止まらなくなった。

 もう霊感テストはやらないと悟ったのだろう。その様子を見て、天木は優しい口調で織家に声をかける。

「無茶はしなくていい。だが、何か思い出したことがあればすぐに教えてくれ。どんなさいなことでも構わないから」

「……はい。わかりました」

 うなずく織家を前に、天木は柔らかく微笑んでくれた。

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