『事故物件探偵 建築士・天木悟の挑戦』

プロローグ

「……暑い」

 炎天下のよこはま市街地をゾンビのように歩きながら、おりは一人そうつぶやいた。

 ビル群の窓という窓が、夏の日差しをぎらぎらと反射している。焼けた路面は、生卵を落とせば冗談抜きで目玉焼きができるだろう。街路樹に止まる蟬の鳴き声が、体中から噴き出す汗に拍車をかけているように思えてならない。

 大学の夏休みは、高校よりもずっと長い。約二か月というこの期間をどう過ごすかは、当然それぞれの自由だ。

 気の合う仲間と遊びざんまいもよし。実家に戻りのんびり過ごすもよし。学生の本分である勉学に励むもよし。織家の場合は、もっぱらアルバイトに費やしていた。

「や、やっと着いたぁ」

 買い出しの品がパンパンに入ったポリ袋を両手に提げて、織家はビルとビルの隙間の狭い道を進んでいく。その先にあるのが、バイト先であるあま建築設計の事務所だ。

 元々立っていた古民家を改装しており、竹の塀に囲まれた黒い焼杉の外壁と、様々な形をした窓の組み合わせが面白い外観をしている。

 高層ビルに囲まれて立つレトロな建物は、隠れ家的な雰囲気をかもし出している。実際、わかりづらい立地にもかかわらずお客さんには好評のようだ。

 飛び石のアプローチを進み、玄関の引き戸を開けた織家はホールに崩れ落ちる。エアコンで適温に冷やされた事務所内は、まさに天国だった。

「ご苦労様、織家ちゃん」

 ねぎらいの言葉と共に差し出されたスポーツドリンクのペットボトルを、織家はラッパ飲みした。程よく冷えた水分が、体の隅々にまで染み渡る。

「ぷはーっ! 生き返りました!」

 そんな自分のはしたなさに今更ながら気づき、恥ずかしくなって縮こまる。その様子を見て、彼はハハハと楽し気に笑った。

 彼はそらはしけいろう。マッシュカットの黒髪に縁なし眼鏡をかけた童顔だが、年齢は三十を超えているというから信じられない。腕に抱かれているオッドアイの黒猫はヒゲ丸といい、空橋が横浜中華街で経営する『くろねこ不動産』の看板猫である。

「来てたんですね、空橋さん。ヒゲ丸も!」

 織家の心の癒しであるヒゲ丸は、差し伸べた手に自ら頰をこすりつけてくれた。

「それにしても、織家ちゃん一人にこんな大荷物の買い出しをさせるなんて、天木もひどいね。可哀想に」

 空橋は大学時代のホスト経験もあってか、さらりと女性を気遣うことができる。そんな彼に乗せられて、織家もついついじようぜつになってしまった。

「本当ですよ。酷い男です」

「酷い男で悪かったな」

 背後から、不機嫌な声が飛んできた。おそるおそる振り返ると、階段の辺りによく知る人物が立っている。

「た、ただいま戻りました……天木さん」

 口をへの字に曲げている彼こそが、この天木建築設計の代表である天木さとるだ。容姿端麗で頭脳めいせき。舞台俳優の父と元アイドルの母の下に生まれたサラブレッドで、依頼が絶えない引く手数多あまたの人気建築士である。

 だが、それは表の顔に過ぎない。

 裏では、自ら進んで事故物件の調査を請け負っている。強い霊感を持つ織家は、そんな彼にスカウトされて嫌々ながら働くことになったわけだが、天木は決して向こう見ずなオカルトマニアというわけではなかった。

 全ては、天木が独立後初めて建てた住宅『白い家』を救うための行動だったのだ。

 白い家は現在、原因不明の怪異に侵されている。居座る霊が強力過ぎて、現状では打つ手がない。だから天木は、あらゆる事故物件を調査することで、白い家の抱える問題を解決する方法を探し出そうとしているのだ。

 白い家は、織家にとっても自分を建築の世界に導いてくれたかけがえのない家だ。あの家を救いたい気持ちに賛同したからこそ、怖い気持ちをどうにか抑えてバイトを続けている。

「荷物を下ろしたらデスクに戻れ。まだ就業時間中だぞ」

「わ、わかってますよ」

 そんな言い方しなくてもいいのにと思っていると、天木が「それから」と言葉を付け加える。

「冷凍庫にアイスが入っている。好きな時に食べるといい」

「ホントですか? ありがとうございます!」

 喜んだ直後、織家ははっとなる。

 不機嫌から一転、アイス一つでご機嫌になってしまうとは、我ながら子どもみたいだ。そんな織家の心中を知ってか知らずか、天木はわずかに口元を緩ませていた。

 天木建築設計では、平和な夏のひと時が流れている。

 もちろん、それは次の事故物件調査依頼が舞い込むまでのつかの間の平穏でしかないのだが。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る