第一話 恋する事故物件①

 一歩踏み出すと、宙に投げ出される。

 右も左も上も下もわからないうちに、体がアスファルトに激突する。がい骨が砕け、のう漿しようが飛び散り、腕と足はおかしな方向にじ曲がり、肉片が地面と同化する。その行動を、幾度となく繰り返す。昨日も、今日も、おそらくは、明日あしたも。

 わかってほしい。気づいてほしい。だから落ちて、落ちて、落ちて落ちて落ちて落ちて──。


    ◆


 織家の通うY大学は、横浜の郊外にキャンパスを構えている。市街地より利便性には劣るが、その分自然が豊かで、時間の流れも穏やかに感じるので気に入っていた。

 夏休みに入れば、大学に出向く必要はなくなる。それなのに織家が炎天下にわざわざキャンパスを訪れた理由は、休暇中に出された課題の資料を図書館で探すため──というのは、建前だ。

 真の目的は、ずばり学食である。

 学食というのは、とても素晴らしい。メニューは豊富で量も大満足。味も抜群な上に、そのほとんどがワンコイン以下というのだから驚きだ。

 学費と生活費を全て自分で稼がなければならない状況に置かれていた織家にとって、学食の食事はそれでも高級料理だった。しかし、天木の力添えもあって、Y大学への進学に反対していた父とも和解することができ、金銭面で支援をしてもらえることになった。

 というわけで、織家の懐事情には大分余裕が生まれている。

 そんな経緯を経て、夏休み前に初めて学食に手を出した結果、ドハマりしたのだ。

「お願いします」

 食券をちゆうぼうのおばちゃんに渡し、料理ができるのを待つ。白と黒のシンプルな壁掛け時計は、正午を過ぎた辺りを指していた。休暇前は人であふれていた食堂も、今はサークルの集まりなどで来ているらしき学生が十数人いる程度である。

 これなら座席が確保できない心配はないと考えているうちに、頼んでいた料理が出てきた。トレーを座席に運ぶ間も、漂ってくる香りが食欲をそそる。

 今日の昼食は、カツカレー。学食ランキングでも、一二を争う人気メニューだ。空腹の具合とも相談して、思い切って大盛りを頼んでみた。値段はワンコインからはみ出してしまったが、それでも全然お得である。

「いただきます」

 両手を合わせ、織家は銀色のスプーンを手に取った。

 学食のカレーは、大きめの野菜がごろごろと入っている。定番のニンジン、ジャガイモ、玉ねぎに加えて、アスパラとナスまで投入されているのがうれしいポイントだ。厚切りのトンカツは、ルーが上からかけられているにも拘わらず、むたびにサクサクと小気味いい音を奏でてくれる。

 辛さは結構辛め。織家は辛い物があまり得意ではないが、うまが勝るので不思議と食が進む。スパイスにより額から噴き出す汗をハンカチでぬぐいながら、織家は一人カツカレーと向き合った。暑い日にえて食べる辛い物というのは、なぜこうも美味おいしいのか。

「やっと見つけた!」

 織家の至福のランチタイムは、そんな大声によって中断を余儀なくされた。

 声を発した女性は、自販機のある辺りから手を振り織家の方へ歩み寄ってくる。距離が近づくにつれて、彼女はとても背が高いことがわかってきた。

 モデル体形と言うのだろうか。タイトな九分丈のジーンズを穿いた足はすらりと長く、レトロな印象を受けるロゴマークがプリントされた短い丈のトップスからは、へそがちらりとのぞいていた。

 織家は、まだどことなく幼さの残る彼女の小顔に目をやる。知り合いではないので、後ろの席で集まっているサークルの関係者なのだろう。

 そもそも、織家はまだ大学で友達と呼べる存在を作ることができていない。なので、知り合いのはずがないのだ。間違って手を振り返さなくてよかったとこっそりあんしつつ、織家は食べかけのカツカレーに向き直る。

 だが、彼女はなぜか織家の向かいの席に腰を落ち着けた。スプーンをやや下げて目を向けると、彼女はにこにこと嬉しそうにこちらを見つめている。

「食事中にごめんね。あ、私のことは気にしなくていいから」

 そうは言われても、気になるに決まっている。見ず知らずの人に見つめられているうえに、食べているのはよりにもよってカツカレーの大盛りである。織家は、無性に恥ずかしくてたまらなくなった。

「顔赤いけど大丈夫? ここのカレー、結構辛いよね。水んでこようか?」

 彼女は心配そうにまゆひそめると、椅子から立ち上がる。

「あ、いいえ! 大丈夫です!」

「そう? ならいいけど」

 とりあえず、悪い人ではなさそうだった。

 座り直した彼女がセミロングでストレートの黒髪をき上げると、覗いた左耳にはピアスがジャラジャラとつけられている。怖くてピアスの穴すら開けられない織家には、どうにもそれが痛そうに思えた。

「ええと……どこかでお会いしましたっけ?」

 スプーンを皿に置き、織家の方からおずおずと尋ねる。

「ううん。そっちはたぶん初対面」

 自分の記憶力の問題ではなかったことに、ひとまずほっとする。だが、そうなるとなおさら話しかけられた理由がわからない。

 出会ってからずっと嬉しそうにしている彼女は、自身の胸元に手を当てて口を開いた。

「まずは自己紹介ね。私はなな。教育学科の一年で、十九歳」

「あ、同い年なんだね」

「そうそう。先輩に見えちゃった?」

 七瀬は満更でもなさそうだが、先輩に見えたというよりは、幼い顔つきと長身のギャップのせいで年齢不詳だったので、とりあえず敬語を使っていただけである。もちろん、本人には黙っておくが。

「私は織家紗奈。建築学科の一年だよ」

「織家ね。よろしくー」

 何とも気さくなあいさつだが、織家はまだ七瀬を信用できてはいなかった。話が長引けば、せっかくのカツカレーも冷めてしまうだろう。早期決着を望み、織家の方から問う。

「私に何か用? 悪いけど、サークルとか宗教の勧誘なら他を当たってね」

 悲しいことに、大学入学以降に織家に話しかけてくれた人は、そのどちらかしかいなかった。

「ああ、そういうんじゃないの」

 七瀬は笑って否定すると、身を乗り出して小声で尋ねてくる。

「織家ってさぁ、オカルト好きでしょ?」

 核心に触れるような言い方だったが、織家にしてみれば意味不明である。勘違いもいいところだ。

「嫌いだけど?」

「ええっ! 噓ぉ!?」

 噓偽りなく否定すると、七瀬は青天のへきれきとでも言うようにおおな声を上げる。少し離れた席の学生たちの視線を集めてしまっていることに気づき、織家は慌てて七瀬をなだめた。

「ちょっと、静かにして! そもそも、何で私がオカルト好きだと思ったの?」

「前にたまたま聞いちゃったの。図書館の外で、織家が電話で誰かと事故物件がどうとか、行くならいつがいいとかって話してるのを」

 しまった、と織家は頭を抱えた。間違いなく天木との事故物件調査に関する電話のやり取りである。かつに学内でそんな話をするべきではなかったと、今更ながら反省した。

 表の顔は依頼の絶えない人気建築士である天木は、裏で事故物件調査を行っていることを隠している。なので、どうにか誤魔化さなくてはならない。

「あ、あの電話はその……課題で事故物件を見に行くことになったの。事故物件って、建築業界では結構大きな問題になっててさ、レポートをまとめるには実際に現場を見た方がいいってことで。私は本当に嫌だったんだけど」

「へー。建築学科って、そんなことまでするんだね」

 口から出まかせだったが、どうにか信じてもらえたようだった。七瀬は脱力した様子で、椅子の背もたれに身を預ける。

「やっと見つけたのに、無駄足だったか」

 ためいき交じりのその声は、心底残念そうだった。

 七瀬は、学生のほぼいない夏休みにまで、わずかな望みにけて織家を探していたということになる。きっと、何か事情があるのだろう。それも、間違いなくオカルト絡みの。

「騒がせてごめんね。それじゃあ」

「……待って」

 立ち去ろうとする七瀬を、織家は反射的に引き留めた。

 天木と共にいくつかの事故物件調査を重ねてきたとはいえ、怖いものはまだ苦手だ。見たくなくても見えてしまう織家にとって、オカルト=怖いものという考え方はそう簡単に覆らない。

 だが、自分の力が困っている誰かの役に立つことも、事故物件調査を介して学んだ。

「……話を聞くくらいならできるけど」

 控えめな申し出に、七瀬は救われたような笑顔でこたえてくれた。

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